第20話 無視

 

 正治は婚約者知子が居ながら心の中はハルの事で一杯だったが、あの当時飛行機はまだ北海道には開通しておらず、遠く離れた北海道に行くには相当の時間がかかった。


 だが、静子とは学校で同じ先生として始終顔を合わせて、親睦会でも話す機会が増えていた。終戦直後のほんのわずかな期間共に行動しただけの女性が、頭から片時も離れない。それでも親子と言うだけあって静子は本当にハルに生き写しだ。


 いつの頃からか正治の中にハルと静子が同化してしまい、1つのものと認識するようになって行った。静子が新任先生として正治の目の前に現れさえしなければ、例え冴えない知子であっても出世の為にと割り切って、それはそれで幸せな結婚をしていたに違いない。


 出世か?愛か?迷う正治だが、先ずはその前に静子を振り向かせなくては愛は手に入らない。結婚に躊躇する正治は教務主任の地位を利用して静子と接近しようと考えた。


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 正治は若くして、この江東台中学のナンバー3の地位である教務主任だ。


 ※教務主任:校長や、副校長・教頭などの管理職の補佐をしたり、校長の監督を受け、教育計画の立案、その他の教務に関する事項について連絡調整及び指導。例えば時間割の作成。それから…学校行事の年間計画を立て、各担当の先生と話し合い調整する。


 教務主任とは学校の全業務を担っていると言っても過言ではない大変な仕事だ。それでも新任の静子にとっては、信頼できる、時としては未熟な自分の相談に乗ってくれる頼もしい存在でもあり、時としては怖い存在で、教務主任に言われればどんな事を言われても逆らえない存在だ。


 正治はそんなナンバー3の地位教務主任でありながら、静子に対しては時には厳しいが、大変優しくて親切な先生だ。


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 静子は先生達の間では非常に美しい容姿からマドンナ先生と呼ばれて、特に独身の男性教員からは絶大な人気を誇っていた。このマンモス中学には独身の若い先生も多く、静子の余りの美しさにそれを妬む女性教員もいた。


「何よ。只容姿が良いだけで、男性教員からチヤホヤされて……皆で無視しましょうよ?」


「本当よ。チョット綺麗だからって調子に乗っちゃって。また生徒にまで色目使っちゃって1人だけ女王様気取りで、私たちって男性からしたら、その他大勢で全く相手にされていないって事よ。何とかしなくちゃ……」


「本当に辞めて頂きたいわ。これじゃ私たち独身の先生は永遠に恋愛が出来ないって事?」


 美しすぎるという事は罪な事。女性教員からは嫉妬の嵐。一人っ子でおっとり育った静子は鈍感で、そんな事が起こっていようなど思いもつかなかった。ただ最近今まで一緒に帰っていた同僚の先生が最近やけに余所余所しくなり、一緒に帰ろうとしても理由をつけて断るのだ。余りにもそういう事が続いたので、思い余って聞いて見た。


「木村先生私何か失礼なことしたかしら?知らず知らずに人を傷つけている事もあるかも知れないので……」


「……別に……あっ……私今日チョッと用があるのでお先にね」


 この様な煮え切らない様子。そこで…あと1人話せる先生。それは保健室の先生(養護教諭)。保健室の先生は仕事柄、ほかの教員と接する機会が少ないので万が一にも話が漏れる事は無い。またこの先生は悩み事にも親身になって聞いてもらえるので、客観的な意見がもらえるかも知れない。そう思い休憩時間に保健室に行き相談してみた。


「先生チョッと聞いていただけないかしら?最近女の先生がそっけないっていうか……そして…いつも一緒に帰っていた先生までもが、避けているっていうか?」

 

「……それはあなたお綺麗だから、きっとやっかみ半分だと思いますよ。暫く様子を見たらどうですか?私もそれと無く職員室の様子を調べてみます」


 話を聞いて貰って少し肩の荷が降りた静子だった。


 実は…保健室の先生は大方は保健室にいるが、昼食時には職員室で校長先生や事務員さんと食事を取っていた。その時に事務員さんに職員室の静子さんに対する女性教員の反応を聞いてみた。


「嗚呼……結局静子先生は男性教員たちからマドンナ先生と呼ばれて、絶大な人気があるので、他の先生方は相手にされていないとふてくされて面白くないんですよ!」


 それでも…一向に事態が改善されないので、またしても保健室のドアを叩いた静子は養護教諭に相談した。すると養護教諭は早速的確な話してくれた。


「結局はあなたがお綺麗で目立つので嫉妬なのです。どうしようもない事です。でも…真摯に教育に取り組み謙虚さを忘れずに行動なさっていれば、いつかは分かってもらえる日が来ますよ。あせらないで……」


