第11話 謎の少女


 江戸時代から明治初期にかけて陸奥国仙台城に藩庁を置く、伊達藩に仕えた家臣だった父は、江戸時代が終わりを告げる少し前に病の為既に亡くなっていた。そして隆之介は家督を継ぎ武士になったが、年号が変わり時代は明治時代だ。明治維新の改革で武士の職を失ってしまった隆之介だったが、こんな時代に若干20歳の隆之介は、屯田兵の1人として抜擢され北海道に渡っていた。


 そこで…ある少女と出会う。


 1875年屯田兵としてやって来た隆之介は、武士の学校である藩校を優秀な成績で卒業したエリートだったが、 やっと職を見つけて喜んでいたのも束の間、屯田兵の仕事は主に軍事訓練と農事のほかに、道路や水路などの開発工事、街路や特定建物の警備、災害救援に携わったが大変な労力を必要とする仕事ばかり。


 少しの道具は用意されているが、現在のようなハイテクノロジー機器が常備されている訳ではない。大方体を酷使する力仕事か、手作業ばかりだ。


 毎日毎日農作業や道路工事、水道工事などの重労働を強いられ地獄の日々だ。

 農業も兵役も充分重労働だが、それを慣れない土地で寒さに耐えながら……というのは、想像を絶する厳しさだったが、その内多くの屯田兵のお陰で開拓は進んで行った。今までは平民より位の高い士族ばかりの採用だったが、その内平民も屯田兵として採用されるようになって行く。


 プライドの高い隆之介はこんな重労働を強いられて、お金に目がくらんで来ては見たが、限界を通り越している。

 (こんなつもりじゃなかった)悔いてみたところで仕方がない。


 屯田兵になる為の条件としては屯田兵の応募年齢は当初「18歳から35歳」だったが、17歳から25歳に変更されたりと、ころころ変わっているが、基本的には若者で構成され、妻帯者かもしくは結婚する予定のあるものが優遇されたが、最初の頃は独身者も採用された。


 ◀◁◀◁◀◁◀◁


 こんなうっ積した日々の中、久しぶりの休日に、少しずつ余裕の出来た隆之介はこの自然あふれる北海道の探検がしたくなった。そこで…どことはなしに歩いて行った。 


 琴似は最初に屯田兵が住み着いた場所で、隆之介も入植した場所だった。琴似は札幌市の西部に位置し、シュムクル集落までの両地点の距離は約40kmほど有るが、独身だった隆之介はまだ蝦夷地に来たばかりで何もわからない。


 久しぶりの休みで回りは皆妻帯者で相手にしてもらえないので、ぶらぶら遠くまで当てもなく馬にまたがり走っていた。どこまで走っただろうかもう1時間近くは走った。


 すると目の前に何とも美しい今まで一度たりとも見たことのない色白のまるでフランス人形のような少女と遭遇した。その少女もシュムクル集落から離れて琴似寄りの野原にやって来ていたのだ。この場所は山の恵みが豊富な場所だった。


 その美しい少女は布製の着物を着ており、木綿製着物で、カパラミプという白布を切り抜き、さらに刺繍を施した技法はとても手が込んでいて、華やかな文様が描かれている。

 腰部分に紐が縫い付けてあり、紐を縛り前を止めて着用しているが、独特の恰好に神秘的であり、また独特の模様がエキゾチックな魅力を際立たせている。


 隆之介は折角出会ったのだからと思い話しかけた。


「お前さんはどこに住んでいるのですか?」


「XXXXXXX」

 すると全く分からない言葉で話しかけてきた。それも困った表情で何かまくし立てている。そこで…隆之介はもっと距離を縮めて手と指を使って説明しようと近づいた。

「XXXXXXX」

 すると、その訳の分からない言葉を発する少女は、後ずさりしながら必死になって何か訴えている。


「どうしたんだよ?」

 するとその時だ。隆之介が訳の分からない言葉をまくしたてる少女に困り果てていると、どこからともなく若者が現れてとんでもない行動を取った。


 訳の分からない言葉をまくしたてる少女に困り果てていると、その濃い顔のがっしりした若者が、少女とよく似た格好の着物姿で、何と想像もつかないとんでもない行動に出た。何と……前をまくって着物をばたばたさせながら 男根を露出しているではないか?


 すると今度は美しい少女が有り得ない行動を取った。後むきになって上身を屈め、着物をまくって陰門ができるだけ敵方によく見えるような姿勢をしながら、やはり着物をばたばたとたたくのである。


 興奮した隆之介は意味が分からないが、少女にすれば警戒して追い払うためにやっている行動なのだが、興奮が抑えられない。ギラギラしながら見入り自分の一物が興奮して勃起して果ててしまった。


(一体これは何の儀式なのだろうか?)


 ※アイヌは性器は見る者の目をくらましたり、力を奪ったりするのであると思われ、特種の神秘的な力をもっていると信じていた。平時は決して性器を露出しないという風習も、これを見る者に害を及ぼさないようにするためである。普通は陰部を隠しているが、例えば害敵からの攻撃を受けたり、病魔がコタン(部落)に侵入して来たと認められるような場合には、敢然と一物を露出して敵や病魔を撃退する呪術をおこなう。

 ホパラタと呼ばれ陰部を露出することによって害敵から免れようとする呪術行為があるが、男なら前をまくって着物をばたばたさせながら男根を露出し、女ならば後むきになって上身を屈め、着物をまくって陰門ができるだけ敵方によく見えるような姿勢をしながら、やはり着物をばたばたとたたくのだそうだ。

 

 隆之介は興奮と同時に恐怖で押し潰されそうになった。

(どこか違う世界に迷い込んだような?魔界に落ちてしまったのだろうか?)


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 それでは当時の北海道はどのような状態だったのか?


 当時の北海道は原生林が生い茂り、近代化のためには、土地の開墾や道路や水路などの工事が不可欠だった。その為には欧米から招いた多くの技術者・専門家から、技術や知識を学びながら開拓事業を推し進めた。これらの事業を開拓使(1869(明治2)年に、北海道・千島・樺太の開拓と地方行政を担うために設けられた組織)は一手に担った。更には道路や治水事業の貴重な労働力として多くの囚人が全道各地の現場で作業にあたった。


 そして…当時問題になったのが、樺太の所有をめぐりロシアとの関係が悪化していたことだ。そこで…樺太への中継基地にもなる石狩平野の開拓が重視され、政府は開拓使本庁舎を札幌市に置くことに決め、1873年 (明治6年) に札幌本庁舎(本府)が完成した。


 北海道開拓の最大の目標は農地の開拓による稲作の実現だったが、1875年 (明治8年) から始まった「屯田兵」制度による集団移住が北海道の農地開拓を飛躍的に加速させた。

 明治維新で仕事を失った士族(華族になれなかった武士)たちに、新しい生き方、農業をしてもらうため、屯田兵にして北海道に送りこまれた。お陰で稲作と産業育成に大きな成果となった。

 開拓使が「命令する側」で、「実際に働く人」が屯田兵だった。


 明治20年代には、石狩川流域を中心に開墾地は石狩川を遡るように上流へ拡大して行き道路や鉄道も延び、上川地方にむかって進んだ。全国的なブランドとなった北海道の米の発祥は、開拓使のたゆまない取組にあった。


 1876年 (明治9年)に北海道大学、サッポロビールの起源である札幌農学校と開拓使麦酒醸造所が設立されてから、早いもので1世紀を超えた。現在北海道に拠点を置く北海道大学、サッポロビールは、道内外の産業振興に大きな役割を果たしている。


 




















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