第2話

 リリィは村への道を歩いていた。

彼女の手には血に染まった籠が握られ、銀髪は風に揺れて時折、血の滴が地面に落ちた。


 紫の瞳は静かに前を見つめ、足取りはいつもと変わらないほど穏やかだった。

だが、その小さな体は異様な光景を放っていた。白い服は破れ、赤黒い血が染み込み、彼女の手と顔には返り血が点々と付着していた。

森での出来事が、彼女の外見にだけ刻まれていた。


 村の入り口に近づくと、まず彼女を見つけたのは薪を運んでいた中年男だった。

彼は一瞬、目を疑った、リリィの姿が視界に入った瞬間、手にした薪が地面に落ち、乾いた音が響いた。


「リ、リリィ!? お前、何だその姿は!?」


 男の声は震え、驚愕に目を見開いていた。リリィは立ち止まり、静かに男を見上げた。


「森で薬草を採ってきました。おじいちゃんとおばあちゃんに頼まれたから」


 彼女の声はいつも通り、穏やかで無垢だった。だが、その言葉と血まみれの姿のギャップに、男は言葉を失った。彼は慌てて村の方へ叫んだ。


「誰か来てくれ! リリィが、リリィが大変だ!」


 その叫び声に反応して、数人の村人が駆けつけてきた。洗濯物を干していた女、畑仕事をしていた若者、そして井戸端で話していた老婆たち。皆がリリィの姿を見て息を呑んだ。


「何!? リリィちゃん、怪我か!?」「血だ! 誰の血だ!?」「一体何があったんだ!?」


 村人たちの声が重なり合い、混乱が広がった。リリィは騒ぎを静かに見つめていたが、やがて小さく首をかしげた。


「怪我はしてません。私、平気です」


 その言葉に、村人たちはさらに困惑した。彼女の体に目立った傷はない。

だから、血は明らかに彼女自身のものではない。

誰かの血だ。そして、その量は尋常ではなかった。


 そこへ、老夫婦が息を切らしてやってきた。リリィを我が子のように育ててきた二人だ。老女がリリィの姿を見て悲鳴を上げ、老夫がよろめきながら近づいてきた。


「リリィ! お前、無事なのか!? どこか怪我をしたのか!?」


老夫の声は震え、目には涙が浮かんでいた。老女はリリィに駆け寄り、彼女の小さな肩を掴んだ。


「どうしたの、リリィ! 誰かに襲われたの!? 教えておくれ!」


リリィは老女の手を感じながら、静かに答えた。


「おじいちゃん、おばあちゃん、心配しないで。私は大丈夫。森で薬草を採ってたら、知らない男の人たちに会ったの。それで…」


 彼女は一瞬言葉を止め、紫の瞳を老夫婦に向けた。そして、淡々と続けた。


「その人たちが私に変なことをしようとしたから、殺しました。三人とも」


 その瞬間、村全体が凍りついた。風さえ止まったかのような静寂が広がり、誰もがリリィを見つめた。

老夫婦の顔から血の気が引き、駆けつけた村人たちの目が驚愕に見開かれた。


「…何?」


 老夫が呟いた。声は小さく、信じられないという感情が込められていた。老女はリリィの肩を掴んだまま、震え始めた。


「リリィ…お前、今、何て言ったんだ?」「三人を…殺したって?」


 村人の一人が掠れた声で呟き、それが引き金となってざわめきが広がった。


「まさか! リリィちゃんがそんなことを!?」「嘘だろ!? あの小さい子が!?」「三人って…どうやって!?」


 リリィは騒ぎを静かに見つめていた。彼女にとって、それはただの事実だった。感情は伴わない。ただ、起こったことを伝えただけだ。


「ナイフを持ってた男の人たちが、私を捕まえようとしたの。それで、私、そのナイフを取って、刺したの。一人は首を、一人はお腹を、もう一人は背中を。そしたら、みんな死にました」


