第18話 つたわりたい

 店内の喧騒とは対照的に、ハチマンコーヒーの店内奥、吹き抜けに設けられたロフトには、張りつめた空気が漂っていた。

 三十平米ほどのその空間は、イベントで使われていない店内唯一の空きスペースだった。

 ナナさんが案内して機材が運び込まれると、一階の賑わいとは切り離された、ひんやりとした静けさがそこに生まれた。


 マイク、カメラ、音声機材が並び、それぞれの担当者が位置につく。

 ユウカ、ヒナ、ユリナの三人は、やや緊張した面持ちでソファ席に並んでいた。


「それでは、お一人ずつ、こちらの椅子でインタビューさせてください」


 竹下さんの説明に軽くうなずいたユウカが、最初に呼ばれた。

 深く息を吸い、背筋を伸ばして、レンズの前の椅子に座る。


「この企画の実行委員長ですか?」


「いえ、実行委員長ではないんですが、高校生側の運営の窓口は私が担当しています」


「この『ありがとう祭』、どんなきっかけで始めたんでしょう?」


「町の人たちが、もっと幸せに暮らせたらいいなって思って……

“ありがとう”を言い合える場所があったらいいなって。

ハチマンコーヒーさんと一緒に、そういう場をつくりたくて、はじめました」


「ありがとうを伝えるというのは、たとえば外から豊後高田を知って、訪れてくれる観光客への感謝、ということでしょうか?

