第三話 赤き聖体、堕ちた祭壇
鞍に括りつけていた紐が切れ、分厚い書籍がばらばらと落ちた。
雲のなかでくぐもった雷鳴が漏れた。
王国騎士団書記局に所属しているロルフ・エクスナ―は「構うな!」と怒鳴り声をあげて、馬の横っ腹を蹴った。
巨躯のライベンを引っ掴む手の感覚が、もうない。
意識を失ってぐったりしたままのライベンは、想像を絶するほどに重く、鎧が手の指や腕や太腿にぐいぐいと食い込んで激痛が走る。
それでも、ロルフは王都を目指して馬を走らせた。
書記局の書生だった時代に、乗馬の実技が大嫌いだった。よく落ちて、泥だらけになって、同期の学友に「だっさ!」「馬にも乗れねえのかよ!」とバカにされた。とくに踵で脇腹を蹴って少しでも歩調を早めようとすると……うまくいかなくて、必ず振り落とされた。
それが、いまはどうだ――?
暴力によって騎士団長へとなったライベンを抱えながら、全力で馬をかっ飛ばしている。
ライベンが好きだから――? 違う、絶対に違う。
なのに、どうしてライベンを救うことをしているのだろうか。それも、これで二度目だ。
少しでも別の事を考えて手足の感覚から意識を逸らそうと必死に頭を回転させた。
ロルフは下級書記官に過ぎなかった。
ライベンが騎士団長になったのと同様に……彼の肩書も団長付きの主席書記官へと変わった。単純に専属の書記官を選定するのが面倒だったから、なし崩し的に役回りが継続した。
それはロルフにとって幸運だった。
ロルフはライベンに個人的な好意を持っていない。
あるのはただ、学究的探究心だけ――。
下級官吏の父親と図書館司書の母親のもとで育てられたロルフは、常に勉学とともに生きてきた。母親が職場から持ち帰って来る魔導書や歴史書を楽しく読むことができる少年だった。
成績は悪くない。しかし、実技の成績が壊滅的だった。
魔法の素質は薄く、運動神経も悪く、なによりひどい近視だった。
イゼル・ア・ムーナへの信仰が篤い両親とは異なり、世界に魔法が根を下ろした理由と信仰の対象たる天使に対する興味の方が強かった。
ロルフにとって魔法とは、生活を便利にするものではなく……世界に存在する『ふしぎ』の一つでしかなかった。
王都の郊外にある村へ馬は至った。
門番の衛兵が槍を手に行く手を塞ごうとしたので――。
「どけええっ! 騎士団長のライベンだ!」
そう叫んだ。
すでに早馬を飛ばして王都の神官であるアレクシス・フォーンへ伝達を出している。
衛兵は慌てて左右に道を譲り、ロルフと護衛の二騎の馬は村を無遠慮に横切った。
王都の大門をくぐり、石畳の中央通りを駆け抜ける。
ぐうっと伸びた長い坂を駆け登る。
頬を打つ雨脚が強くなってきた。
大聖堂に併設されている神殿の敷地に到着すると神官のアレクシス・フォーンが部下とともに担架を引き連れて駆け寄ってきた。ライベンの身柄を彼らに預けるなり、ロルフは鞍から転がり落ちるように石畳に倒れ込んだ。
事情を知っている騎士たちに、動揺が広がっている。
火焔の流星クレアと空哭の貴公子ディランが倒されたこと。それもたったふたりの手配犯に大勢力を率いた騎士団が敗れたという衝撃が、広がっていた。
ライベンの政治的指導力が低下することは疑いなかったが、あまりロルフは重要視していない。大切なのは事実であり、現状だった。
雨のなかで、石畳の上で大の字になって胸を上下させていたロルフに、アレクシス・フォーンが「おぬしも、ケガは?」と覗き込んでくる。
黒い雲から無数の雨が落ち、その景色に溶け込んだローブをかぶった老人の顔――。
これは神官なのか。悪魔の祈祷師の間違いではないのか。
そんな事をロルフは考えてから、顔を振り。
「禁忌のチカラが、迫っています。火焔の流星クレアと空哭の貴公子ディランが、いとも簡単に……」
「もうよい、喋るな」
喘ぐように報告するロルフにアレクシス・フォーンは目を伏せた。
ロルフは知りたかった。
「団長のライベンも、深手を――。もうごまかしじゃあ、効かない。王国を崩壊させる闇のチカラが、すぐそこまで迫っています……」
ふむぅ、とアレクシス・フォーンは息をついてから沈黙を保った。
「おぬしがなにを言いたいのか、理解しているつもりだ。やはり、あの神殿書庫への入場を許可したのは、あまり褒められた行動ではなかったのだろう」
「もう、遅い。僕はあの書庫で真実を、得ました。でも、まだまだ、足りない。時間が……うぐっ!」
手指の感覚が戻って来たのか、歪な痛みが末端に走った。
アレクシス・フォーンは残酷な沈黙のなかでロルフの呻きを見守り、言った。
「これからイゼル・ア・ムーナを降臨させる。我々の窮地を彼女に救ってもらわねばならん」
「やっぱり……あなたは、その方法をご存じなのですね」
「すぐにやるつもりだ。大聖堂で」
「供物は……? 降臨のための供物は、どうするのですか」
この問いかけにアレクシス・フォーンは唇をぎゅっと結んだまま、なにも答えない。
だから、ロルフは言った。胸が高鳴った。ひどく、胸が高鳴ったのだ。
「ライベンを使うんですね。あの穢れた肉体を餌に、守護天使イゼル・ア・ムーナを降臨させる」
「餌ではない。聖体だ」
この一言に、神殿書庫で読んだ歴史書の詩を思い出した。
彼らは救われたが、それは彼女に捧げられたからだ。
祝福の杯は、絶望の血で満たされた。
肉体を食い荒らすのではない、穢れた闇を払うのだ。
赦しとは、静かに燃える断罪の別名である。
大聖堂の天窓から光は入ってこない。ひどい雨が降り始めている。
天井画は暗く、湿った隙間風が吊るされた絹の布を怪しく揺らしていた。
鈍い光を放つ白金の祭壇に寝かされたライベンは、蠟燭の淡い炎の揺らぎのなかで神官たちの祈りの詩に包まれる。
正面の巨大な祭壇にはイゼル・ア・ムーナの巨大な黄金像が立っている。
そのひざ元で……意識を失っているライベンは、守護天使のもとへ召されようとしていた。
守護天使が地上に降臨するのなら、地の獄に潜む悪魔も、また――。
ロルフはそこで考えるのをやめた。いまは、考えるべきことがたくさんありすぎて、アタマがどうにかなりそうだった。
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