第14話 「天狗の味噌汁 〜驕りの果て〜」

 彼の名は鷲尾仁。中堅広告代理店に勤める、ごく普通のサラリーマンだった。

 だが、誰よりも野心を持ち、誰よりも「認められたい」という欲望を抱えていた。


 「才能がないんじゃない。チャンスがないだけだ」


 その言葉を繰り返しながら、他人を見下し、成果を横取りし、自分を誇張して生きてきた。


 ある日、終電を逃し、駅近くの路地裏で偶然見つけた屋台『神味堂』。


 「お前に足りないのは、鼻っ柱だ」

 そう言って渡されたのは、天狗の味噌汁。


 啜った瞬間、体が熱くなり、視界が異様にクリアになる。自信が湧き、周囲の動きすら手に取るように読める。

 翌日から、鷲尾は社内で無敵の存在になった。会議では誰も逆らえず、営業成績は社内トップ。


 「これが……本当の俺だ」


 だが、変化はそれだけではなかった。

 鼻が高く伸び、耳が尖り、声が響くように大きくなっていた。


 周囲の人間は、次第に彼を避けた。

 「お前は天狗になったな」と囁かれ、最初は笑っていたが、気づけばそれが真実になっていた。


 ある日、ビルの最上階から街を見下ろした彼は、まるで空を飛べるかのような錯覚に陥る。

 「俺は神にもなれる……」


 その夜、彼は再び神味堂を訪れた。


 「気高き者よ。天狗とは、孤高にして、己を見失う者の成れの果てだ」


 味噌汁の器をのぞくと、そこには人間だった頃の自分の顔が映っていた。


 彼は器を置き、黙って立ち去った。


 ──数年後、山奥の寺で一人掃除をする男がいた。

 鼻の傷跡と鋭い眼光は、今もどこか天狗の名残を残していたが、その背は静かに、低く頭を垂れていた。


 「驕りは、過去に置いてきた」


 天狗の味噌汁は、もう二度と啜られることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る