それとも、地域の皆さんへのありがとう?」


 ユウカは少し目を見開いたあと、真っ直ぐに答える。


「いえ、観光の方にというより……町に住んでいる方たち同士で、“ありがとう”を伝え合う場です」


 竹下さんの眉がわずかに動く。それに気づきながらも、ユウカは視線を逸らさなかった。


「高校二年生とのことですが、来年にはこの町を離れる方も多いかと。町への恩返し、という側面もあるのでしょうか?」


「……そういうふうに考えたことはなかったんですけど……

そう感じてくださるなら、それはありがたいなって思います」


 言葉を置いたあと、ユウカはふっと目を伏せた。

 自分の言葉が、自分の内側とほんの少しだけ噛み合っていない気がした。



 次に呼ばれたのはヒナだった。

 カメラの前に出ると、彼女は視線を少し落としながら、椅子に腰かける。


「『ありがとう発表会』について教えていただけますか?」


「はい……“ありがとう”って、普段なかなか口に出せないじゃないですか。

それを、ちょっとでも言いやすくするきっかけになればいいなと思って……

みんなに、それぞれの“ありがとう”を話してもらう場にしました」


「どんな方が登壇されるんでしょう?」


「今日は、ハチマンコーヒーの常連さんが中心なんですけど……

小学生の子や、お年寄りの方もいらっしゃって、世代もいろいろです」


「素敵ですね。発表された中から、特に良かった方に何か賞品があるとか?」


 ヒナは少しだけ間を置いた。


「いえ、そういうのはなくて……

“誰がいちばん”って決めるものでもないですし。

話してくれた人が、“言えてよかったな”って思える時間にできたらなと思ってます」


「では……たとえば、みなさんが“いいな”と思うような、わかりやすく言うと涙を誘うような感動的な話もあったり?」


 ヒナの眉がかすかに動いた。言葉の選び方に、引っかかるものを感じた。


「あるかもしれませんけど……

あえて“感動してください”っていう場ではないので。

それぞれの気持ちを、そのまま受け取ってもらえたら嬉しいです」


 短い返答のなかに、距離を置くような静けさがあった。

 彼女の声の奥に含まれた棘に、竹下さんが気づいたかどうかはわからなかった。


 続いて、ナナさんのインタビューが始まった。

 彼女は落ち着いた様子で椅子に座り、軽く会釈する。


「このイベントを、このカフェで開催する狙いはありますか?」


「地域の方たちに、少しでもほっとしてもらえるような場所になればと思っています。

“ありがとう”を、気軽に口にできる、そんなきっかけになれたらいいなって」


「観光や地域創生、地域経済の循環といった面での狙いもあるかと思ったのですが、市との連携もされているんですか?」


「いえ、そういった連携は特にしていなくて……。

観光とか経済っていうより、ほんとに、日常の中で自然に交わされる“ありがとう”が広がるといいなって。

そんな気持ちでやっています」


「ランチがとても安くて驚いたのですが、地域貢献と合わせて、カフェとしてはお店の認知を広げられる、といったwin-winなイベントかと思ったのですが」


 ナナさんは穏やかな笑みを保ったまま、ほんの一拍、言葉を探すように間を取った。


「もちろん、ハチマンコーヒーが地域の方に親しまれたら嬉しいです。

でも、お察しのとおり、今回のイベントは収益が目的ではありません。

ランチの価格も、必要な材料費と、ボランティアの方へのささやかなお礼ができるくらいで設定しています。

メニューの内容や金額も、すべて事前に公開していますし、できるかぎり透明にお伝えしています」


「なるほど。このようなイベント企画は、高校生にとっても良い経験になりますね?」


「そうですね。

ただ、彼女たちも今ちょうど進路を考える時期なので……

あまり負担にならないように、できるだけ無理のないかたちで関わってもらっています」


 ナナの語り口は変わらず丁寧だったが、その奥には、何かを守ろうとする意志の強さがにじんでいた。



 撮影が終わり、カメラが下ろされると、ロフトの空気がわずかに弛緩した。

 けれど、それは穏やかさというよりも、不透明な重みのようだった。


 竹下さんが、手元のメモをめくりながらつぶやく。


「……このイベント、すごく素敵だと思うんですが、番組として“感動”の軸をどう捉えるか、少し迷っていて……。

すみません、たとえば、特に印象的な場面というか、“気持ちが動く瞬間”って、どのあたりになりそうでしょうか?」


 誰もすぐには答えなかった。

 竹下さんは少し気まずそうに続ける。。


「もちろん、演出のためだけというわけじゃありません。

ただ、“ありがとう”って言葉は、やや抽象的でして……

視聴者に伝えるには、感動的な出来事のような、“明確な事実”があった方が響くと思うんです」


 ユウカは小さく眉を寄せた。ヒナは黙ったまま、唇をかんでいる。


「……涙を見せるためにやっているわけじゃないので、わかりません」


 ヒナの声は静かだったが、言葉の輪郭には明確な棘があった。

 竹下さんは一瞬息をのみ、それでも努めてやわらかく言葉をつないだ。


「なるほど……ありがとうございます。あと、一つだけお聞きしてもよろしいですか?」

「“ありがとう”という言葉をテーマにされていますが、なぜこの言葉を選ばれたんですか?

感謝って、基本的には“何かをもらったとき”に返す言葉ですよね。

それを“発表する”という形式は、少し珍しく感じまして……」


 ナナさんが言葉を探すように口を開きかけた――が、ユウカが俯いたまま、ぽつりと口を開いた。


「……私自身、この言葉に救われたことがあって。

それに、“ありがとう”って、あえて言わなくてもいいって思う場面、たくさんあるけど……

そういう気持ちって、しまいこんだままだと、なんだかもったいないって思ったんです。

ちゃんと出せたら、誰かの気持ちが、ほんの少しでも変わるかもしれないって……」


 言葉のあとに、短い沈黙が流れた。

 それを破ったのは、竹下さんの静かな申し出だった。


「もしよろしければ、そのエピソードもお話しいただくというのは……」


 ナナさんがそっと手を挙げて制した。


「それは……ごめんなさい。今回は、ちょっと控えさせてもらえたらと思ってます」


 ナナさんの言葉に、ユウカは小さくうなずいた。

 ディレクターはなおも丁寧に言葉を選びながら続けた。


「わかりました。取材として、少し踏み込みすぎてしまったかもしれません。

否定したい意図などは一切ありません。むしろ、このイベント、本当に素敵だと思っています。

ただ、意図が伝わりにくそうで、わかりにくい分、放送のなかで“きれいごと”だとか、“裏があるんじゃないか”とか、そういう声も出る可能性があります。

だからこそ、“どこまでが善意で、どこからがビジネスや行政支援なのか”は、こちらでもしっかり確認しておかないといけないと思いまして。

誤解を避けるために――ちゃんと伝えたいからです」


 その言葉は、誠実だった。

 けれど、それでもなお、ロフトの空気には淡い冷たさが残っていた。


 誰も、すぐには返事をしなかった。

 やがて、ナナさんがまっすぐに顔を上げた。


「今、うまく言葉にできない部分もあって……

あとで、書面でお伝えするかたちでも大丈夫でしょうか?

