膝の上のニア
イノエ
1-1
少女の柔らかな膝の上で、黒毛の猫が身体を丸めている。首元を軽く掻いてやると、気持ちよさそうに喉を鳴らした。
森の外れ、朽ちた木の洞の中で飢えていたのを見つけたのだ。獣に襲われでもしたのか、右耳が大きく欠けていた。痩せこけた身体は乾いた血と泥とで汚れ、肋骨が浮き出るほどに衰弱している。
助けるべきか否か少女は逡巡した。罠の可能性があった。要塞と呼ばれたこの森に張った壁は並の魔法使いに抜けるものではないが、例外はあるものだ。
"フラトニールの火槍"。
"カノーの親鍵"。
この私と魔力で拮抗しうる恐ろしい魔女たちだ。しかし"槍"相手であれば私は遅れをとることはないし、"鍵"ならば、そもそも回りくどい罠を張る必要がないのだ。
……少女の眼前で、猫は詰まった鼻を鳴らしている。青く澄んだ瞳の檻の中に、少女の姿を捕らえながら。
少女は観念した。わかったよ。きっとどうとでもなるだろう。それに私は猫が好きで、結局この子を放っておくことなど出来ないのだ。少女は複雑な色のため息を吐いて、猫を薄い胸に抱え込んだ。
時間の止まった木々がそのざわめきを一瞬取り戻しては再び沈黙する。深い森の中、幾重にも張り巡らされた結界を慎重に外し、また再構築しながら猫を抱いた少女は木漏れ日の中を進んだ。
術者本人にもその数を把握できないほどの結界のバリエーションの豊かさと、それを維持して余りある膨大な魔力の量とが少女の真骨頂である。目には見えない大きな力の奔流が、少女に付き従う生き物かのように森中を這いずり回っていた。
しばらく経って、少女は小さな古城にたどり着いた。かつての戦禍の爪痕か、それとも天災によるものか、構造物の大半が崩れ落ち浸水している。まだ城砦として機能していた頃にはそれなりの人数が詰めていたのであろうが、今は大部屋の隅に積み重ねられたまま朽ちた椅子の脚数にその面影を残すばかりである。崩壊を免れたいくつかの部屋と小さな庭が現在のこの城の全てで、それでもなお少女には持て余す広さだった。これからは猫一匹分狭くなるのだ。少し散らかっているけれど、と前置きをして少女は木製の扉を開いた。
そうして一人と一匹の生活が始まった。窓から差し込む朝日が二つの影を床に映す日々。猫は少女によく懐いた。くたくたに煮込んだ豆が好物のようだ。少女の料理の腕は良くも悪くもなかったが、それでも猫は毎食を飽きずによく食べた。猫らしく水浴びは苦手なようでずいぶんと苦労させられたが、爪を立てて逃げようとする猫を辛抱強く諭し、しっかりと汚れを落としてやると、艶やかな毛並みが顔をのぞかせた。漆黒の中に宿る深い青みが夜空のように美しい。
「お前、なかなか美人だね」
感心した少女が微笑みかけると猫は軽く背を伸ばし、濡れた全身をぶるぶると振るった。宙に舞った水滴が少女をずぶぬれにする。思いがけない水浴びに少女は一瞬目を見開き、次いで柔らかい笑い声を響かせた。長い間忘れられていた鈴のような音色が石造りの壁を伝い、空虚な城の隅々まで温かく満ちていった。
しばらくの介抱ののち、猫は復調した。痩せた体は肉付きがよくなり、毛艶も増した美しい猫であったが、耳の傷はそのまま残った。
少女は猫をこのまま城に置くことにした。猫も離れるつもりはないようだ。
そうと決まれば、猫には名前が必要だった。いつか離れるときのことを思い、名付け親になるのを躊躇してきた少女だった。
「いつまでも”お前”じゃあね」
足元にじゃれつく猫を抱きかかえ、少女は古びた肘掛け椅子に腰を下ろした。年季の入った木材が少女と猫の体重で微かに軋む。膝に置いた猫の背中を撫でながら長考するが、ありきたりな名前ばかりが思い浮かんでは消えていく。堅実で努力家で、その努力に応えるだけの才知を持つ少女ではあるが、発想力と独創性には欠けていて、それを少女は自覚している。魔力の理論体系を構築し論理回路のように正確に配置する技術には長けていても、言葉に美しさを宿らせることは、少女の得意とするところではなかったのだ。
ああ、素敵な名前を思いつく私ならよかったのに。小さく少女は呟いて猫の首元を軽く掻いた。窓から差し込む夕日が、部屋を赤く染めている。
少女の気持ちを知ってか知らずか、猫は嬉しそうに目を細め少女の手に頭を擦り寄せてくる。 その仕草と体温に、少女は猫のやさしさと慰めを勝手に感じ取った。柔らかな毛並みの感触を指先で楽しんだのち、少女は諦めたように、あるいは祈るように身をかがめて猫の耳元に顔を寄せ、囁くように問いかけた。
「どんな名前がいいかな?いい名前が思いつかなくて」
その声に反応するように猫はゆっくりと顔を上げ、少女の瞳をまっすぐ見つめた。猫の澄み切った青い瞳に知性の揺らめきを感じる。綺麗だなあ。と少女は思った。そして一人と一匹の間に静かな時間が流れたのち、猫は小さく鳴いたのだ。
その短い鳴き声は特徴的で明瞭で、妙に少女の耳に残った。とても、とても可愛かった。だから少女はそのまま、それを猫の名前にすることにしたのだ。我ながら安直だとも思うけれど、だってもう、これしか考えられないのだもの。
窓の外を見やりながら、少女は猫に優しく語りかける。
「遠い遠い国の言葉で、傍、という意味もあるのよ。ニア、ずっと傍にいてくれる?」
猫はもう一度短く、にあ、と返した。
その森は奇妙に暗く、不自然なほどに音がない。森の主人の少女の名を冠して、『アルコの砦』と呼ばれている。
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