掛かってこいや!

遠部右喬

第1話

 その日、俺は地方都市のビジネスホテルに泊まっていた。

 急に決まった出張に焦りつつ移動中にスマホでホテルを検索すると、幸いなことに、現場の最寄駅近くに安いホテルを予約することが出来た。こんな値段のホテルが空いてるなんてついてるじゃないか。


 仕事内容の殆どは、悪質なクレーム客への対応のようなものだった。朝っぱらから理不尽と思えるそれらの処理を終え、気付くと既に夜八時を廻っている……もうやだ。すっかり疲れ切っていた俺は、泥のような身体を引き摺りながらコンビニで夜食を買い込み、ホテルへと向かった。


 いざホテルに到着してみると、スマホの画面で見ていたよりもイイ感じの外観に驚く。これは当たりだな。

 安堵と共に中に一歩を踏み入れた俺は、眉を顰める羽目になった。ロビーがやけに薄暗いのだ。

 いや、フロント係の兄ちゃんは愛想が良かったし、内装もビジネスホテルとしては上等だ。勿論、照明だってきちんと点いている。それなのに、フロア全体が薄っすらと黒っぽい紗がかかって見えるのだ。やっぱ、疲れてるんだな。俺は目をこすり、満面笑顔のフロントの兄ちゃんから「202」と書かれたカードキーを受け取った。


 フロアマップに従い、エレベーターに乗り込む。

 エレベーターの中もやけに薄暗い。背面が鏡張りになっているので、もっと明かりを反射してもよさそうなものなのだが……まあ俺の部屋は二階だし、どうせすぐに降りることになるし、気にするほどの事でもない。そんな事より、明日の予定だ。午後には外せない会議が入っているが、新幹線のチケットは既に購入済みだし、九時にチェックアウトを済ませれば十分に間に合う。寧ろいつもよりもゆっくりできるってもんだ。


 ポーン。


 間延びしたチャイムが鳴り、エレベーターが二階へ到着する。エレベーターを降りて左に進み、すぐに突き当たる壁に沿って二つ目が俺の部屋だ。「202」とプレートのかかったドアにカードキーを差し込み、部屋の中に滑り込む。


 入ってすぐのミニクローゼットには、使い捨てスリッパとハンガーが二つ。ありがたいことに、衣類用の除菌消臭スプレーも備え付けられている。早速ワイシャツとスラックスをハンガーに掛け、消臭スプレーをブシュブシュと吹き付ける。

 脱いだついでだ。飯は後にして、まずはシャワーを浴びちまおう。シングルベッド脇の丸テーブルに、おにぎりの入ったコンビニ袋とスマホを置き、ベッドの上に用意されていた部屋着を手にバスルームへ向かう。


 シャワーは正直イマイチだ……水圧が弱いんだよな。髪を洗っている最中に何度かお湯が止まっちまったし。二階でこの程度なら、上階の部屋はさぞちょろちょろとした尿漏れみたいな水圧なんじゃなかろうか。しかも、ここも照明が薄暗い。時折唸りのような音を立て、がたがたとシャワーヘッドが振動する。気のせいか、お湯もやけに鉄臭い。

 風呂を出たらフロントに文句の一つも言ってやろうかと思ったが、相場よりも安目のホテルのことだし設備費をケチってるのかもしれない。シャンプーやボディソープのアメニティが用意されてるだけでも御の字だ。それより、腹が減った。

 気まぐれなシャワーに翻弄されつつも全身を洗い終えた俺は、ドライヤーもそこそこにベッドルームへ向かい、口をあんぐりと開ける羽目になった。


 俺の大事な夜食のおにぎり達……焼きたらこが、ピリ辛牛そぼろが、特選いくらの醤油漬けが、部屋のあちこちにころころと転がっていたのだ。丸テーブルの上には、コンビニのビニール袋とスマホだけが残っている。


(なんだ? 泥棒か?)


