第二章「杉山構想」

陸軍省作戦課――その空気は、他とはまるで違っていた。


私が配属されたのは、正式には「作戦第二課」。

表向きは各方面軍の作戦調整や資料分析、実態としては――杉山元直属の戦略調整室だった。


先任の佐藤少佐が、私を案内してくれた。


「ここは“考える場所”じゃない。“読む場所”だよ、辻中尉。

将軍が何を読ませたいか、それを汲むのが我々の仕事だ」


意味がわからなかった。だが、ほどなくしてその言葉の意味を知ることになる。


机の上には、地図、各方面軍からの報告、経済資料、英米仏の新聞の翻訳文……

軍務と関係ない書類ばかりが整然と並べられていた。

その中央に、一枚だけ異様な資料があった。


『アジアの解放と欧米列強の脱落に関する試論(仮題)』――出典不明。


私はそれを手に取った。内容は未完成のレポートだった。

だが、震えた。


「今の戦争は、次の文明の土台を決める戦争である」

「我が帝国は“地図”ではなく“構造”を塗り替えねばならない」

「勝つことよりも、“どう終わるか”を考えねばならない」


私は息を呑んだ。


「これは――誰の文章ですか?」


佐藤少佐は静かに答えた。


「杉山閣下だ。彼は誰にも語らない。だが、たまに“こういうもの”を残すんだ。

読めるか?」


読めるか――。

いや、読まねばならないのだ。この男が見ている“戦後の地平”を。


その夜、私は遅くまで残って資料を読み込んだ。

情報の断片が、まるで違う世界の話のように頭に入ってきた。


翌朝、杉山が部屋に入ってきた。

彼は私の机の上の資料を一瞥し、無言で自席についた。


私は、意を決して声をかけた。


「閣下――、これは、“アジアを解放する戦争”だと、お考えですか?」


杉山は、手を止めなかった。書類をめくりながら、ただ一言だけ返した。


「辻中尉。君は“負けて勝つ”という意味を、考えたことがあるか?」


……負けて勝つ。


私は答えられなかった。

だがその言葉が、私の中の何かを確実に揺さぶった。


杉山元は、地図の上で勝とうとしていない。

彼は、“時間の流れの中で勝つ”つもりなのだ。


我々が「今」を戦っているとき、彼は“十年後”を考えている。


いや、それ以上かもしれない。

百年後、日本がどうあるべきかを、この男は設計しているのかもしれない。


私はその日、自分の立場を理解した。

私は、ただの作戦参謀ではない。

杉山構想という“見えざる設計図”の片隅に、ペン先を添える者になったのだ。

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便所の扉 @kesao

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