第3話 「須佐之男命の味噌汁 〜嵐の決断〜」

 夜の帳が降りる頃、悠斗は再び『神味堂』の暖簾をくぐった。


 薄暗い店内は変わらず静かで、朱塗りのカウンターと年季の入った木の椅子が、淡い提灯の灯りに照らされていた。厨房の奥では、あの老人が変わらぬ穏やかな表情で悠斗を迎える。


 「今宵は何を求めてここへ来た?」


 悠斗はためらいながら席に着く。


 「……最近、感情に振り回されることが多くて。冷静に、もっと論理的に考えられるようになりたいんです」


 老人は微笑み、頷く。


 「ほう……ならば、須佐之男命の味噌汁がふさわしいかもしれんな」


 そう言って、老人は火を勢いよくくべ、鍋に水を注ぐ。暴れ神・須佐之男命の力を宿す一杯——それがどんなものなのか、悠斗は無意識に身構えた。


 鍋の中では味噌が豪快に溶け、香りは力強く、鼻を突き刺すようだった。どこか荒々しく、だが不思議と心が高揚する匂い。


 ほどなくして、老人は椀を悠斗の前に置く。


 「気をつけて飲むのじゃ。力は時に、己を試す刃にもなる」


 悠斗は言葉の意味を図りかねながらも、椀を手に取る。


 その味噌汁は、熱かった。いや、舌が火傷するような熱さではなく、胸の奥を激しく揺さぶる熱さだった。


 ひと口飲んだ瞬間——


 血が騒いだ。


 体の奥底からエネルギーが湧き上がり、心臓が高鳴る。感情が一気に表に出てくるような感覚。怒りも、喜びも、すべてが鮮やかに燃え上がる。


 「これが……須佐之男命の力……!」


 その日以来、悠斗はまるで別人のようだった。


 些細なことで喧嘩を買い、理不尽には正面から怒りをぶつけた。周囲は彼を恐れ、あるいは遠ざけるようになった。


 だが、悠斗の心の中には確かな充実感があった。抑え込んできた自分の感情をようやく解き放ち、本音で生きているという実感があった。


 しかし、代償は大きかった。


 大切な友人が去り、家族との関係も冷え切った。正義感から起こした怒りが、逆に人を傷つけてしまっていた。


 ある日、悠斗は孤独な夜にふと立ち止まる。


 自分の拳は、誰かを守るためのものだったはずなのに、いつの間にか、怒りの捌け口になっていた。


 「……俺は、強くなったんじゃない。強くなった“気がしてた”だけだ」


 拳を握る。だがその拳に、もうかつてのような勢いはない。


 彼は再び『神味堂』を訪れた。


 「須佐之男命の味噌汁……もう一度、飲ませてください」


 老人は頷きながら、静かに鍋に火を入れる。


 「今度は、何を学びに来た?」


 悠斗は答える。


 「本当の強さって、何なのかを——」


 今度の味噌汁は、以前よりも少しだけ優しい味がした。


 力とは、怒りに任せることではなく、自分を律すること。


 須佐之男命の嵐は、ただ壊すためにあるのではない。


 混沌の中から、新しい秩序と成長を生み出すためにこそ存在するのだ。


 悠斗は、拳ではなく言葉で、心を伝えることを選び始めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る