冷たい少女の魔物語
倉田恵美
第1話
異世界エリンディアの辺境に広がる「影の森」は、昼なお暗く、風が木々の間を抜けるたびに不気味な唸り声を上げる場所だった。
この森の奥深くに、リリィという名の少女が暮らしていた。
彼女はまだ12歳。小柄で、透き通るような白い肌に、深い紫の瞳が印象的な子だった。長い銀髪が風に揺れ、まるで月光を織り込んだ糸のようだった。
リリィは孤児だったが、数年前、森の近くの村に住む心優しい老夫婦に拾われた。彼らはリリィを我が子のように育て、愛情を注いだ。
彼女はかつて、感情というものがよくわからなかった。誰かが泣いても、笑っても、彼女の心は静かな湖面のように波立たなかった。だが、老夫婦の温かい言葉や抱擁、村人たちの笑顔に触れるうちに、彼女は少しずつ「人として正しいこと」を理解するようになった。
殺してはならない。暴力を振るってはならない。優しくあるべきだ――そう教えられ、彼女はそれを信じた。
ただし、リリィ自身はその変化を意識していなかった。彼女にとって、善であることは自然な習慣のようなもので、深く考えるものではなかった。村で「良い子だね」と褒められると、彼女はただ小さく頷くだけだった。
ある日、リリィは老夫婦に頼まれて森の奥へ薬草を採りに行っていた。籠に摘んだ草を入れながら、彼女は小さく鼻歌を歌っていた。すると、背後の茂みがガサリと揺れた。
振り返ると、そこには三人の男が立っていた。ぼろぼろの服に身を包み、鋭い目つきでリリィを見つめる彼らは、森をうろつく盗賊だった。
「おや、可愛い子じゃないか」
一人がニヤリと笑い、ナイフを手に近づいてきた。
「こんなところで何してるんだい? おじさんたちと遊ばないか?」
リリィは一瞬、目を細めた。彼女の心に恐怖は浮かばなかった。ただ、老夫婦の教えが頭をよぎった。
「知らない人に付いていってはいけない」。彼女は静かに言った。
「帰ります。邪魔しないでください」
男たちは笑い声を上げた。
「生意気なガキだな!」
先頭の男がリリィの腕をつかみ、力任せに引き寄せた。
彼女の籠が地面に落ち、薬草が散らばった。その瞬間、もう一人がリリィの背後に回り、彼女の首にナイフを突きつけた。
「大人しくしろよ。痛い目にあいたくないだろ?」
リリィの紫の瞳が静かに男たちを見据えた。彼女の心は依然として穏やかだった。だが、次の瞬間――何かが起こった。
男の一人がリリィの服を乱暴に引き裂こうとしたその刹那、彼女の小さな手が動いた。
ナイフを持った男の手首を、信じられない速さでつかみ、ひねった。骨が砕ける音が森に響き、男が悲鳴を上げた。
だが、その声はすぐに途絶えた。リリィは男のナイフを奪い取り、迷いなくその喉を切り裂いた。
血が噴き出し、男が地面に崩れ落ちる。
残りの二人が呆然とする中、リリィは振り向いた。
彼女の表情は変わらない。穏やかで、無垢なままだった。
一人が「お、お前…!」と叫び、剣を振り上げて襲いかかってきた。リリィは身をかがめ、剣の下をくぐり抜けると、奪ったナイフを男の腹に突き刺した。一撃だった。
男はうめき声を上げて倒れ、動かなくなった。
最後の男は逃げようとした。
だが、リリィの足が素早く動き、男の背中に飛び乗った。彼女の小さな手が男の首を締め、力任せに地面に押し倒す。そして、ナイフが男の背中に深々と突き刺さった。
森に静寂が戻ったとき、三人の暴漢は血まみれの亡骸と化していた。
リリィは立ち上がり、息を整えた。彼女の手にはまだナイフが握られていたが、血に濡れたその刃を見ても、彼女の心は動かなかった。
恐怖も、罪悪感も、喜びもなかった。
ただ、静かだった。
だが、ふと、彼女は自分の手を見つめた。血に染まった小さな手。散らばった薬草。倒れた男たち。
そして、彼女の中で何かがひらめいた。
「…あれ?」
リリィは首をかしげた。
彼女は今、三人を殺した。しかも、なんの躊躇いもなく、あっさりと。
普通なら、泣き叫ぶか、震えるか、あるいは後悔するはずだ。
老夫婦が教えてくれた物語の中の英雄でさえ、敵を倒した後に心を痛める場面があった。村の子供たちが虫を踏み潰してしまったときでさえ、目を潤ませていた。
なのに、彼女は平気だった。
まるで、草を摘むように、木の実を拾うように、自然に殺してしまった。
「私、変だ」
リリィは呟いた。
初めて、自分の内側に目を向けた瞬間だった。
彼女はこれまで、自分が普通だと思っていた。
老夫婦に愛され、村人たちに優しくされ、教えられた通りに生きてきた。だが、今、彼女は気付いてしまった。
彼女の中には、何かが欠けている。普通の人が持つはずの「何か」が。
リリィはナイフを地面に落とし、血に濡れた手をじっと見つめた。彼女の紫の瞳に、初めて小さな波紋が広がった。それは、驚きだった。自分がこんなにも簡単に人を殺せることに、自分がそれに何も感じないことに、彼女は驚いていた。
森の風が冷たく頬を撫でた。リリィはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて籠を拾い上げ、散らばった薬草を丁寧に集め始めた。彼女の手は血で汚れたままだったが、彼女は気にしなかった。集め終わると、彼女は立ち上がり、村への道を歩き出した。
その背中は、いつもと変わらないように見えた。
だが、リリィの心の中では、静かな湖面に投げ込まれた石が、ゆっくりと沈んでいくような感覚があった。
彼女はまだ、自分が何者なのかわからない。ただ、これからも生きていく中で、答えを探さなければならないのかもしれない――そんな予感だけが、彼女の小さな胸に宿っていた。
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