第2話 沈黙する呪いと、自分へのブーメラン

 ごう、と風が吹き抜けた。


 渓谷沿いの細道。両側を切り立った岩壁に挟まれたその場所は、昼でも薄暗く、湿り気を帯びた空気が辺りに漂っていた。


「来るよ、前方三体。雑魚だけど、こっちに気づいた」


 先頭を歩いていたリーナが弓を引きながら言う。鋭い視線の先には、岩の隙間を縫うようにして忍び寄る魔物――牙の伸びた小型のリザードマンがいた。


「処理する」


 マルヴェインが手を掲げ、符のような術式を宙に描く。淡い青光が指先から放たれ、それが仲間の武器へと転写された。


 武器強化の補助術。さすがにボス級ではないが、地味な嫌らしさを持つ雑魚相手には十分すぎる支援だ。


「そっちは頼んだ。こっちは二体」


 ガルザンが重い斧を肩に担ぎ、岩壁に隠れた敵の進行方向へ歩を進める。

 そして、レオンも静かに前に出た。

 彼の指先には、小さな火球が揺らめいていた。


(……いける。問題ない)


 そう思っていた。


 だが。


「――っ!?」


 魔力が、指先で途切れた。


 ふと、今しがた放とうとした火球が、火花のようにパチンと弾けて消える。集中が乱れたわけではない。詠唱も術式も、何一つ間違っていなかった。


 なのに、力が出ない。


「……っ、グレア・ブレイズ!」


 もう一度。今度は気合と共に魔法を発動させる。


 だが、飛び出した火球は、いつもよりひとまわり小さく、そして飛距離も短かった。リザードマンの脇腹を掠めるだけで、直撃にはならない。


「レオン!?」


 リーナの声が響く。


 咄嗟に、彼女の放った矢が魔物の喉を撃ち抜いた。魔物は声をあげる暇もなく崩れ落ちる。


「……助かった。すまない」


 レオンは歯を食いしばりながら呟いた。自身の火球が外れた事実が、何よりも重く胸にのしかかる。


「なにやってんのよ。レオンらしくないじゃん」


 戦闘を終えたリーナが、眉を寄せながら近づいてきた。


 その言葉は責めるものではなく、純粋な驚きだった。彼女にとって、レオンの魔法は常に正確で信頼できるものだったからだ。


「……すまない。ちょっと集中が切れたかも。昨日あまり寝てなかったからな」

「うーん……?」


 リーナは釈然としない顔で見上げた。だが、それ以上は言わなかった。


「気のせいかもしれないけど、最近ちょっと魔力の出が悪くない?」

「気候のせい、かもしれないな。寒暖差があると、集中しづらいんだ。……本当に、大したことはないよ」


 レオンは、いつも通りの笑みを浮かべた。だが、言葉の端にはわずかな揺らぎがあった。


「……あたしも、なんかヘンだなとは思ってたよ」


 斧を背負いながら、ガルザンがぼそりと呟いた。


「魔法の流れってさ、風みたいなもんで、いつもそばに吹いてるのがわかるもんだけど……アンタから、最近その風、あんまり感じない」


 それは、長年レオンと共に過ごしてきた仲間の直感だった。


「でもまあ、まだやらかしてねえしな。少し休めば戻るってなら、それでいいけどよ」


 言いながらも、彼女の目は鋭く、どこか様子を探るような色を帯びていた。


「……すまないな。ありがとう」


 レオンは短く礼を言い、視線を落とす。


 見えない汗が、背中を伝っていた。手のひらには、かすかな震え。魔力の流れは、明らかにおかしい。


 自分でも、自覚があった。


 これはただの疲れではない。


 確実に、何かがおかしい。




 探索を終えた一行は、近隣の中継キャンプに戻ってきていた。


 岩山の麓に設けられた木製の休憩所。椅子とテーブルが設置され、仮設ながらも焚き火用の炉があり、旅人や冒険者が簡単な休息をとるには十分な設備が整っている。


 陽はすでに傾きかけており、空の色が茜色に染まりはじめていた。


「っと……矢の数、今日は想定通りってとこかな」


 リーナが腰に装着した矢筒を確認しながら呟く。


「アタシの斧も今のところ欠けなし。ちゃんと砥いだ甲斐あったな」


 ガルザンが得意げに言いながら、腰を下ろすと豪快に背を反らせて伸びをした。


 だが、レオンだけは静かだった。


 焚き火の前に座り、片手を開いたり閉じたりしながら、何度も自分の手のひらを見つめている。


 その様子を、マルヴェインがじっと見ていた。