本当は取材でちゃんと説明すべきなんですけど、うまく話せなくて……すみません。

このあと、“ありがとう発表会”とクロージングがありますので、

もしよろしければ、その様子も見ていただけたら嬉しいです」


「ありがとうございます。きちんと伝えられるようにしたいので、可能な限り最後まで取材させていただけたらと思います。ご協力、どうかよろしくお願いします」


 スタッフたちは静かに機材を整え、ロフトを後にした。

 その背中を見送る中、ユウカはそっと視線を落とした。


 誰も声を出さないまま、残された静かな空間には、心のざわめきが残っていた。

 ロフトに流れる空気は、先ほどよりさらに重たい。


 ありがとう発表会の開演が迫るなか、誰もがそれぞれに不安を抱えていた。

 そして、さっきのテレビ取材――あの言葉の行き違いが、さらに彼女たちの心に影を落としていた。


――伝わらないんじゃないか。


 そんな予感が、静かに広がっていた。

“そうじゃない”と言いたくても、うまく言葉にできない。

 自分たちが大切にしてきたものほど、説明しにくいことばかりだった。


 沈黙が長く続きすぎた頃、ヒナが口を開いた。


「……“ありがとう”ってさ、何かしてもらったときに言う言葉なんだっていうのは……わかる。

だから……“何に?”って聞かれるのは……うん、それも、仕方ないのかもしれない」


 言いながらも、言い切れない何かが喉にひっかかっているようだった。


 ユウカが、静かに言葉を引き取る。


「うん……たしかに、“ありがとう”って、何かしてもらったときの言葉だけど……

でも、私たちが伝えたいのは、それだけじゃなくて……

言葉にするのが難しいけど」


 ヒナが少し俯いたまま、ぽつりと続けた。


「……これから発表してくれる人たちは、自分の気持ちを言葉にしようとしてくれてる。

それを“お金儲けに使われた”なんて思われたら……それだけは、どうしても納得できない」


 その声は低く、張り詰めていた。


「観光とか、地域おこしとか……そういうふうに思われるのは、まあ、あるかもしれない。

でも、今日話してくれる人たちは、誰かにとか、自分のためとか――

ちゃんと、自分の気持ちを言葉にしてくれる。

それが、“使われた”とか“犠牲になった”って、発表してくれた人が感じてしまうようなことになったら……それは、違うよ。

そういうふうには、絶対にしたくない」


 ユウカはしばらく何も言わなかった。

 目の前の空間を見つめるように、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「……うん、わかる。

でも、私たちがやりたいこと、それはちゃんと、私たちの口から伝えなきゃいけないと思う。

話すことには、力があるって……私は信じてる。

テレビでどう編集されるかはわからないけど、

せめて、今ここにいる人たちには、ちゃんと届けたい」


 ヒナが顔を上げ、ユウカに視線を向ける。


「……どうやって?」


 ユウカは一瞬、言葉に詰まり、そして深く息を吸った。


「……話すしかないよ。

クロージングのときに、自分たちの言葉で、ちゃんと伝えよう。

今日ここで、私たちが何を感じたのか、何をやりたかったのか……私が話す」


 すると、隅で静かに座っていたナナさんが、少しだけ身体を起こした。


「それは……ごめんね。でも、そこは私の役目だと思う。

このイベントの主催として、ちゃんと伝えなきゃいけないことだから……

それは、“大人の仕事”だよ、ユウカちゃん」


 部屋の空気がふっと凍りつく。誰も、すぐには何も言えなかった。

 ユウカはゆっくりと俯き、膝の上で手をぎゅっと握った。


 そんな沈黙のなか、ユリナがそっと立ち上がる。


「……ありがとう発表会、もうすぐ始まるよね。

まずは、ヒナを支えよう。

ここまで準備してくれた、ヒナのためだし――

発表してくれる“みんな”のためでもあるんだから」


 その声は優しく、けれど芯の通った響きを持っていた。

 ユウカがうなずく。


「……うん、そうだね。

参加してくれた人たちが、“やってよかった”って思えるように……

私たちで、しっかりフォローしよう」


 ヒナは心配そうな顔のまま、二人を見た。

 そして、小さく、でも確かに笑った。

 その笑顔の奥で、ほんの少しだけ瞳が揺れていた。


「うん。ありがとう。……後のことは、また、あとでやろう」


 そう言いながら、ヒナは誰にも見えないように、そっと自分の手を握りしめた。

 ほんのわずかに震えるその手が、いまの彼女のすべてを語っていた。


 ロフトの階段下からは、軽いざわめきと食器を洗う音が聞こえてきていた。


 ユウカがナナさんに目で合図する。


「ナナさん、始めましょう」



 四人はロフトを降りた。

 誰の顔にも、これからの言葉に込める想いと、それがきちんと届いてほしいという、静かな願いが滲んでいた。


 ステージ前方には、パイプ椅子がゆるやかに並び、町の人たちが腰掛けている。

 中央の来賓席には市長の姿があり、背筋をまっすぐに伸ばして次の演目を待っていた。

