第19話 やっと、渡せた
天気予報を裏切るような秋晴れの空には、雲ひとつなかった。
けれどその分だけ、会場に集まった人々の熱気が、うっすらと白い“雲”のように立ちのぼっているようにも見えた。
ハチマンコーヒーの前に設けられたステージのまわりは、柔らかなざわめきに包まれながら、人でいっぱいになっていた。
予定されていたありがとう発表がすべて終わり、突然の市長の登壇に、会場の空気は思いがけない温かさで包まれた。
歓迎ムードのなか、ヒナ、ユウカ、ナナさん、 そして私は、それぞれに言葉にできない不安を抱えながら、ただ静かに、市長の“ありがとう”エピソードを袖から見守っていた。
「……本日は、皆さんの“ありがとう”を、静かに聴かせていただきました。
どの言葉も、真っ直ぐで、心からのもので……私自身、深く胸を打たれました」
ひと呼吸置いて、視線を会場にゆっくりと巡らせる。
「私にも、どうしても“ありがとう”を伝えたい方がいます。
それは、今日のこの場をつくってくださった高校生の皆さんです。
皆さんのまっすぐな想いと行動力に、心から敬意を表します」
会場から、自然な拍手が起きる。
「“ありがとう”という言葉には、人をつなぎ、町をつなぎ、未来をつくる力がある──
今日、そのことを改めて感じました。
この取り組みは、豊後高田市の大きな誇りです。
そして、“ありがとう”から始まる対話が、これからの地域を照らす希望になると、私は信じています」
拍手が、やさしく広がっていく。
「彼女たちがこの町で取り組んだ活動は、“豊後高田の未来”そのものだと、私は思います。
“ありがとう”という言葉が、交流を生み、やがて観光や経済の循環にもつながっていく──
そんな可能性を、この場にいるすべての方と感じられることを、心から誇りに思います」
その言葉は、理路整然としていて、温かかった。
そして、会場からは自然な拍手が起きた。市長の言葉に、大きく頷く人たちの顔が見えた。素直に感動している表情だった。
――けれど、ステージ下に立つ三人の高校生の表情は、どこか強ばっていた。
市長の言葉に、嘘はなかった。
けれど、「誇り」や「未来」や「町のため」という響きが、
自分たちが大切にしていた“ありがとう”とは、ほんのわずかにずれて聞こえた。
言葉が間違っているわけではない。
でも、それは誰かの期待や構想の中にうまく組み込まれていく“ありがとう”であって――
自分たちが、この場所で、ひとつひとつ拾い上げてきた“ありがとう”とは、何かが違っていた。
ユリナは、壇上に立つ市長の背中を、じっと見つめていた。
心の奥底では、言葉にならない何かが、ゆっくりと輪郭を持ちはじめていた。
けれど――
ナナさんは、わずかに視線を伏せていた。
ヒナの手は、両脇でぎゅっと握られていて。
ユウカはうつむいたまま、拍手の音にまぎれるように、小さく息を吐いた。
私は、市長の背中をじっと見ていた。
その姿を見ながら、胸の奥に、言葉にならない何かが、ゆっくりとふくらんでいくのを感じていた。
“伝わっていない”
誰も口にしなかったけど、きっと、みんな同じ気持ちだった。
私たちが伝えたかった“ありがとう”は、集客とか、仕組みとか、そういう話じゃない。
もっと、誰かの心に触れるような――そんな、小さなやりとりだった。
市長がマイクを置くと、すぐに盛大な拍手が巻き起こった。
会場全体があたたかい空気に包まれていく。
市長はその拍手の中で笑顔を浮かべながら一礼する。
けれど――
その音に包まれながらも、私は、どこか遠くへ置いていかれるような気がしていた。