 慌てて適当に放り出しておいた手荷物を調べたが、幸い荒らされた形跡は無い。念の為、部屋の入り口とベッド下を確認しても異変無し。フロントに連絡するべきだろうか……そう考えながら、何の気なしに手を置いた丸テーブルががたつく。

 詰めていた息を吐いた。

 なんだ。テーブルにがたが来ているせいで、袋の中身が落ちただけか。きっと、気付かない内に小さい地震でもあったんだろう。なんでビニール袋とスマホは落ちなかったのかは分からないが、偶然なんてそんなもんだよな……おにぎりは個包装になっているし、ちょっと転がった位なら別に気にならんしな。よし、メシだ、メシ。


 拾い集めたおにぎりを、部屋に用意されていた「こちらはご自由にお飲みください」と書かれたミネラルウォーターで流し込む。ちょっと生臭いような……クローゼット前に置かれてて、冷えてないからか? うん、蓋にも異常はなかったし、多分気のせいだな。

 スマホを見ると、まだ十時を少し回ったばかりだ。しかし、疲れているせいか、やけに怠い。急いで歯磨きを済ませ、部屋の明かりを最低限にまで落とし、重たい身体をベッドに横たえた。


   *


 うう……う……う、う……


 ふと目が覚めると、まだ部屋の中は真っ暗だった。寝ぼけ眼で上体を起こし、ベッドのヘッドボードに備え付けられている時計を見ると、午前二時を指している。早くに寝たせいか、随分半端な時間に目が覚めてしまった……いや本当に、そのせいで目が覚めたのか?


 う……うう……


 耳元で男のものと思われる唸り声がした。そうだ、この声で目が覚めたのだ。そう気付いたとたんに、身体が動かなくなる。なんてこった、目しか動かせねえ。

 喉の奥から絞り出すような唸りが、更に大きくなる。額に脂汗が浮かんだ。


(これって、金縛りだよな? うおお、怖ぇ……)


 うう……うう……


 唸りと共に、後ろからどさりと何かが覆いかぶさってきた。そいつは首を伸ばし、俺の顔を逆さに覗き込む。闇よりもなお黒い顔の中央には、縦に並んだ二つのどろりと濁った眼。

 その眼が俺を睨んだ。


 怖あっ……いが、今の俺はそれどころではない。


 なんせ、仰向けで寝ていた所に、ヘッドボードの時計を確認する体勢、上半身をかなり捻ったまま、片肘だけで上体を支える形で金縛りにあっていたのだ。この体勢はツライ。脇腹攣りそう。

 俺は必死に心の中で訴えた。


(いや、この状態じゃ無理、お前にビビってる余裕なんて無いから。仰向けかうつ伏せか、それが駄目ならせめて上体を降ろさせて)


 影は唸るのを止め、小首を傾げた。次の瞬間金縛りが解け、俺はその隙に仰向けに寝ころがる。すぐに、再びの金縛り。

 漸く俺は気付いた。

 そうか。ホテル内がやけに薄暗く感じたのも、シャワーの調子が悪かったのも、おにぎりが吹っ飛んでたのも、何ならこのホテルがやけに安いのも、空き室があったのも、多分こいつが居るせいなんだろう。とんだ幽霊ホテルじゃねえか。

 俺の思考を読んだのか、影が「うう」と唸りながら、頷く。


(うんうん、じゃねーよ! おにぎり吹っ飛ばすとか、食い物を粗末にするんじゃねえ!)


 そう考えながら影を睨むと、奴は気まずそうに顔を逸らした。俺の身体を押さえつけていた圧力が、ふっと緩む。

 瞬間、俺は飛び起き、ダッシュでミニクローゼットに駆け寄った。明かりに乏しいせいで少々手間取ったが、何とか備え付けの除菌消臭スプレーを手に取り、影に向かってブシュブシュッと吹き付ける。

 まさか、以前に誰かから聞いた「除菌スプレーが除霊に使える」という都市伝説を実行する羽目になるとは思わなかったが、さてその効果は……おお、効いている⁈

 影は「うう!」と唸り、俺に恨みがましい目を向けるが、一定の距離を保ったまま近寄っては来ない。俺達は互いの間合いを保ったまま、薄暗い部屋の中で睨み合った。

 そういえば、どうしてこいつはこんなところで幽霊をやっているのだろう。このホテルで何か事件でもあったのだろうか。


「……お前、この場所で死んだのか?」


 除菌スプレーを構えたまま訊いてみた。影が首を振る。違うのか。


「……このホテルに、何か思い出でもあるのか?」


 再び影が首を振る。これも違うのか。まあ、割と新しめのホテルみたいだしな。え、じゃあ、まさか。


「……俺に、個人的な恨みでもあるの……?」


 影が、はあ? みたいなリアクションで肩を竦めた。てめーの事なんて知らねえよ、と言わんばかりの態度に苛立つ。じゃあ、なんなんだよ! 単なる愉快犯か!

