第17話 重なり合う、ホーム

 風がやや冷たく感じられる、十一月三日の文化の日。


 空は、淡い水色にやわらかな雲を浮かべていた。

 西叡山の山肌は、ところどころ秋の色に染まりはじめている。

 ハチマンコーヒーの隣、製材工場跡の駐車スペースの脇を流れる桂小川のせせらぎが、かすかに耳をくすぐった。

 向かいに見える畑の土手には、彼岸花がひっそりと風に揺れている。


 町全体が、まだ目を覚ましきっていないような、そんな朝の静けさだった。


 一拍、時間が止まる。


——誰もいないハチマンコーヒーの店内。

 壁にかけられた“渡し鳥”の絵。

「カカッ、カッ……」と、絵の中から聞こえてくるような声。

 バサバサッと羽音がして、絵から飛び出した渡し鳥が店内をぐるりと旋回する。


(……捕まえなきゃ)


 鳥は開いた入り口からふわり外へ飛び立つ。

 追いかけて店を出ると、渡し鳥は屋根の上を、円を描くように飛び続けていた。


「カカッ、カッ……」


「……お姉ちゃん!」



——その静けさを切るように、音が響いてくる。


 キッチンの奥から、鉄鍋を煽る「カン、カン、カン」という音。

 香ばしい香りが、風に乗って流れてくる。

 ミーゴレンの麺が炒められている音が、ジュウ……と熱を帯びる。


 包丁がまな板をリズミカルに叩く。

 トントントントン、と、ネギを刻む音が小気味よく続く。

 グラインダーが唸り、コーヒー豆を挽く。スチームウォーマーが、キュウッと高く鳴く。

 製氷器からは、氷がガチャガチャとすくわれる音。


 気がつくと、目の前にサクラがいた。

 店内を見渡すと、ホールでは、笑い声と話し声が入り混じっていた。


「わあ、これ初めて食べる!」「ほんとのやせうまって、こんな味なんや」

「こんにちはー」「元気だった?」「ここ、よく来るん?」


 子どもたちの声、大人たちの声、聞き覚えのある名前を呼ぶ声が、にぎやかに重なっている。

 その合間に、少しゆったりとした京言葉が、やわらかく響く。


「……健康って、自分だけのもんやないんです」

「家族にも、まちにも、つながっていくから。あなたの元気が、誰かの元気にもなります」


 ユウ先生の落ち着いた声が聞こえていた。


「お姉ちゃん!」


 その声に、はっと我に返った。

 サクラが、カササギのぬいぐるみを抱えて立っていた。

 眉をひそめるでもなく、ただまっすぐな目でこちらを見ている。


「……やっぱり昨日、寝てないでしょ。ちょっと休んだら?」


 私は、受付の横の椅子で、いつの間にかうとうとしていたみたいだった。


「……大丈夫、大丈夫。一瞬、眠気が来ただけだから」


「無理したら、みんなに迷惑かけるよ」


 そう言いながら、サクラはカササギのぬいぐるみを差し出してきた。

 声はそっけないけれど、ほんの少しだけ、口元が上がっている。


「これ、受付に置いとけば? 昨日、お姉ちゃんが絵描いてるとき、ずっと見てたでしょ」


 一瞬、何のことかと思ったけれど、思わず笑みがこぼれて、目元がやわらかくほどけた。


「……もう、そういうとこ、ほんと反則」


 ぬいぐるみを受け取りながら、私は肩を軽くすくめた。


「ありがと、サクラ。さすが動物オタクの妹、見るとこ違うよね」


「オタク言うな」


 サクラはむすっとしながらも、ぬいぐるみを押し込むように渡してきた。


「今日はどんな感じになりそう?」