ナナさんは、その姿を見ながら、ゆっくりと笑みの形をつくった。
でも、それは口元だけのものだった。
伏せた視線の先で、手に持っていたプログラムの紙が、かすかに震えていたのが見えた。
ユウカは背筋を伸ばして、まっすぐステージを見ていた。まるで正面の空間の奥を、静かに見透かすように。
唇の裏を、誰にもわからないように、そっと噛んでいた。
「伝わらなかったんだな」って、ただ、そう思っていた。
ヒナは、一度だけまばたきして、目を閉じた。
拍手に合わせて手を動かすふりだけして、でも音は鳴らなかった。
そのとき、小さく何かが崩れる音がしたような気がした。
市長は、きっと心から応援してくれている。
だけど──
私たちが伝えたかった“ありがとう”は、たぶん、少し違う場所にある。
私が描いた“渡し鳥”は、お金とは違う。
生活を便利にしたり、町を大きくしたりする力はないけれど、
誰かの気持ちを、そっと運んで、めぐらせる力ならある。
幸せって、きっと、そういうことなんじゃないかって……私は思っていた。
……でも、その想い、ちゃんと伝えられなかったのかもしれない。
私の“伝え方”が、足りなかったんだ。
私の目は、市長をとらえたままだった。
拍手の中で、顔は動かさず、目だけが揺れていた。
その目が見ていたのは、市長じゃなかった。
もっと遠く、もっと深く――言葉ではなく、感覚が、この空間で少しずつ、何かがすり替わっていくのを感じていた。
“ありがとう”が、“仕組み”になっていく。
“ありがとう”が、“未来戦略”に変わっていく。
どの言葉もあたたかかったのに、私の心のどこかが、ひんやりと冷えていくのがわかった。
そのとき――
私の中で、輪郭をつかめなかった思いが、はっきりとした形を持ちはじめた。
「私たちが伝えたい“ありがとう”は、私が伝える」
「私が伝えたかった“ありがとう”は――私が伝える」
私は、心のなかで、静かに、その言葉たちを結んだ。
拍手が続くなか、市長は壇上から一歩ずつ、私たちの方へ向かってきた。
「ありがとう」
そう言って、ナナさんと、ヒナ、ユウカ、それから私に、それぞれ丁寧に握手を交わしていった。
笑顔は変わらなかった。
でも、その手のひらに込められたものが、何だったのか、私にはよくわからなかった。
市長が壇を降り、来賓席へ戻っていくのを、私は目で追いかけていた。
横でヒナが、ゆっくりとハンドマイクを口元に動かしていく──でも、止まった。
その手が、ほんの少し震えていた。
発表者が座っていた席のほうを、ヒナはじっと見つめている。
すべての発表が終わったあとの、その空席たちを。
……本当に、これでよかったんだろうか。
そんな迷いが、彼女の背中越しに伝わってきた。
すると、ユウカがそっと一歩近づいて、何も言わずに、ヒナの背中に手を添えた。
強くもなく、急かすでもなく――
ただそこに、静かにいるという、その意思のようなものだった。
その横で、私は両手を握っていた。
手のひらには、うっすらと汗がにじんでいた。
「……あの、二人にお願いがあるの」
小さな声。だけど、決意が混じる。
「ありがとうのスピーチ……私もしても、いいかな?」
ユウカとヒナが、同時に私を見つめる。
しばらくの沈黙のあと──
「……ユリナが、そうしたいなら」
ユウカが、やわらかく微笑む。
「絶対に、サポートするよ」
ヒナも、まっすぐうなずく。
私は、静かに息を吸ってからうなずいた。
「……ありがとう」
その声には、もう迷いはなかった。