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 養護教諭は昼食時に校長や教頭、教務主任、事務員さんなどと食事をする機会が多い。結局教務主任も教員の他、時間割の作成などがあるので他の教員とはズレが生じ、養護教諭たちと昼食を一緒に取る機会も多くなっていた。


 そこで…養護教諭は静子先生が孤立している事を少しだけ話してみた。


 正治は自分の身の上を思い出して静子に重ね合わせた。今でこそ婚約者が教育長のお嬢様なので誰も手も足も出せないが、東京高等師範学校の時に柔道部の先輩の憧れの少女を取ったと言って、半殺しの目に遭った事を思い出した。


 どういう事かと言うと、ハンサムな正治は高身長に加えて小顔のハーフのようなイケメンでスタイルも抜群。当時近くにあった女子高校の生徒の注目の的だった。


 一方の柔道部の先輩はがっしりした体格のボス的存在。自分の恋する少女が正治に首ったけだと知って、許せない気持ちで一杯。そこで待ち伏せして、正治は顔の判別もつかないほどぼこぼこに殴られてしまった。


 その苦い過去を思い出した


 男でもイケメンに嫉妬するのだから女性は尚更だ。静子を気の毒に思う正治だったが、今までは思い人の娘と言う認識だったのだが、この女を守りたいと強く思った。正治は気付いた。自分の中で静子は大変大きな存在となっていたことを……。


 そこで…正治は女性教員を放課後会議室に集めて言い放った。


「最近1人の先生を集団で無視する行為を何度か目撃したとの情報を耳にしました。仮にも生徒の見本である筈の大の大人が、それも生徒の見本である先生が、何という恥ずかしい行為!教師にあるまじき行為!誰とは言いません。今度この様な事を耳にしたら即移動して頂きます。教員になりたい人は五万といます。代えはいくらでもあるという事です。分かりましたか?女性である前に生徒の見本である教員である事を肝に銘じて下さい!」


 こうして…長らく続いた静子に対する無視は無くなり、以前の日常が戻って来た。


 静子は教務主任の正治が女性教員に忠告したお陰で、陰湿な無視がなくなった事を養護教諭から聞いて、正治の事を頼もしい存在と同時に、尊敬と憧れの心が芽生え始めた。


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 静子の心に正治に対する熱い思いが芽生え初めたのだが、相手は教育長のお嬢様の婚約者だ。諦めるしかない。


 そんな時に静子に執拗に言い寄る男が現れた。東大卒のインテリで、静子の家の近所に住むお友達洋子の従兄だった。


 静子と洋子は同級生で剛と言う学生は愛知県から東京大学に進んだ学生だった。洋子には兄明がいて明と剛が仲良しだったので、静子はよく顔を合わせていた。


 だが、後で分かった事だが、ガリ勉の剛が勉強を放ったらかしてまで、従兄弟の家に遊びに来るのには訳があった。それはズバリ静子目当てだったのだ。


 4人は一緒に海に出掛けたり、小旅行に出掛けたりしていた。

 だが、大学を卒業した剛は祖父が議員なので勉強の為海外のケンブリッジ大学に留学していたが、名誉博士号を授与されて帰国。祖父の地盤を継ぐつもりだったが、訳ありのちに市長となった人物。


 留学から帰って来た剛は今も心に熱く焼き付き離れない静子に思いをぶつけた。


 一方の静子は剛の事を、たまに遊びに行くといる友達の従兄くらいにしか思っていなかった。その頃静子には正治に対する淡い恋心が芽生え始めていた。


 正常な日常に戻った事で、静子は以前のように仲の良い木村先生と一緒に帰っていて恋バナも同僚に打ち明けていた。 


「私ね……友達の従妹に告白されたのだけれど……どうしようか……迷っているのよね?」


「付き合いは長いの?」


「ぅうううん?友達のお兄さんと剛と私4人で。あちこちには出掛けているわ」


 そんな噂は直ぐに広がるものだ。静子に彼氏がいると知った正治は婚約者知子が居ながら、とても悲しい思いになった。


 正治はこの時初めて分かった。

(俺は知子ではなく静子を愛し始めている) 


 もう遅いかもしれないが、言わないで後悔するより、たとえどのような結果になろうと告白して敗れてもそれは当然の事。そう思い婚約者知子が居ながら知子との事は無かった事にするつもりで、告白した。


「静子さん僕は初めて会った時からあなたに心を奪われていました」


「本当にですか?私もです!でも……あなたには知子さんが」

 

 この恋の行方は?



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