第6話 「弁財天の味噌汁 〜才能の光と影〜」

 音楽教室の片隅に置かれた古びたピアノ。


 少女・柚希は、母に手を引かれてその教室にやってきた。周囲の子どもたちが流れるように鍵盤を叩くのを見て、ただ憧れを募らせるばかり。


 「私は、あんなふうに弾けないよ……」


 努力は重ねた。だけど、指は思うように動かず、発表会では緊張で真っ白になった。ある晩、落ち込んだまま家路につく途中、見慣れない屋台が現れた。


 『神味堂』——木の暖簾が、夜風に揺れていた。


 屋台の主は静かな目をした老女だった。静かに微笑み、湯気を立てた鍋をかき混ぜている。


 「音楽の神に、願いを託すかい?」


 柚希はうなずいた。「天才になりたい」その一心で、弁財天の味噌汁を差し出される。


 それは透明感のある白味噌に、光るような金箔が浮かび、淡く響く音のような香りが漂っていた。


 一口飲むと、柚希の中で音が形を持った。頭の中に旋律が流れ込み、指先が勝手に鍵盤をなぞるような感覚。


 翌朝から、彼女は一変した。


 初見の楽譜も即座に理解し、指はプロさながらに舞う。審査員も聴衆も魅了し、動画は数百万再生。テレビ取材、コンクール優勝、演奏依頼。


 誰もが「奇跡の少女」と讃えた。


 しかし、その代償は徐々に彼女を蝕んでいく。


 音が止まらないのだ。


 寝ても覚めても、頭の中に旋律が鳴り響く。街の雑踏が和音に聞こえ、誰かの足音がリズムを刻む。次第に日常との境が曖昧になっていく。


 「もう、静かにしてよ……!」


 舞台の袖で泣いた夜、柚希は再び「神味堂」を訪れた。


 「あなたの願いは、叶った。でも才能とは、光と影の両面を持つ」


 老女はもう一度、味噌汁を差し出す。今度はほのかに苦味を帯びた、落ち着いた香りだった。


 「それでも、音楽を愛しているのかい?」


 柚希は味噌汁を口に運び、そっと目を閉じた。


 そしてゆっくりとピアノの前に戻り、鍵盤に手を置いた。


 無音の中で始まる、最初の一音。


 それは以前のような完璧さではなかったが、確かに“自分の音”だった。


 柚希はその日から、他人の賞賛ではなく、自分の心に響く音を追いかけるようになった。


 才能は呪いにもなる。けれど、選び取ったその音だけは、誰にも奪えない。


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