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初夏の日差しがアスファルトを照りつけている。梅雨入り前、六月特有の蒸し暑さに閉口した近藤は、制服のシャツの襟元を指で引っ張りながら駅前の坂道を登っていた。空はすでに夏の色を帯び、雲は薄く伸びている。歩道の脇に咲く紫陽花が、雨上がりの水滴をまとって青く光っていた。
「今日も暑いね、コン」
隣を歩く櫻井が、手にしたペットボトルの水を一口飲みながら言う。"コン"は幼い頃から櫻井だけが呼ぶ近藤のあだ名だった。逆に近藤は櫻井のことを”サク”と呼ぶ。ただしこのあだ名を口にするのは基本的に二人きりの会話の時だけで、ほかの友人と一緒の時には使わない、彼らだけの小さな秘密のようなものだった。
汗ひとつかかない櫻井の涼しげな表情は、この蒸し暑さとは無縁のようだ。15歳男子の平均身長よりはやや背の高い近藤を見上げる角度で話す櫻井の、中性的な線の細い整った顔立ちにはどこか達観したような雰囲気が漂っていた。
「お前、本当になんでそんなに平気そうなんだ?」
「慣れだよ、慣れ。あと、気にしないこと」
「それ、毎年言ってるよな」
学校が近づくにつれ、同じ制服を着た生徒たちがちらほらと見え始めた。
誰かが「昨日、また誰か倒れたってさ」と話しているのが耳に入って、近藤はなんとなく櫻井に話題を振った。
「隣町の事件、知ってるか?」
「高校生が昏睡状態で見つかったってやつでしょ。何日か前にニュースになった」
「原因不明なんだろ?ちょっと気味悪いよな」
「確かに……。まあ、僕らには関係ないよ。気にしすぎ」
櫻井はそう言って肩をすくめるが、その横顔はどこか不安げにも見える。確かに気にしすぎるのはよくないし、俺達には関係のない話だと思う。近藤はそれ以上話題を広げずに校門をくぐった。
教室に入ると、すでに何人かのクラスメイトが鞄を置いて各々の時間を過ごしていた。件の事件についてひそひそと話す女子数人。まだ授業も始まっていないというのにすでに自席で睡眠の体勢を取り始めている生徒もいる。窓際に固まっている男子たちは思春期特有のしょうもない話題に夢中だ。特別なことなどなにもない日常の一コマ。刺激もなく、浮きも沈みもしないこの日々を近藤は割と気に入っている。空調のよく効いた室温に近藤はようやく安堵の表情を浮かべ、鞄を下ろして自席についた。
一限目が始まると、教室は一気に静まり返る。窓の外では蝉がけたたましく鳴き喚いて夏の到来を主張していた。近藤が何気なく窓の外に視線を向けると、体育館から本校舎をつなぐ渡り廊下を何人かの女子が雑談をしながら歩いているのが見える。その中の一人を近藤は目で追っていた。
有子先輩だ。
有子は近藤より二つ学年が上の先輩だ。幼さと凛々しさが同居する整った顔立ち、小柄で華奢な体つき、肩の上で切り揃えられたボブカット。制服のスカートの裾をひらめかせて歩く姿には空を飛んでいるような軽やかさがあった。校内で彼女が歩くたび、男子生徒たちの視線が自然と集まる。近藤だけでなく、学年を問わず多くの男子から密かに想いを寄せられている存在だったが、不思議と浮ついた噂一つ立たない。恋愛より読書に没頭する時間を大切にしているような、そんな印象を周囲に与えていた。
昼休み、近藤は櫻井と屋上に上がる。屋上は風が通り抜けて、教室よりもいくらか涼しい。二人は並んでフェンスにもたれ、購買の紙袋からパンを取り出し口に運んだ。
「有子先輩、今日も美人だったな」
「またそれ?毎日言ってるよ、コン」
「毎日思ってるからなあ」
櫻井は軽く笑う。鼻筋の通ったその横顔はどこか儚げで、校内の女子たちが櫻井のことを密かに「王子」と呼び、熱視線を向ける理由も頷ける。