「うん、ありがとうカード書いてくれる人も多いし、発表会も順調に進みそう。たぶん、ね」


「そっか……じゃあ、私も書いてみようかな。伝えたい『ありがとう』、あるし」


 そう言うとサクラは、受付の机からカードを一枚選んだ。

 紫色の地に、銀の羽根が一枚描かれている。


「この羽根、カササギだよね」


「うん。新しくなったカードの第一号だよ。……昨日、ギリギリで届いたの」


「ふふ、間に合えば、全部OK」


 すぐ隣に立っていた母が、静かに笑いながら言った。

 その声に、ユリナはふっと肩の力が抜けるのを感じた。


「ユリナの絵も、間に合ったじゃない。喜んでもらえそうね」


「うん……ありがとう。あとは、最後まで頑張る」


「うん、突っ走るのよ。Show must go on」


「そうだね」


  目の前の展示スペースの壁には、たくさんの緑色のカードと、「ありがとうの香り」のする写真が貼られていた。

 一枚一枚に綴られた「ありがとう」と、やさしい気持ちがそっと香る写真たち。

 その中心には、渡し鳥の絵が飾られている。


 まるでその絵を包み込むように、カードと写真たちが寄り添っていた。

 緑の羽根のような言葉と、あたたかな香りをまとった写真たちが、そっと輪になり、まるで鳥の巣のように、渡し鳥をやさしく守っていたーー。



 健康講座が無事に終わったあとも、ユウ先生や小山先生のまわりには人だかりができていた。

 地域の人たちに囲まれ、質問に答えたり、一緒に料理の話をしたりと、にぎやかな笑い声がいくつも輪になって広がっていた。


 会場の片隅では、ユウカ、ヒナが肩を寄せて立っていた。

 私は少し眠気の残る頭を振りながら、二人に歩み寄った。


「ユウカ、お疲れさま。すごく盛り上がってるね」


 ユリナが笑顔で声をかける。


「ありがとう。でも、先生たちのおかげだよ。私も、すごく勉強になった」


 ユウカが、少し照れくさそうに応じた。


「よかったね。……で、ヒナは今、完全に緊張モード入ってる」


 横目でヒナを見る。


「そりゃするよー。無理して出てくれる人に、絶対嫌な思いはさせたくないもん。頭フル回転」


 ヒナは深く息を吸った。


「発表者の皆さん、来てくれてる?」


 ユウカが心配そうに尋ねる。


「うん、みんな確認済み」


 そう言って、ヒナはユウカに一枚の進行用リストを手渡した。



《ありがとう発表会・発表者リスト(進行用)》

1. アユさん(インドネシア出身・看護師・30代)

 ——「言葉が通じなくても、伝わる“ありがとう”」

 病院やハチマンコーヒーで出会った人々との交流エピソード。

2. 河野 裕子(かわの・ゆうこ/70代・地域ボランティア)

 ——「みんなに支えられて」

 退職後、地域活動に参加する中で感じた感謝の気持ちを語る。

3. 山口 彩乃(やまぐち・あやの/高校1年生)

 ——「泣いてる友達に、手をのばした日」

 自分の不器用さと向き合ったある日の出来事。声にならない想いを伝える大切さ。

4. 永山 典子(ながやま・のりこ/40代・保護者代表)

 ——「おにぎりと、朝の笑顔」

 子ども食堂での出来事。日常のなかで受け取ったささやかな“ありがとう”。

5. 永山 勇太(ながやま・ゆうた/小学5年生)

 ——「おじいちゃんの自転車」

 夏休みに教わった修理のこと、家族への感謝を素直に話す。

6. 安藤 久美(あんどう・くみ/60代・元教師)

