第2章:試練の一杯

第5話 「大国主神の味噌汁 〜愛か富か〜」

 東京の片隅にひっそりと存在する屋台「神味堂」。


 ある晩、青年・田島誠司は会社帰りにその不思議な屋台に足を止めた。三十路手前、将来に焦りながらも、大手企業での出世と、同棲中の恋人・里帆との結婚との間で揺れていた。


 「ようこそ。今日は、どんな迷いを?」


 屋台の主にそう問われた誠司は、酒の勢いも手伝って、心に抱えていたものを吐き出す。


 「仕事で結果を出せば昇進もある。でも、それには地方転勤が避けられない。けど、里帆は東京での暮らしを望んでる……どっちも大事なんです」


 老人は静かに頷くと、棚の奥から特別な味噌を取り出した。


 「大国主神の味噌汁をお出ししよう。愛も富も司る神。だが、選ぶのはあなた自身だ」


 味噌汁は赤味噌仕立て。山菜と大粒の豆、そして淡く光る昆布が浮かんでいた。


 一口すすると、心が満ち足りるような安らぎと、何でも叶えられそうな万能感が同時に湧き上がる。


 翌日から、誠司の仕事は絶好調だった。プレゼンはすべて成功し、上層部の評価も鰻登り。念願の昇進話が舞い込み、地方支社の責任者としての内定が決まった。


 「君のような若手に、地方を任せたい」


 誠司は笑顔でうなずいたが、帰宅した夜、里帆の表情が曇る。


 「……私は、あなたと一緒にこの部屋で、普通の幸せを築きたかったの」


 その言葉が、誠司の心を深く揺らした。


 次の週末、誠司は再び「神味堂」の暖簾をくぐった。


 「答えは出たかね?」


 老人の問いに、誠司は少し俯いて答えた。


 「……出た、というか、出したい。欲しかったのは、成功そのものじゃなくて……帰る場所だったんだと、気づいたんです」


 再び差し出された味噌汁は、前回と違って、ほんのり甘みが増していた。まるで誰かと分かち合うための温もりが加わったようだった。


 誠司は昇進の話を断り、東京の本社に残ることを選んだ。


 「君らしくないな」と上司に言われたが、不思議と心は軽かった。


 後日、里帆と小さな指輪を交換した夜、二人で作った味噌汁の味は、あの日の一杯とよく似ていた。


 成功と引き換えに見えた“平凡”こそ、愛と豊穣の本質だったのかもしれない。


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