 彼女の説明は恐ろしいほど冷静で、まるで料理の手順を話すかのように淡々としていた。血に濡れた手を見せながら、彼女は続けた。


「それで、薬草を拾って帰ってきたの。おじいちゃんとおばあちゃんが待ってると思ったから」


 老夫婦は言葉を失った。老女の手がリリィの肩から滑り落ち、彼女は膝をついてしまった。老夫は目を閉じ、額に手を当ててよろめいた。

村人たちは互いに顔を見合わせ、信じられないという表情を浮かべていた。


「リリィ…お前、そんなことができたのか?」


 老夫がやっとの思いで口を開いた。リリィは小さく頷いた。


「できたよ。私、強かったみたい。びっくりしたけど」


 その言葉に、村人たちの間に新たな波紋が広がった。彼女の口調には自慢も恐怖もなかった。ただ、驚きだけが小さく混じっていた。


「でも、リリィちゃん…人を殺すなんて…!」


 若い女が声を震わせて言った。彼女はリリィを優しい子として知っていた。

村でいつも静かに微笑み、皆に愛される少女だった。

それが、こんな恐ろしいことを平然と話している。


「普通じゃないよ…そんな簡単に人を殺せるなんて…」


 別の男が呟き、恐怖の色がその目に浮かんだ。リリィは首をかしげた。


「普通じゃない?」

 

 彼女は初めて、自分が周囲と異なるかもしれないと感じた瞬間を思い出した。森での出来事。そして、今、村人たちの反応。彼女の中で何かが動き始めていた。


「おじいちゃんとおばあちゃんに教えてもらったよ。優しくしなさいって。殺しちゃいけないって。でも、あの男の人たちは私に悪いことしようとしたから…私、間違ったのかな?」


 その問いかけに、老夫婦は答えられなかった。老夫は目を潤ませ、リリィを見つめた。


「リリィ…お前は悪くない。だが…だがな…」


 言葉が詰まり、彼は顔を覆った。老女は立ち上がり、リリィを抱きしめた。


「私の子…私の可愛いリリィ…何があったとしても、お前は悪くないよ…」


 だが、その声は震え、涙がリリィの銀髪を濡らした。

村人たちは距離を取った。誰もがリリィを見つめながら、恐怖と困惑が入り混じった表情を浮かべていた。彼女はただそこに立ち、血に濡れた手で籠を握っていた。


「私、変だよね」


 リリィが小さく呟いた。村人たちの反応を見て、彼女は確信した。自分が普通ではないことを。だが、それが何を意味するのか、彼女にはまだわからなかった。


「お前は…化け物か?」


 一人の男が思わず口に出してしまい、周囲が息を呑んだ。リリィは男を見上げ、静かに答えた。


「わからない。私、ただ生きてるだけなのに」


 その言葉に、誰も何も言えなかった。

老夫婦はリリィの手を引き、家へと連れて帰った。村人たちはその背中を見送りながら、囁き合った。


「あの子…本当に人間なのか?」「影の森に住む者に、普通の者はいないって言うが…」「三人を殺したなんて…信じられない」


 家に戻ったリリィは、老女に体を拭かれ、新しい服に着替えさせられた。だが、彼女の紫の瞳は遠くを見ていた。


 心の中の湖面に投げ込まれた石は、沈んだまま波紋を広げ続けていた。


「おじいちゃん、おばあちゃん。私、何か悪いことした?」


老夫は目を伏せ、静かに言った。


「リリィ。お前は生きるために戦った。それが悪いことかどうかは…わしにはわからん。ただ、お前はわしの子だ。それだけは変わらん」


老女が頷き、リリィの手を握った。


「これからも一緒に生きようね、リリィ。お前は私たちの宝物だよ」


 リリィは小さく頷いた。だが、彼女の心の中では、答えのない問いが渦巻いていた。自分が何者なのか。なぜこんなにも簡単に人を殺せたのか。そして、なぜそれに何も感じないのか。


 窓の外では、影の森が暗く広がっていた。

風が木々を揺らし、不気味な唸り声が遠くから聞こえてきた。リリィはその音を聞きながら、静かに目を閉じた。答えはまだ遠くにある。でも、生きていく中で、いつか見つかるかもしれない。

そんな予感が、彼女の小さな胸に宿っていた。

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