第18話 母ハル
海斗の曾祖父正治青年は、無事静子の母ハルを北海道に送ることが出来てホッとした。
「ハルさんこれからこの地でどうして生きて行くのですか?」
「大丈夫です。これからは娘静子を探すことが目標です。本当にありがとうございました。危険な男には気を付けて生きて行きます」
「僕に何かできることがあればおっしゃってください」
「大丈夫です」
「ああ……あのーあのー今度……あのー」
「どうしたのですか?私はこの地で頑張って生きて行きます」
正治青年は文学青年で女性に告白したことなど一度たりとも無かった。もうこれで永遠の別れとなるかも知れないので、今の思いを告白したいが、純情な正治はどのような言葉を発して良いか皆目見当がつかない。只々美しいハルさんを指を加えて見詰めることしか出来ない。
「今度逢えたら嬉しいです」そういうのが精いっぱいだったが、声が上ずり小さかったのでハルにはその言葉は届かなかった。
「今何か言われました?」
「……あっ……あのーあっ!いえ」
正治は思いをとうとう伝えることが出来なかった。
こうして2人は別れた。
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海斗の曾祖父正治青年は師範学校を卒業後教員となっていた。
そして時は流れ東京都江東区の中学に勤務していた時に、正治はどこか懐かしい思いを抱く新任の先生に出会った。早川静子という非常に美しい先生でマドンナ先生と噂になっていた。
正治はそれが何なのか分からずに、いつも静子に対して不思議な思いを抱いていたが、そんな時に話す機会が訪れた。それはこの江東台中学では周期的に懇親会が催されていた。
いつも居酒屋で行われるのだが、そんな時にたまたま隣の席だったのが静子だった。正治は隣の席だったので、今まで抱いていたこの懐かしい思いを探り出したくて、少し立ち入った質問をぶつけた。
「静子先生は今一番の関心事は何ですか?」
「勿論生徒に教える勉強方法をどのように教えたら分かってもらえるかと、いうことですが、もう1つは海で亡くなった母の消息です。多分亡くなっているとは思うのですが?一縷の望みを抱いているのです」
その時ピンときた正治だった。
(そうだ。もう15年ほど経つだろうか?あの時助けたハルさんに、この静子先生がそっくりだったんだ。俺は本当はあの時ハルさんに淡い恋心を抱いていたのかもしれない。だから…あの時、いくら初夏だといえども千島列島の夜は寒いのに、荒れ狂う高波、厳寒の海にも飛び込むことが出来たのだ)
「お母さんのお名前はなんと言われるのですか?」
「ハルと申します」
「嗚呼……嗚呼……もし間違えでなければ…確かあの時は千島列島から北海道に引き揚げ船の船の中で、僕は静子先生にそっくりな女性ハルさんを知っています。終戦直後後静子先生は千島列島から北海道に引き揚げてきましたか?」
「嗚呼そうです。樺太の戦いで千島を追われ北海道に渡りました。母を知っているとはどういうことですか?私は母はあの時亡くなったと聞いていたのです」
「イエイエ確かに海に捨てられた時はお母さんは衰弱なさっていましたが、北海道に渡り僕と別れた時は元気でした。だから…多分今もご健在だと思います」
「本当ですか。私はてっきり亡くなったものとばかり思っていたのです。母に会いたいです」
「実は僕はハルさんに僕の住所を教えておいたのです。ハルさんがあんな酷い目にあったので心配になり、何かあったら僕に連絡くださいと言って渡したのです。そして数年後結婚したという連絡を頂きました。もしお母さんに会いたいのであれば、この住所に行ってみて下さい」
「嗚呼…ありがとうございます。休みが出来たら行ってみます」
「……ちょっと待って下さい。僕もハルさんに是非とも逢いたいです。ご一緒しませんか?」
「でも…2人で出かけるのはちょっとダメです。先生には婚約者がいらっしゃるのにそのようなことは…」
「じゃあ私の婚約者も一緒に3人で北海道に行きましょう。僕もハルさんのことが気に掛かっていたのです」
こうして夏休みも目の前に近づいていたので、3人で夏休み期間中に北海道に行く約束をした。
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いよいよ明日北海道に渡り母に逢うことが出来る。そう思うとわくわくして夜も眠れなかった静子。
こうして予定の時刻に上野駅に向かった。蒸気機関車を待っていると蒸気機関車が来たので正治の婚約者と3人で札幌に向かった。そして…母ハルが結婚したと言われる住所に辿り着いた。
だが、表札には名前がなくそのアパート103号室には誰も住んでいなかった。そこで暫くそこで待っていると、住民らしき女がアパートに入ろうとしたので聞いて見た。
「すみません。103号室のご夫婦は引っ越されたのでしょうか?」
「嗚呼…中田さん夫婦ね。急に居なくなったので……分かりませんね?大家さんに聞いてみたらどうですか」
そこで同じ敷地の大家さんの家のベルを鳴らした。
ブ―――!ブ――――!ブ―――!