ステージに上がった私は、震える手でマイクを握った。
視線の先には、たくさんの人たち。
ハチマンコーヒーの常連客、学校の友達、先生たち、ヒナの祖父母、サクラ、ユウカ、ナナさん──
そして、テレビクルー、市長の姿も見えた。
私は喉を小さく鳴らし、深呼吸をひとつ。
目を閉じてから、ゆっくりと口を開いた。
⸻
「……私は、今日ここで話すつもりじゃありませんでした」
少し間を置いて、一歩前に出る。
「でも、“ありがとう”を伝えるこの場で、私も話したいことがあります」
会場が静まり返る。
「私は小さい頃、人と話すのが苦手で……そんな私に、初めて“遊ぼうよ”って声をかけてくれたのが、近所のお姉ちゃん──ミサキちゃんでした」
「明るくて、誰にでも優しくて、そばにいるだけで素敵な世界が広がっていくような人でした」
「一緒にプリクラを撮ったり、ゲームをしたり、絵を描いたり……ミサキちゃんの家で遊ぶのが、いちばん楽しかった」
マイクを握る手に力がこもる。
「でも、私は……」
「私は、ミサキちゃんに、ひどいことを言ってしまいました」
会場の空気が、ぴんと張り詰める。
「“明日も遊ぼうね”って約束してたのに、次の日、急に“ごめん、今日は無理かも”って言われて……」
「私は、“なんで?”って……悔しくて、“もういい、嫌い”って……言ってしまったんです」
「ミサキちゃんは、少しさみしそうに微笑んで、“そっか……また今度ね”って」
声が、少し震えた。
「私にとっては、それが……ミサキちゃんの最後の言葉でした」
「最近知ったんです。ミサキちゃんが入院していたことも、もう戻らないことも……何も知らなかったんです」
「どこかにいるって思ってた。どこかでまた会って、ちゃんと"ありがとう”って、言いたかった。
本当は、ただ、伝えたかっただけなのに──」
「ミサキちゃん、ありがとう。
私に“楽しい”を教えてくれて、本当にありがとう」
私は、大きく息を吸い込む。
「私は、これからも絵を描いていきます。
ミサキちゃんの残してくれた写真みたいに、誰かの“大切”を残すために。大切な気持ちを伝えるために」
沈黙が、やさしく包む。
「言いたかったけど、口にできなかった言葉を言えて、少しだけ、気持ちが軽くなりました」
「"ありがとう”って、言おうと思ったときには、もう伝えられないことって……あるんです」
「……ここにいる皆さんの中にも、私みたいに、
言えなかった“ありがとう”や、届けられない"ありがとう"がある人がいるんじゃないかなって……」
「届け先がわからない“ありがとう”、
もう伝えられないかもしれない“ありがとう”……
そういう気持ちも、カードに書けたらいいなって……思います」
「カードに書くことで、想いを言葉にすることで、想いが一人で飛んで行くかもしれないなって。届くかどうかじゃなくて、想ってることを形にしてみませんか? そして、誰かに預ける。それだけでも、心が少し前に進める気がします……だから、私は、ここを、そんな場所にもできたらいいな、って思います」
マイクをゆっくりと下ろした。
そのあと、しばらくの静寂があった。
最初に声を発したのは、杖を持った年配の女性だった。
「……私も、亡くなった主人に、書いてみようかしら」
それを皮切りに、
「私も……」「父に書きたい」「遠くの友人に──」
と、声があちこちからあがってくる。
私たちが伝えたかった"ありがとう"が、もしかしたら、少し、伝えられたかもしれない。
でも……どこに出せばいい?
届けたいありがとうは、どこに?
あ、あれなら……!
