第2話:霧に追われる者
「誰か…助けて…」
かすかな女性の声が聞こえた。ニヴァリスは立ち止まり、周囲を見回した。
「どこにいるの?」彼は声の方向へ歩みを進めた。
霧が濃くなる中、彼は一人の少女を見つけた。木の根元に座り込み、膝を抱えていた。長い茶色の髪が顔を隠している。
「大丈夫?」ニヴァリスが声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。
まるで人形のように美しい顔立ちだったが、その瞳は恐怖に満ちていた。
「霧が…霧が私を追いかけてくる…」少女は震える声で言った。「私の記憶を食べようとしている…」
ニヴァリスは混乱しながらも、自分の父が霧に呑まれた記憶が蘇った。彼は決意を固め、少女に手を差し伸べた。
「僕についてきて。ここから出よう」
少女は躊躇いながらも彼の手を取った。その瞬間、奇妙なことが起きた。二人の手が触れ合うと、霧が二人を取り囲むように渦を巻き始めたのだ。
「これは…!」少女の顔が恐怖で歪んだ。
霧の中から、人型の影が浮かび上がった。それは実体がないようで、霧そのものが形を成しているように見えた。その存在は二人の方へとゆっくりと近づいてきた。
「動かないで」ニヴァリスは本能的に少女を背後に庇い、父の形見の銀の小刀を抜いた。
影は一瞬たじろいだように見えた。銀が何か特別な効果を持つのだろうか?
「私の名前はリヴィア」少女が突然、毅然とした声で言った。「あなたは?」
「ニヴァリス…だけど、今はそんなことを—」
「ニヴァリス、聞いて」リヴィアは彼の肩に手を置いた。「この霧の精霊は、名前を忘れさせようとしているの。自分の名前をしっかり覚えていて。そして…私の名前も」
彼女の言葉には不思議な力があった。ニヴァリスは自分の名を心の中で何度も唱えた。「ニヴァリス…ニヴァリス…」そして「リヴィア…リヴィア…」
霧の精霊は二人の周りをさまよい、時に突進してくるが、銀の小刀を向けると後退した。
「どうやって霧から逃げればいいの?」ニヴァリスは小声で尋ねた。
「私はこうして逃げてきた」リヴィアは小さな結晶を取り出した。それは雪の結晶のように美しく輝いていた。「これは記憶の結晶。強い思いが形になったもの」
「それで何をするんだ?」
「投げるの」
リヴィアは結晶を霧の精霊に向かって投げた。結晶が霧に触れると、まるで水に溶ける砂糖のように、霧が薄くなっていった。
「早く!」
二人は霧が晴れた隙に走り出した。森の中を駆け抜け、やがて開けた場所に辿り着いた時、ニヴァリスは振り返った。霧は森の奥に留まり、これ以上追ってこないようだった。
「あれは何だったんだ?」ニヴァリスは激しく息をしながら尋ねた。
リヴィアは遠くを見つめるような目で答えた。「霧の精霊…忘却の使者よ。人々の記憶を食べて生きている」
「じゃあ、噂は本当だったんだ…」
「あなたは勇敢ね」リヴィアは初めて微笑んだ。「普通の人なら逃げ出すわ」
「いや、実は怖かった…」ニヴァリスは正直に言った。「でも、見捨てることはできなかった」
リヴィアは真剣な表情でニヴァリスを見つめた。「あなたは特別な力を持っているわ。銀の刀が霧を払ったのを見なかった?」
ニヴァリスは刀を見つめた。それは単なる父の形見だと思っていたが…
「これが霧を払ったの?」
「ええ、でも一時的よ」リヴィアは立ち上がり、服についた雪を払った。「もっと強い力が必要になる」
「君は…いったい誰なんだ?」ニヴァリスは不思議そうに尋ねた。
リヴィアは少し間を置いてから答えた。「私も霧に追われている者。でも、追われているだけじゃないわ」
彼女は遠くの霧を見つめながら続けた。「私はこの霧と戦うために来たの。そして…記憶を取り戻すために」
「記憶?」
「ええ、私の大切な記憶が…霧に奪われたの」
リヴィアの顔には決意の表情が浮かんでいた。その瞳には、ニヴァリスが見たこともないような強さがあった。
「もし…もし良ければ、僕も手伝うよ」ニヴァリスは自分でも驚くような言葉を口にしていた。「僕の父も霧に消えたんだ。もしかしたら、何か関係があるかもしれない」
リヴィアは驚いた表情を見せた後、小さく頷いた。「ありがとう。でも危険な旅になるわ」
「それでも行く」ニヴァリスは迷いなく答えた。
雪が再び静かに降り始め、二人の肩に積もっていった。遠くから、クリスタリアの鐘の音が聞こえる。
これが、ニヴァリスの人生を永遠に変える出会いになるとは、この時はまだ知る由もなかった。
霧が晴れた空の向こうで、見えない何かが二人を見つめていることにも—。
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