 俺のリアクションに、影の目がにやにやと撓んだ……ように見えた。


 兎に角、このままでは埒が明かない。スプレーの中身もずいぶん減ってしまった。

 俺は意を決し、自分の両手に除菌スプレーをたっぷりと振りかけた。丁度空になったスプレーを背後に放り投げ、ファイティングポーズをとる。


「……幽霊だか何だか知らんが、上等だ。相手してやんよ」


 こいつは特に理由もなくこのホテルに居座り、何の罪もないおれを脅し、貴重な睡眠時間を奪うような奴なんだ。もう遠慮はいらねえ。こっちはいい加減、明日に備えて寝たいんだよ。


「掛かってこいや、おら!」


 そう小さく叫び(まだ夜中なので、周囲に配慮した)、除菌液まみれの拳で影に殴りかかる――因みに俺は身長175cm、体重62kgのひょろぞうだ。当然、これまでの人生で殴り合いなどしたことはない。


 こちらが喧嘩慣れしていないことに気付いたんだろう、始めは焦った様子で俺の拳を避けていた影もファイティングポーズを取る。

 ヤバい。俺、不利かもしれん。

 ……その心配は杞憂に終わった。影も、俺と同じくらいヘタレだったのだ。多分こいつも、生前(?)は、もやしみたいな身体だったんだろう。俺達はお互いに掠りもしない拳をブンブンと振り回し、不細工なダンスを踊り続けた。

 けど、こういう時は生きてる俺の方が不利なことには変わりない。運動不足気味の身体はすっかり息が上がり、足が縺れて転んでしまう。不味い、すぐに起きんと……って、お前も転んでるんかい! こいつ、本当にもやしだな。よくまあ、そんなんで人を襲おうとしたもんだ。


 気付くと、カーテン越しの窓の向こうが薄明るくなっている。ベッドのヘッドボードをちらりと見れば、時刻はもう午前五時をまわっている。

 くそ、結局殆ど寝られなかったじゃねぇか。

 すっかり息の上がってしまった俺は、がくりと膝を折った。除菌液はすっかり乾ききって、俺の手から無駄にフローラルな香りを漂わせている……ああ、疲れた……。


「分かったよ。好きなだけ、金縛りでもなんでもしろよ」


 だが、影は窓を避ける様に部屋の暗がりへと移動し、攻撃してくる気配も見せず、その場に佇んでいる。

 やがて俺達の間に、不思議な空気が流れた。それを言葉にするなら、「少年漫画の王道、殴りあった末に芽生える友情」……というのが一番近いだろう。

 俺は片頬に笑みを浮かべ、


「……お前、結構やるじゃねぇか」


 ――「やる」もなにも、俺達は互いに無駄に腕を振り回していただけなのだが。


『オマエモナ』


 呟きを最後に、影が消えた。

 その後は、どんなに俺が呼びかけても、アイツからの返事はなかった。もう部屋の何処にも薄暗い気配はない。ひょっとして成仏したのだろうか……いや、幽霊だったのか何なのかもよく分からないけど。アイツが満足して、もう誰も困らせたりしないなら、それが一番だ。もしかしたらこのホテルも、これからはもっと繁盛するかもな。

 人知れずホテルの危機を救ったのかもしれないぞ、俺。


 身体は疲れていたが、気分は悪くなかった。

 窓の外は、もうすっかり明るくなっている。結局眠れず、おまけに汗もかいたことだし、頭をシャキッとさせる為にももう一度シャワーを浴びとくか。

 薄暗さの払拭されたバスルームで、シャワーヘッドを手に取り、水栓を捻る。


 ちょろちょろちょろちょろ


 水ともお湯ともつかない温度の、まったく勢いのない鉄臭い水流が掌を伝う。

 思わず叫んだ。



「……いや、シャワーは元からの仕様なんかーーい!!」

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