第7話 「忘れられた誕生日」
― ささやかな願いと家族のきずな ―
梅雨明けの空はどこまでも高く、けれど町の空気はまだ重たく湿っていた。
神社の境内には夏草が伸び、時おりセミの声が響く。
木々の葉をすり抜ける風が、ほんの少しだけ涼しさを運んできてくれる。
その朝、俺の前にやってきたのは、まだ幼さの残る小さな少女だった。
大きめのランドセルを背負い、何度も境内を振り返りながら、拝殿に近づいてくる。
下を向いて歩くその様子からは、彼女の中に消しきれない寂しさがにじみ出ていた。
少女――名は結衣。
両親は共働きで、忙しい日々を過ごしている。
家には帰りの遅い父、食事の支度に追われる母、反抗期の兄がいる。
家族が顔を合わせることも少なく、食卓はいつも静かだった。
結衣は一人、拝殿の前に立つと、小さな手で強く掌を合わせた。
「……どうか、今年は……私の誕生日を、みんなに思い出してもらえますように」
その声は、蚊の鳴くようにか細かった。
けれど、その願いには幼いなりの切実さと、家族への微かな希望が込められていた。
俺は、神社のご神木として、さまざまな願いを聞いてきた。
「恋が叶いますように」「合格しますように」――人の欲や夢はさまざまだが、
結衣のように“自分のことを見てほしい”という願いは、どこか胸に沁みた。
(誕生日か……小さなことのようで、人間にとってはとても大切な日だな)
家族の誰もが自分の存在に気づかず、
誕生日さえ忘れられる――
それは小さな子どもにとって、世界に自分の居場所がないような、寂しさと孤独をもたらすものだ。
俺は静かに枝を揺らし、結衣の願いにそっと応えることにした。
けれど、それは派手な奇跡ではない。
ほんのわずか、“家族の意識”を結衣のほうへ、そっと向けてやるだけのこと。
誕生日の前日。
父親は職場でふと、ふだん開かないカレンダーを見返す。
母親はスーパーで「子ども用ケーキ特集」のチラシを手に取っている自分に気づく。
兄は友人とのLINEグループで「今日、妹誕生日だっけ?」というやりとりに遭遇し、
何気なくリビングの壁に貼られた家族写真を見直した。
みんな、それぞれの小さな偶然に胸のどこかがチクリと痛む。
「あれ、もしかして……?」
結衣は自分の部屋で、明日の朝が来るのをそっと願いながら布団にもぐった。
去年もその前も、誕生日には何もなかった。
「私なんて、いなくてもいいのかな」
そんな思いを振り払うように、ぎゅっと枕を抱きしめる。
そして、誕生日の朝――
結衣は静かに目を覚ました。
居間からは母の鼻歌が聞こえる。
台所には父が立ち、兄がなにやらバタバタと準備をしている気配がした。
「結衣――おはよう!」
家族がそろって、笑顔で立っていた。
テーブルには小さなケーキと、兄が選んだというプレゼントが置かれている。
母は「気づくのが遅くなってごめんね」と言いながら、優しく結衣の髪を撫でた。
父は照れくさそうに「これからは毎年ちゃんと祝おうな」と約束した。
結衣は信じられない気持ちで、目に涙を浮かべた。
「ありがとう……」
その声は、これまででいちばん大きく、そしてまっすぐだった。
その日の食卓は、久しぶりに家族全員が揃った。
笑い声や会話が絶えず、結衣は心から「自分はこの家の大切な一員なんだ」と思えた。
夜になって、結衣はもう一度、神社を訪れた。
静かな境内、夏の夜風に包まれながら、ご神木の前で深く頭を下げる。
「神さま、ありがとう。私、家族が大好きです」
俺はそっと葉を揺らし、一枚の葉を結衣の頭に落とす。
その瞬間、結衣は小さく笑い、また走り出した。
(ささやかな願いこそ、誰かの心を動かす大きな奇跡を生むことがある)
家族のきずなは、時にすれ違い、ほどけそうになる。
けれど、こうして小さな奇跡が人と人を再び結び直すのを、俺は何度も見てきた。
今日もまた、誰かのささやかな願いに、静かに耳を澄ませている。
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