 ——「言えなかった言葉」

 長年勤めた学校で、退職後に生徒から届いた一通の手紙をきっかけに、心に残っていた“ありがとう”をようやく言葉にする。



「たくさん来てくれて、よかったね」


 私は、胸をなでおろすように言った。


「ほんと。アユさんも、ボラ部のみんなも、すごく助けてくれて」


 ヒナがリストを見ながらつぶやく。


「それにしても……ユリナの絵、すごくよかった」


 ユウカが、ふと壁に目をやる。


「ありがと。昨日の夜は、ほんとにやばかったけどね。なんとか間に合った」


 私は少し笑って、首をすくめた。


「発表、楽しみにしてるよ」


 その言葉と入れ替わるように、ナナさんがゆっくりとこちらへ歩いてくる——。

 落ち着いた雰囲気の中にも、ほんの少し高揚感がにじんでいる。


「みんな、おつかれー。順調そうでなにより。ほんと、すごいイベントになったね。……みんなの力って、すごいなって思うよ」


 ナナさんは、会場を見渡すように言った。


「ナナさんのサポートがなかったら、ここまでできませんでした」


 ユウカがすぐに応じる。


「いやいや、そんなことないって。ちゃんと現場を回してくれてるみんなのおかげだよ」


 ナナさんはそう言いながら、手元のスケジュールを見て、少し声を落とした。


「で、この後の話なんだけど……生中継のクルー、今ちょうど移動中らしくて。たぶんユリナちゃんの発表が終わったあたりで、こっちに着くって」


「ありがとう発表のタイミング……かぁ」


 ヒナがつぶやいた。


「みんな、緊張しないといいけど。わたしも……」


「大丈夫。あとは、予定通りやるだけだよ」


 ユウカがやさしく声をかける。


ナナは少しだけ空を見上げて、にっこりと笑った。


「せっかくだから、ありがとう発表の場面がテレビで放送されてさ。

“ありがとうを伝えるのって、いいな”って、思ってもらえたらいいよね」


 その言葉に、三人は自然と頷いていた。


——いよいよクライマックスが近づいてくる。



 笑顔と話し声、食べ物の匂いが会場に広がるなか、ナナさんのアナウンスに導かれるように、視線がメインステージへと集まっていく。


 ざわめきが静まりはじめた頃、私はマイクの前に立った。


「みなさん、こんにちは。

高田高校二年、美術部の秋吉柚里菜です。今日は、この絵の紹介をさせていただきます。


この絵のタイトルは『渡し鳥』です。


この鳥は、ありがとうカードを運ぶ鳥として描きました。

ハチマンコーヒーにあるありがとうカードは、伝えたい人に名前とメッセージを書いて渡して、

もらった人が、次の“ありがとう”を、また誰かに".渡し"ていくカードです。


そして、四人の人に渡ったら、カードはハチマンコーヒーに戻ってきて、

その“ありがとうの旅路”を、ここでみなさんに見てもらう仕組みになっています。


その姿が、まるで長い旅をして戻ってくる渡り鳥のように思えて、

“ありがとう”を運んでいく鳥──『渡し鳥』という名前をつけました。


この鳥のモチーフは、カササギという鳥です。

昔から“メッセンジャーの鳥”とされていて、七夕の伝説では、織姫と彦星の橋をつくる鳥でもあります。

羽が光の加減で青く見えることもあって、幸せを運ぶ“青い鳥”のイメージにもぴったりだと思いました。


……実は、この鳥のアイデアは、動物が大好きな妹が教えてくれたものです。

ありがとうカードのモチーフにぴったりだと思って、描きました。サクラ、ありがとう。


渡し鳥の羽根には、赤やピンク、黄色や青など、さまざまな色を使いました。

これは、いろんな人の、いろんな気持ちの“ありがとう”が羽根に込められて、空へ飛んでいく……そんなイメージです。


そこで、今回、この“渡し鳥”をイメージに、ありがとうカードも少しリニューアルしました。


紫色のありがとうカードには、四人の手を渡っていく“渡し鳥”の羽根をプリントしています。

また、緑色のカードには、まだ巣立つ前の“ひな鳥”の羽根を、小さくあしらっています。

こちらは、メッセージを書いてハチマンコーヒーに掲示していただく用です。