「告白とかしないの?」
「無理だって。あんなに美人で、社交的で……。俺なんか相手にされないよ」
「そうかな。案外、話してみたらいけたりするんじゃない」
「簡単に言うなよな……。そういうお前はどうなんだよ。知ってんだぞ、2年の先輩に告られてただろ」
「僕は……、今はそういうのはいいかな」
櫻井は顔を赤らめて、視線を逸らした。自分で振ってきた恋愛の話題のくせに、いざ自分に向けられると苦手な櫻井だった。
午後の授業が終わると、校舎の外はさらに暑さを増していた。グラウンドでは運動部の面々が声を張り上げている。近藤は鞄を肩にかけ、櫻井と昇降口まで歩いた。
「今日も部活?」
「うん。サクは?」
「僕は帰るよ。漫画の続きが気になるから」
「お前も部活入ったら?F研、面白いぞ」
「有子先輩がいるからでしょ。まあ、気が乗ったらね」
昇降口で別れを告げ、近藤は部室棟へと向かった。二階東側の最端、非常階段の数ぐ横にあるファンタジー研究会、通称F研の部室の扉には「侵入者は竜の炎で焼かれる」という張り紙が張られている。昨日までなかったものだが、これは間違いなく有子先輩の筆跡だ。こういう突拍子もないことを思いついて、しかも実行するのがいかにも彼女らしいな、と近藤は小さく笑った。
鍵を回して中に入ると、こもった熱気と湿気が近藤を迎えた。目に入ったのは壁一面に広がる世界地図のポスター。それは現実の地図ではなく、有子先輩お気に入りのファンタジー小説の架空世界マップだった。赤いマーカーで主人公の旅路が丁寧になぞられ、要所要所に付箋が貼られている。
もとは用具室か何かだったのだろう、ほかの部活と比べて随分と窮屈な空間だが、それでも近藤と有子の二人以外はほぼ幽霊部員で構成されている零細な文化部には十分すぎる広さだった。有子先輩がたびたび披露するマニアックな講義についていけず、近藤以外のメンバーはいつの間にか足が遠のいていた。
本棚には世界的な名作から、いったいどこで入手したのかわからない珍しい小説や漫画がところ狭しと並んでいる。色あせた表紙の古書から新刊の輝くカバーまで、時代を超えた物語が静かに眠っていた。そのほとんどが有子先輩の持ち込んだものだが、最近は近藤も気になった作品を少しずつ持ち込んでいる。
「いいセンスしてるよ、近藤君!」と有子に褒められるのを、近藤は密かな楽しみとしていた。
新鮮な外気を取り込もうと近藤は窓に近づいた。振り返ると、机の上に小さな手鏡が転がっているのが目に入った。この部室には似つかわしくない実用的なアイテムで、どこにでもあるような手鏡だが、なぜか妙に近藤の心にとまった。
「先輩のだよな……」
近藤はなんとなく鏡を手に取った。その表面はほのかに暖かい。陽光が鏡面に反射し、部屋の壁に淡い光の模様が揺らめいた。一瞬、鏡の中に映った自分の顔が別の何者か物のように見えて、近藤は思わず息を呑み、瞬きをする。だが、もう一度見ると、そこには疲れた表情の自分が映っているだけだった。
近藤は鏡をもとの位置に戻して窓を開け放ち、外から聞こえる蝉の声に耳を傾けた。やがて部室の扉が開き、有子が顔を覗かせた。
「近藤君、今日も早いね」
有子が向ける大人びた笑顔に近藤は思わず視線を逸らした。胸の奥がまた少しだけ熱くなる。彼女の手には今日も分厚い小説が握られていた。きっとまた、異世界の物語に没頭する時間が始まるのだろう。
何気ない夏の日常が静かに続いていく。ただ部室の片隅に転がる鏡だけが、これから始まる物語の予兆のように静かに光を放っていた。
膝の上のニア イノエ @inoetan
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