第2話 「月読命の味噌汁 〜静寂の代償〜」

 夜の帳が降りる頃、悠斗は再び『神味堂』の暖簾をくぐった。


 薄暗い店内は変わらず静かで、朱塗りのカウンターと年季の入った木の椅子が、淡い提灯の灯りに照らされていた。厨房の奥では、あの老人が変わらぬ穏やかな表情で悠斗を迎える。


 「今宵は何を求めてここへ来た?」


 悠斗はためらいながら席に着く。


 「……最近、感情に振り回されることが多くて。冷静に、もっと論理的に考えられるようになりたいんです」


 老人は微笑み、頷く。


 「ほう……ならば、月読命の味噌汁がふさわしいかもしれんな」


 そう言って、老人は静かに鍋を火にかけた。夜の神・月読命の力を宿す一杯——それがどんなものなのか、悠斗は無意識に息を呑んだ。


 鍋の中で湯が静かに波打ち、味噌が丁寧に溶かれていく。湯気とともに立ち上る香りは、驚くほど淡く、まるで月夜に舞う霧のようだった。


 ほどなくして、老人は朱色の椀を悠斗の前に差し出した。


 「さあ、召し上がれ」


 悠斗は慎重に椀を手に取る。表面には月のように薄く輝く油が浮かび、深い静寂の中に吸い込まれるような感覚を覚える。


 ひと口飲んだ瞬間——


 静寂が訪れた。


 頭の中がクリアになり、余計な雑音がすべて消えていく。これまで抱えていた迷いや不安が霧散し、まるで透き通った夜空のように思考が冴え渡る。


 「……すごい、こんなに冷静になれるなんて」


 悠斗は感嘆の息を漏らした。


 今なら、どんな選択も誤ることなく、最適な判断ができる気がする。感情に流されることなく、合理的に考え、正しい道を選べる。


 しかし——


 店を出てしばらく歩くうちに、ふと胸に奇妙な違和感が生じた。


 風が吹き抜ける夜の街。コンビニの前では学生たちが談笑し、公園ではカップルが寄り添いながら語らっている。


 けれど、その光景を見ても、何の感情も湧かない。


 それどころか、すべてが遠く感じられた。


 街の喧騒も、道行く人々の笑顔も、自分とは関係のない世界のように思える。誰かと関わることの煩わしさよりも、一人でいることの静けさが心地よいとすら感じる。


 「あれ……?」


 気づけば、スマホの通知がいくつも溜まっていた。


 友人からの誘い、恋人からのメッセージ、同僚からの軽い相談——どれも未読のままだ。


 今なら、すべてのメッセージに的確な返事ができるだろう。


 だが——


 指が、動かない。


 以前ならすぐに返信していたはずなのに、今はただ、億劫だった。言葉を交わすことが、どこか無駄に思えてしまう。


 人付き合いとは、感情のやりとりだ。楽しさもあれば、面倒くささもある。だが今の悠斗には、その『面倒くささ』の部分ばかりが目についてしまう。


 「……そうか、これが代償か」


 悠斗は呟く。


 冷静沈着な判断力を得た代わりに、心の温もりを失ってしまったのだ。


 感情に振り回されることはない。だが、誰かとともに過ごす喜びもまた、薄れてしまう。


 夜空を見上げると、雲間から月が静かに顔を覗かせていた。


 美しい。


 けれど、その光はどこか冷たく、孤独だった。


 悠斗はそっとスマホを開き、しばらく考えたあと、ゆっくりと友人のメッセージに返信を打ち始めた。


 温もりを完全に失わぬうちに。


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