 その後方――カメラが、静かに首を振っている。

 先ほどまでロフトで撮影していたテレビクルーが、今は会場の向こう側から、客席越しのアングルを確認していた。


 ナナさんはステージに立ち、マイクの前でやわらかく微笑んだ。


「それではここからは、“ありがとう発表会”に移ります。

今日は実際に、みなさんの“ありがとう”を伝えてくださる方々がご登壇されます。

では、進行は高田高校2年生の江口陽菜さんに、お願いしましょう」


 拍手が起こる中、ヒナがステージ脇に立ち、ハンドマイクを手に話し出す。


「こんにちは、高田高校の江口陽菜です。

たくさんの方にご協力いただいて、今日こうして、“ありがとう”を伝える場を開くことができました。

それでは、一人目の発表者をご紹介します。

ハチマンコーヒーの常連で、インドネシア出身の看護師・アユさんです」


 アユが小さく会釈をしてステージに立つと、温かな拍手が場内に広がった。


「……えっと、私はインドネシアから来て、もう一年くらいこの町で暮らしています。はじめは、言葉も文化もわからなくて……でも、ここの人たちは、すごく優しくしてくれて……」


  アユさんの声は震えていたが、その目は揺れていなかった。


「今でも、日本語はときどき難しいけど……“ありがとう”は、いちばん好きな言葉です。

今日、みなさんに、この町に、“ありがとう”を言いたくて……ありがとうございました」


 最後の一礼に、会場から自然な拍手が広がった。

 ユウカがすっと息を吸い込む。ヒナの目にも、わずかに光るものが見えた。


 続いて登壇したのは、地域ボランティアとして活動する河野さん。

 緊張した様子でマイクの前に立ち、何度か言葉に詰まりながらも話した。


 「……ありがとうって、言いそびれてしまうことが多かったんです。でも今日、この場を借りて、ようやく言えました」


 その言葉に、会場から優しい拍手が湧いた


 三人目は高校1年の山口彩乃さん。

 原稿を握る手が小さく震え、何度も深呼吸しながら声を絞り出す。


「……今日は、言えてよかったです」


 それだけ言うと、泣きそうになって俯いた。客席から「がんばったね」という声が届き、会場にふたたび拍手が広がる。


 四人目は永山典子さん。小学5年生の勇太くんの母親で、保護者代表として登壇した。


「子ども食堂を手伝っていたとき、小学生の子に“おにぎり、ありがとう”って言われて……

なんてことのない、でも……あのひとことがずっと心に残っていて。

今日この場を借りて、あらためて“ありがとう”を伝えたいと思いました」


 その素朴な言葉に、会場の雰囲気はさらにあたたかくなっていった。


 五人目は息子の永山勇太くん。ステージに立つと、堂々とマイクへ向かって言った。


「おじいちゃんに、ありがとう。自転車の直し方、教えてくれて、うれしかった」


 その短いひとことに、客席から小さな拍手が響いた。


 静かな余韻が会場を包むなか、ヒナがマイクを握り、ステージ中央に立つ。


「六人目の安藤さんは、急用のため、残念ながら登壇が叶いませんでした。

……でも今日、五人ものみなさんが、胸のうちの“ありがとう”を言葉にしてくださいました」


そこまで言って、ヒナは少しだけ視線を落とした。

何かを探すように、言葉を継ぐ。


「……本当に、ありがとうございました」


会場に拍手が起きる。

けれどその拍手は少しまばらで、どこか――余白があった。

 終わり、というよりは――何かが、まだ続くような。


 そのとき。

 前方の来賓席で、随行の職員が立ち上がり、ナナさんのもとへ静かに近づいた。

 耳元で短く何かを告げる。


 ナナさんが、ほんの一瞬だけ目を見開く。

 そして、職員に小さく「少し待って」と伝え、ヒナのもとへ歩み寄る。


「 ……市長が、“ありがとう”を伝えたい方がいるって。飛び入りで、ひとこと話してもいいかって」


 ヒナは一瞬、ユウカとユリナを見る。

 三人のあいだで、言葉のないやりとりが交わされた。


 “みんな、ちゃんと聞いてくれてたよね”

 “市長も、まっすぐ聞いてた”

 “信じてみよう”


 二人は目を見合わせて、うなずく。

 ヒナも、ゆっくりと頷いた。


 ナナさんは再び来賓席へ向かい、市長にそっと声をかける。

 市長は席を立ち、ナナ、ヒナたち三人に小さく「ありがとう」と伝えると、ステージに向かって歩き出した。


 その瞬間、会場全体の視線が自然と市長に注がれていく。


 ナナ、ヒナ、ユウカ、ユリナ。

 四人は並んで、市長の背中を見つめていた。


 誰の顔にも、笑みはなかった。

 でも、その眼差しは、確かだった。


 “伝えたかったありがとう”

 それが、ほんとうに伝わったのかどうか――まだ、わからない。


 けれど、誰ひとりとして目を逸らさず、

 静かに、一人歩きしはじめた“ありがとう祭”の行き先を見つめていた。

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