 クロークのフードを外し、彼――いや、彼女は静かに歩み寄る。細身の体からは想像もつかないほど、静かな圧力があった。


「……レオン。少しいいかい?」


 マルヴェインの問いに、レオンは小さく頷く。

 そして、ふたりは少し離れた場所へ移動した。風除け用の岩壁の影。人目につきにくい場所だ。


「魔力の流れが乱れている。……気づいているね?」


 静かだが、断定するような言葉だった。

 レオンは、わずかに眉をひそめた。


「……よく見ているんだな」


「気づかない方が不自然だよ。私は君の魔力の波長を毎日見ている。今日の君は、まるで線が切れたような断続的な気配だった」


 マルヴェインの声に驚きはない。むしろ、以前からうすうす感づいていたような口調だった。


 レオンは、ほんの一瞬、迷った。


 あの夜のことが脳裏をよぎる。焚き火の光、ユウトの叫び、そして去り際の呪詛めいた言葉――


 『後悔しても、もう遅いからな……!』


 そのとき、何かをされた。直感は確かにそう告げている。


 だが。


「……まだ、確証がない。調子が悪いのは事実だけど、何かの影響だと言い切れる状態じゃない」


 そう口にした自分に、レオン自身が驚いていた。


(なぜ……? なぜ言わなかった?)


 マルヴェインなら、他の誰より冷静に、論理的に受け止めてくれるはずだった。


 それでもユウトの呪いの可能性を口にするには、何かが引っかかっていた。


 それは、もしかすると、ユウトを断罪した“自分の言葉”だったのかもしれない。


 ――「伝えない支援は信頼を損なう」

 ――「貢献してるつもりでも、伝えなければ意味がない」


 その言葉が、自分に向けられて跳ね返ってくる感覚。


「レオン」


 マルヴェインの声が、少しだけ柔らかくなる。


「君が黙って支えることを選んだのなら、それはそれで理解する。だが、私たちはチームだ。もし君に何かがあって、私たちが知らずにその“穴”を埋めようとして、誰かが傷ついたら──君はそれを望むか?」

「……それは……」

「信頼とは、力のことじゃない。自分の弱さを、誰かに託すことでもあるんだよ」


 静かに、けれど確かに届く声。


 レオンは、ぐっと喉の奥を詰まらせた。


 言いかけてやめたあの言葉が、再び口の端まで上がってくる。


(言えよ……レオン)


 自分の中の声が囁く。


(お前は、ユウトとは違うだろ?)




 その夜。


 中継キャンプの小さな寝台に腰掛け、レオンは魔導具の調整器具を手にしていた。


 普段なら、集中して道具の状態を確かめる時間は心が落ち着くひとときだった。だが今は、いくら魔石の共鳴波を調整しても、奥底にまとわりつくような重さが取れなかった。


 まるで、自分の中に他人の手が差し込まれているような感覚。


 魔力の流れは日に日に鈍く、重く、曖昧になっていく。


 自分でも、わかっていた。


(……このままじゃ、戦えない)


 ふと、かすかな焦げ臭さを感じた。いつもなら制御できる火球の余熱が、今は熱量を読み違えたように器具の表面を焼いている。


「……っち」


 軽く舌打ちして、レオンは器具を机に戻す。


 冷静でいようとしても、感情が揺れる。いや、むしろ冷静であろうとする自分の“仮面”が、内側から軋んでいた。


 そして――思い出すのは、あの夜の光景だ。


 ユウトの叫び。彼がぶつけた拳。そして……最後に言い残した、あの一言。


 あの時の目は、本気だった。狂気をはらみながらも、あれだけの執念を向けられたのは、自分だけだった。


(……呪い。間違いない)


 誰にも断定はできないが、自分にはわかる。


 この違和感は、魔力の経路そのものに干渉している。自然な不調ではありえない。


 けれど――それを仲間に言えない自分がいる。


 言えば、きっと誰かがユウトを追おうとする。マルヴェインなら、真っ先に行動に出るだろう。リーナやガルザンだって、許さないはずだ。


 その結果、誰かが傷つくかもしれない。


 そう思うと、どうしても“言う”という選択に踏み切れなかった。


 だが、心のどこかで、もう一つの理由があった。


 それは――


(俺は……)


(俺は、ユウトと……同じことをしようとしてるのか?)


 自分だけで何とかしようとして、異変を黙って抱えて、支えているつもりになって。


 それって……ユウトがやっていたことと、何が違う?