暫くすると小太りのおばさんが出て来た。
「何か用?」
「あのー103号室の中田さんはもうこのアパートには居ないのでしょうか?」
「嗚呼……いないっしょ。そんな事……わかるべか……したっけおやすみー」
そう言うと慌てて戸を閉めた。どうも夜逃げ同然でこのアパートから姿を消した様子で、滞納金も残っていてあのような態度に出たらしい。事情を聴いた静子は母の残した滞納金を清算して、大家さん宅を後にした。
どうも旦那さんがギャンブル好きで母ハルは苦労していた様子。そして離婚して母ハルはある会社社長宅のお手伝いとして働き出したと聞いたので、その邸宅に向かった。到着して早速インターホンを押してみた。
”ピンポンピンポン” ”ピンポンピンポン”
「はーい!お待ちください」
その声は正しく母ハルの声だった。
胸の高鳴りが抑えられない静子と正治。するとその時門の前に現れた母ハル。15年前に突如生き別れとなってしまったが、こうして…やっと会えた2人。
「ぅうううっ!( ノД`)シクシク…やっと会えたのね。(´;ω;`)ウッ……10歳で別れ一度たりとも忘れた事がなかった静子。探してくれてありがとう。本当に会いたかったわ。ぅうううっ!」
「( ノД`)シクシク…お母さん私だって……もうお母さんは死んだと聞いていたのよ。するとこの山本先生に母は生きていると聞いて、いても立っても居られなくて会いにやって来たのよ。やっと会えたのね。嬉しい。ぅうううっ!( ノД`)シクシク…」
「あの時は助けていただき本当にありがとうございました。私ももすっかり元気になり、こうして…お手伝いとして住み込みで、この家で働いています」
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静子は育ての親がちゃんといるというのに、それでも10歳で別れた母の事は忘れることが出来なかった。こうして母との涙の再会を果たした静子は、今まで心の中に抱いていた、もやもやがきれいサッパリ取り払われ吹っ切れた。
静子は養父母の愛情を一身に受けて幸せな少女時代を過ごしたが、それでも不幸な死に様だった母の事はいつも合点がいかなかった。骨が見つかった訳でもないのに、「船のデッキから誤って落ちて死んだ」と言われ諦めるしかなかった。あの時代死体の山が至る所に放置されているような戦後のどさくさの中で、母の死はうやむやにされ諦めるしかなかった。
一方の正治と婚約者は旅館に帰り、2人水入らずとなり婚前旅行で熱々かと思いきや大喧嘩が勃発していた。
「正治さん北海道旅行に行こうと誘って下さって本当に嬉しかったわ。でも……何よ。あんな先生と一緒じゃ2人きりに全然なれないじゃないの。あなたときたら静子さんとばかり話して、そして折角北海道に来たというのに2人の女性と一緒に長い時間を一緒に居たかっただけじゃないの。まるで……婚約者の私の事なんか忘れて2人の女性ばかり見詰めて……異常としか思えなかったわ。あなたはあの2人の女性を見つめる目はそれこそ……憧れ、宝物を見る目なのよ。私にあのような眩しい目で見詰めてくれたことあった?わあ~~~ん😭わあ~~~ん😭わあ~~~ん😭」
「それは……それは……知子の考え過ぎだよ。俺は母を探している静子先生を気の毒に思い、お母さんに合わせてあげたかっただけだよ」
でも正治は婚約者知子が言っていた通り、知らず知らず自分の心が2人の女性に傾いている事を、その時はまだ分かっていなかった。正治は母ハルに恋焦がれていたが、それと同じくらい静子にも惹かれて行った。
そして…婚約者知子の嫉妬心に悩まされて行く。
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