第12話 「賭け事に勝ちたい男」

― 運命に挑む願いの罠 ―

 夜の神社は、昼とは違った静けさに包まれている。

 社務所の灯りはすでに落ち、鳥居の向こうには淡い月光だけが差し込んでいる。

 虫の声と、時おり木々を揺らす夜風だけが、境内に小さな波紋を広げていた。


 そんな晩、足早に境内へと入ってきた男がいた。

 肩を怒らせ、ポケットに手を突っ込み、うつむいたまま拝殿の前まで歩く。

 男――名は正志。

 年齢は四十手前、額には深い皺が刻まれている。

 くたびれた背広の下に、どこか投げやりな疲れが漂っていた。


 彼は、何かに取り憑かれたような手つきで賽銭を投げ入れ、頭を深く垂れる。


「……頼む、神さま。

 今度の競馬だけでいい、勝たせてくれ……。

 これで最後だ。負けが込んで、もうどうにもならない。

 一度でいいから“運”ってやつを味あわせてくれよ……」


 声はしわがれ、どこか切羽詰まった響きだった。

 “家族のため”“生活のため”と、最初は小さなきっかけだった。

 けれど気づけば、賭け事が人生の中心になり、

 借金が膨れ、家族にも呆れられ、会社でも肩身が狭くなっていた。


 “今度こそ勝てばやめられる”

 そんな幻想を、何度も胸の中で繰り返してきた。

 だが現実は、勝っても負けても同じ場所に戻ってきてしまう。


 俺――ご神木は、夜の風に揺れながら、男の願いを受け止めていた。

 賭け事の願い――

 それは、人間の弱さと欲望、そして心の孤独が最も濃く現れる祈りだ。


(“運”は与えるものじゃない。

 だが、負け続けて壊れていく心も、やはり見ていられない)


 俺は少しだけ、正志の願いに応えてやることにした。

 ただし、それは「勝利の奇跡」ではなく、「本当の運命に気づかせる試練」だった。


 翌日、正志は競馬場へ向かった。

 心臓が跳ねるような高揚感。

 ポケットのなけなしの金を握りしめ、何度も予想紙を睨む。


 最初のレース、まさかの大当たり。

 二つ目の賭けも的中し、財布の中身はあっという間に膨れ上がった。


 「来てる……!今日は運が来てる……!」


 ギャンブル独特の熱が体を駆け巡る。

 正志は心のどこかで“今日こそ全てを取り戻せる”と信じていた。


 次第に賭け金も大胆になっていく。

 最終レース、すべての勝ち金を賭けた。

 レースが始まり、馬たちが一斉に駆け出す。


 ゴールの瞬間――正志が賭けた馬は、

 あと一歩のところで足を取られ、大きく順位を落としてしまった。


 正志の手の中から、大金はするりと消え去った。


 場外に出ると、夕闇が急速に広がり始めていた。

 正志はぼんやりと空を見上げる。

 “負けた悔しさ”よりも、“何も残らない虚しさ”が、静かに胸に広がった。


 財布の中身は空っぽ。

 思わずポケットの中で小さな紙片に触れる。

 それは、娘がこっそり書いてくれた「がんばってね」のメモだった。


 正志はその場でしばらく立ち尽くしていた。

 やがて重い足取りで神社に戻り、誰もいない境内のご神木の前に立った。


「……神さま、俺は何をしてきたんだろうな。

 勝ちたかっただけじゃない。家族に、もう一度“誇り”を持ってほしかった。

 ……でも、結局俺は“負け続ける人生”から逃げたかっただけだったんだ」


 正志の肩が静かに震えた。

 涙が滲み、地面に落ちた。


 俺は枝を揺らし、一枚の葉を彼の肩に落とした。


(運命は、与えられるものじゃない。

 逃げずに“自分の手”で選ぶしかない。

 負け続けた過去も、すべて人生の一部として背負い、

 そこから新しく歩き出せるかどうか――それだけが、奇跡なんだ)


 正志はゆっくりと顔を上げた。

 涙で滲む視界のなか、夜明けの光が境内の端に差し込んでいた。


 翌朝、彼は久しぶりに家族と朝食を囲んだ。

 不器用に、でも「もう一度やり直す」と静かに誓った。


 賭け事の奇跡は与えなかったが、

 正志の心の奥に新しい勇気の芽が生まれていた。


 俺はそっと葉を揺らし、

 今日もまた、人々の“運命に挑む願い”に静かに耳を澄ませている。


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