これから、この町のいろんな“ありがとう”が、鳥たちのように羽ばたいて、

またこの場所に戻ってきてくれたら……とても嬉しいです。


ご清聴、ありがとうございました」



 丁寧に頭を下げ、私はゆっくりとステージを降りた。

 会場にはしばしの静けさが流れ、それから──温かい拍手が、やさしく広がっていった。


 絵の発表が終わった直後、拍手が落ち着くよりも早く、会場の空気は次のプログラムへと切り替わっていった。


 ステージ脇では、ヒナがありがとう発表会の発表者たちに声をかけながら、順番と内容の確認を進めていた。その表情は穏やかだが、脚がほんの少し、揺れていた。


 そのとき、会場脇の道路に黒い車が停まり、スーツ姿の男性たちが降りてきた。市長と随行の職員だった。

 周囲の町民がざわめく中、彼らは丁寧に頭を下げながら、ナナさんのもとへと歩いていく。


「今日は大盛況のようで、本当におめでとうございます」


「お忙しいところ、お越しいただきありがとうございます。これから、地域のみなさんによる“ありがとう発表会”が始まります。テレビの取材も入る予定です。ぜひ、あちらの来賓席へどうぞ」


「ありがとう。ぜひしっかりと拝見させていただきます。」


 会釈を返しながら、市長は静かに来賓席へ向かっていった。


 その直後、会場の近くに白いワゴン車が滑り込むように停まり、三人ほどの取材クルーが機材を手に降りてきた。


「すみません、ナナさんいらっしゃいますか?」


 その声に、ナナとユウカが顔を見合わせて駆け寄る。


 先頭に立っていたのは、黒のシャツにジャケットを羽織った若い男性だった。さわやかな笑顔の奥に、現場の空気をつかむ鋭さがにじむ。


「お待たせしました。大分みらいテレビの竹下です。今日はよろしくお願いします」


 ナナがすぐに笑顔で応える。


「よろしくお願いします。来ていただけて嬉しいです。準備がバタバタしていて……すみません」


「いえ、ぜんぜん。天気もいいですし、いい画が撮れそうですね」


 竹下さんは荷物を抱えたスタッフたちに軽く指示を出しながら、ナナさんの差し出したスケジュール表を受け取る。


「電話でもお話ししましたが、今回、夕方のニュースで“地域の力、日本の宝”というシリーズで特集を組んでまして。昭和の町や豊後高田の地域力を取材してるんです。高校生と地元カフェが企画したイベントってことで、すごく期待してます」


「ありがとうございます。いまちょうど、ありがとう発表会が始まるところなので、よければ流れの中で、会場の様子を撮っていただければ」


「なるほど、承知しました。もし、発表会まで少し余裕があるようでしたら、先に主催のナナさんと、高校生代表の方に、簡単にインタビューさせていただけると助かります」


 ナナさんは一瞬ユウカを見てから、穏やかにうなずいた。


「はい、大丈夫です。私たちも、ちゃんと伝えたいと思ってるので」


 竹下さんは笑みを浮かべたまま、小さくメモを取りながら言った。


「イベントとしては、ほぼ初めての開催っておっしゃってましたが、想像よりずっと盛り上がってて、正直、“いい絵”が撮れそうだなって思いました。ありがとう発表会、すごく楽しみです」


 ナナさんはうなずいていた。けれど――その笑顔が、ほんの少しだけ揺らいだように、私には見えた。


「素朴な内容なので、“いい絵”ではないと思いますが……よろしくお願いします。あと、発表の内容によってはプライベートなことも含まれるので、放送前に改めて、発表者に確認させていただけたらと思うのですが……」


「え? そうなんですか……。それは……はい、わかりました」


 竹下さんは少し驚いたように目を瞬き、うなずいた。


 言葉は丁寧だったし、ナナさんも笑っていた。

 でも私は、なんだか少しざらっとした。


 大人たちが交わしているその言葉が、どこかでずれているような気がして。

 なんとなく、不安を感じた。


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