 あの夜、自分は彼に言ったはずだった。


 『黙ってたら、気づけるわけない。信頼ってのは、伝えることから始まるんだ』


 その言葉が、今、まっすぐに自分の胸に突き刺さる。


 あれは彼に向けた正論だった。けれど、今となっては、自分自身にも向けられる刃だった。


 (違う。俺は、あいつとは違う……)


 そう思いたかった。


 でも、黙っていた。黙って、耐えて、誰にも言わずに……。


 同じ穴に、落ちかけていた。


「……マルヴェイン」


 レオンは、深く息を吸って立ち上がる。


 それから、キャンプの隅にいたマルヴェインに歩み寄る。


 彼女は焚き火を見つめていた。静かに、揺らぐ炎の先に、何かを探しているような横顔だった。


「さっきは、言いかけてやめた」


 その声に、マルヴェインは視線を向けることなく、ただ頷いた。


「知ってるよ」

「呪い、かもしれない。……ユウトにかけられたんだと思う。あいつが最後に残した言葉……たぶん、あれが合図だった」


 レオンの言葉に、マルヴェインはゆっくりと顔を上げる。


 だが、驚いた様子はない。ただ、瞳の奥にかすかな陰りが差した。


「君がそう感じたなら、まずはその可能性から検証しよう。君の魔力に干渉している何かがあるなら、痕跡は残っているはずだ」

「……ありがとう。けど……もし、もし本当にこのまま魔力が使えなくなったら――」


 レオンは言葉を切った後、深く息を吐き、静かに続けた。


「……そのときは、俺を追放してくれ。足手まといになったって思ったら、迷わず切り捨ててほしい」


 その声は決意に満ちていたが、どこか寂しげでもあった。


 マルヴェインは黙ったまま、しばらくレオンを見つめていた。


 そして、ゆっくりと首を横に振る。


「……それは、最終手段だ。今の時点でそんなことを口にするのは、あまりにも早すぎる」


 そして静かに言葉を重ねる。


「君は仲間だ。役に立つからいるわけじゃない。信頼しているから、隣に立っているんだ」


 その言葉に、レオンの肩がわずかに震えた。


 信頼。かつて自分が重視していたその言葉が、今は人から向けられることに、こんなにも重く、温かく感じられるとは思わなかった。


「……ありがとう。マルヴェイン」



 ◾️



 夜の静けさの中、キャンプの片隅に設けられた簡易キッチンのそばで、ガルザンは鉄鍋の中身をかき混ぜていた。


 煮込まれているのは、狩った獣の肉と保存食材を使った即席のスープ。香辛料の効いた匂いが、ひんやりとした夜気の中に広がっている。


 その横で、リーナが黙って矢を一本ずつ手に取っては点検していた。矢羽根のゆがみ、軸の曲がり、細かくチェックしては、使えるものと予備に回すものを分けていく。


 ふと、リーナがぽつりと呟いた。


「……ねえ、ガルザン」

「ん?」

「レオン、なんか、無理してない?」


 矢を持つ手が止まっていた。リーナの表情には、心配と――少しだけ、悔しさが浮かんでいた。


「魔法の調子が悪いのもそうだけど、……あの人、自分のことは絶対平気って言うでしょ? 辛くても、調子悪くても、問題ないって」


 それは、これまで幾度となくレオンと共に戦ってきた中で、リーナが一番感じていたことだった。


 強い。優しい。冷静。頼りになる。


 ――でも、頼らせてはくれない。


「……ほんとは、もっと頼ってほしいのにな」


 リーナの声は、細く静かだった。


 そんな彼女を見て、ガルザンは無言で鍋の中身をかき混ぜる。火の加減を調整し、ふたを被せたあとで、ようやく口を開いた。


「強い奴ほど、そういうもんだよ」

「……?」

「全部自分で背負って、黙ってなんとかしようとして。そんで、限界になってやっと誰かに打ち明ける。……そういうかっこ悪さを見せるのが怖ぇんだ」


 ガルザンの目は、焚き火の光を映していた。


「レオンは強いよ。でも、たぶん……完璧であろうとしすぎてるんだろうな」


 リーナは小さく頷いた。


「……あたし、怒らせたかな。さっきレオンらしくないって言っちゃったし」

「あれは気にしてねぇだろ。……っていうか、あの男、たぶん今頃、自分の矛盾に気づいてる頃じゃねぇかな」

「矛盾?」

「ユウトに言ったろ。黙って支えても伝わらなきゃ意味がないって。今のレオン、そっくりそのまま、そのセリフがブーメランしてんだよ」


 リーナの目が丸くなる。


 けれど、すぐに納得したように小さく息をついた。


「そっか……」

「ま、自分で気づいたなら大丈夫だ。あいつ、自分には厳しいからな。むしろ話さなきゃって思い始めたら、早いぜ」

「うん。……信じてる。レオンのこと」


 リーナは微笑んだ。その笑顔には、ただの憧れではなく、支える意志が宿っていた。


 誰かに守ってもらうだけじゃない。自分もまた、隣に立ちたい。その想いが、彼女の言葉に込められていた。


 鍋の蓋がカタリと鳴る。


「お、いい頃合いだな。スープ、できたぜ」

「うん。……レオンの分、あたしが持ってくよ」

「へいへい。焦げてねぇといいけどな」


 そんな軽口を交わしながら、ふたりはそれぞれの仲間としての役割を果たしていく。


 

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