私は展示スペースの赤い巣箱を思い出した。
巣箱を持ってステージに戻り、もう一度マイクを握る。
「届け先がわからない“ありがとう”は、この巣箱に入れてください。
“渡し鳥”が、きっとどこかへ運んでくれるはずです。……私は、そう信じています」
佐々木くんと金岡くんが、巣箱を置くためのテーブルを運んでくれた。
「……書いてみようかな」「うん、私も……」
巣箱の前に列ができ、ありがとうカードを書く人が次々と集まってくる。
「すごいね……」
ナナさんが、巣箱を見つめながらつぶやく。
「“届けたいけど届けられない”ありがとうも、あるんだね」
ありがとう祭が、ただのイベントではなく、
“言えなかったありがとう”が形になる場へと変わった瞬間だった。
カメラが、その光景を記録している。
「……“ありがとう”って、私たち自身が幸せになるために、ほんとうに大切な言葉なんですね。
今日、この場に立って、皆さんの想いを聞いて……このイベントが、今までにない、心から素敵な取り組みだと、改めて感じました」
少しだけ目を細めて、控えめに笑う。
「私も……よければ、書いてみてもいいですか。“ありがとう”」
「もちろんです!」
市長は、どこか照れたように微笑んで、カードを手に取った。
ほっと息をつくユリナのもとへ、竹下ディレクターがゆっくりと歩み寄ってきた。先ほどよりも穏やかな顔つきだった。
「……秋吉さん。さっきのスピーチ、本当に素晴らしかったです。僕らが、このイベントで伝えないといけなかったこと……ようやく、わかった気がします」
ユリナは、少し戸惑いながらも顔を上げる。
「放送についてですが……最後のスピーチ、番組で使わせてもらってもいいですか? たくさんの人に届いてほしいと思ったので」
「……はい。お願いします」
ユリナが、ゆっくりと深くうなずいた。
竹下は巣箱に目を向け、ふと問いかける。
「この巣箱、名前はあるんですか?」
ユリナは一瞬だけ考え、そして微笑む。
「……まだ決めてなかったんです。でも……今、浮かびました」
短く息を吸い、静かに言葉を紡ぐ。
「“届けたいありがとうゆうびん”、ってどうでしょうか」
竹下は、その響きを噛みしめるようにうなずいた。
「……いい名前ですね。聞いた人が、ありがとうって何だろうって考えたくなる。そして、ほんとに……ちゃんと届きそうな気がします」
竹下の言葉に、ユリナは小さくうなずいた。
“届けたいありがとうゆうびん”に集まる人たちを、ステージ脇から見つめながら、
私は、ようやく、自分に帰ってこれた気がした。
私の伝えたい“ありがとう”は、届くわけじゃないかもしれない。
でも、それでもいい。
ただ、ちゃんと言葉にできたから。
椅子に座ったまま深く息を吐いたユリナの前に、ユウ先生がそっと現れた。
肩の力が少し抜けたような佇まいで、ずっと柔らかな視線をこちらに向けていた。
「……あんたが、ユリちゃんなんやな」
私は、ぽかんと先生を見上げた。
「え……?」
ユウ先生は無言でスマホを取り出し、画面をユリナに向けた。
そこに映っていたのは、駄菓子屋の前で、おしゃれしたミサキちゃんと、
その隣で、少し照れたような笑顔を見せる小さなユリナ──ミヨさんが見せてくれた、あの一枚の写真だった。
「……これ、私。……どうして先生が?」
ユウ先生は、小さく笑った。
「……昔な、ミサキちゃんを担当してたことがあってな。別府の病院で、研修医の頃」
私は、その言葉に思わず目を見開いた。
「……ミサキちゃん、最後の頃、よう話してたんや。
“ユリちゃんに会いたいな”って。写真も、わざわざ見せてくれてな──
『これ、可愛いでしょ? 私が選んだ服。ユリちゃん、モデルさんみたいでしょ』って」
ユウ先生はスマホをしまい、目を伏せて、静かに続けた。
「……でな、ある日、急に写真を渡されてな。
“この子に、もしどこかで会えたら伝えてね”って」
「『ユリちゃん、楽しかったよ。ありがとう。大好きだよ』──そう、言うてた」
沈黙。
私は、声を失ったまま、何度も瞬きをした。
そのまま、ぽろり、と涙がこぼれた。
「……ほんとに……?」
「うん。……やっと、渡せたわ」
ユウ先生は照れたように鼻をかいて、立ち上がった。
「ありがとう言えたん、ユリちゃんだけやないよ。
──ミサキちゃんも、きっとな」
何も言葉にできずに、私はただ深くうなずいた。
涙が頬を伝い、胸元にぽとりと落ちていくのがわかった。
そのあたたかさが、微笑みをそっと包み込んでいく気がした。
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