第6話 空を旅する者
「よっ、ほっ、てぃっ!」
暗い校舎の中で、少女の声が木霊する。
その声を追うように、破壊音が鳴り響く。
その場にあるもの全てを活かして逃げるソラノと、身体能力のゴリ押しで仕留めにかかる悪魔。
二人のやり取りは、すでに10分以上も続いていた。
ソラノは宣言通り身体強化だけでこの猛攻を捌いており、魔力消費は殆どない。
息を切らし、身体中から冷や汗が止まらないが、それでもソラノにはまだ余裕があった。
理由は2つある。
そもそも、前回の悪魔戦とはまるで前提が違うのだ。
前回と違い、ソラノは相手の攻撃を受け止める必要がない。全て躱せば済む話なのだ。
この場合、ソラノの小さな体は初めて武器となる。
そして、ソラノの魔力制御技術が進化していることもまた、大きな理由である。
門番に扮していたハデンが、初めてソラノと目を合わせた時のシニエルが、その瞳で捉えたのはおかしな光景。
ソラノの体の中を高速で移動する魔力。変則的に眼、腕、足をグルグルと動くそれは、緻密な魔力制御による神業であった。
そう、ソラノは起きている間中ずっと鍛錬を怠らない。
朝ごはんを食べているときも、野良猫に話しかけているときも、スカウトをしているときも。
その魔力制御は絶えず行われ、精度が向上していく。
初めての悪魔との戦いを経て、必要だと感じた身体強化の素早い切り替えを、ソラノは初めて練習していた。
そのことに関して精神的な疲れを覚えないほどに、集中力を要しないほどに、体に慣れさせたのだ。
だから、ソラノは笑った。
「まだまだまだぁ!!」
腕、天井に捕まって自分の体を押し出す。
足、壁を蹴って推進力を増す。
瞳、悪魔を捉えて離さない。
腕、足、腕、瞳、足、瞳、足────
めまぐるしく切り替わるソラノの魔力制御。
熟練の仮面師ですら、こんなことは不可能だ。
そもそも魔力制御とは基本技能であり、ここまで極めることはしない。
でもソラノは極めた。
極めたあとも、研磨を続けている。
だってソラノにはこれしかなかったから。
ひたすら、武器を磨き続けて。
だから今、やっとその武器を活かせる嬉しさに、ソラノは笑っているのだ。
ソラノは階段に辿り着き、そこに書かれている表示を見た。
8階、目的地だ。
階段を上り切ったところには三メートルほどの高さの大扉があった。
そしてその扉はすでに開ききっている。
屋上の中心に佇んでいるのは、白い魔力を身に纏わせた天使。
シニエルだ。
「あとは頼んだ!!」
シニエルが頷くのを見て、ソラノは悪魔が一瞬見失うほどに魔力を抑えた。
逆にシニエルは、魔力を高めて剣を創る。
悪魔の瞳がシニエルを見据えた。
その剣に対して初めてとも言える、脅威を感じたからだ。
神器。天使が己の魔力で創り出すことのできる、聖なる武器。
天使と契約した仮面師の殆どが神器を武器とするほど、それは優れている。
普通の武器なら魔力を流さなければ悪魔にダメージを与えられない。
だが、神器なら話は変わってくる。魔力の込められた物質どころではない、そのものが魔力で構成されているのだ。
悪魔への圧倒的な特攻性を持ち、例えシニエルが大狼より少ない魔力であろうと、その命に届き得る。
心の乱れ、自我の乱れにより無骨だったはずのシニエルの神器。
一度噛み砕かれたそれは、鋭く細く、何より強く。
弛まぬ努力により築かれた魔力制御によって輝きを増している。
「練習通り、練習通りでいいから」
シニエルはこれから、ソラノが校庭に降りるまで時間を稼がなくてはならない。
ぶつぶつと呟きながら、シニエルは間違いなく人生で一番集中していた。
その優れた眼は決して悪魔の動きを逃すことなく、剣を握る手には力が込められている。
瞬間、飛び出す悪魔の鉤爪と、シニエルの剣が激突した。
魔力同士の衝突によって火花が散る。
シニエルの剣は、完全に悪魔の一撃を受け止めていた。
そこから始まる激しい攻防。
牙と爪に己の権能を乗せ、飛ぶ斬撃として放つ悪魔と、その全てを剣で弾くシニエル。
空に咲く白と黒の閃舞。
それは複雑に絡み合い、常にお互いの命の傍にあった。
少しでも崩れれば死ぬ。シニエルと悪魔の最たる違いは、その耐久力だ。
シニエルの剣が何度か悪魔を切り裂いたとしても、悪魔が死ぬことは無いだろう。
だが、悪魔の一撃はシニエルにとって致命傷になる。
死なずとも、戦闘継続は不可能だ。
それを分かっていながら、シニエルは決して退かなかった。
ソラノが死ぬ気で作ったチャンスをここで逃すわけにはいかないし、とシニエルは独りごちる。
本心は、ソラノの信頼を裏切りたくないという想いに集約されていた。
退けない。心の底から負けられない。
シニエルはここにきて遂に、戦う理由を得たのだ。
しかし、そんな余裕の無さが、実戦経験の多寡が、勝負を分けることとなった。
爪を薙いだあと、悪魔がくるりと体を翻したのだ。
前身を大きく後ろに反り返らせ、後転する。いわゆるサマーソルトの動きを取った。
その結果、繰り出されるのは凄まじい質量を持つ尻尾での一撃。
そこに権能による魔力の上乗せも加えられ、シニエルの剣とぶつかった。
拮抗は一瞬。
斬撃自体は受け止めたもののシニエルの剣が再び砕け散る。
「かはっ」
そして、シニエルの体には斬撃を失った尾が届いていた。
高い身体能力を最大限に活かした一撃。とてもではないが、シニエルに耐え切れるものではない。
屋上から、シニエルの体が投げ出され、追随するように悪魔が飛び出した。
飛ばないと死ぬ
痛む全身に震えながら、シニエルはそう直感した。
確かに落下によるダメージは無い。シニエルだって天使だ。未だ魔力の込められていない地面では、何の痛みも感じないだろう。
だが、上から悪魔にのしかかられるとなっては話が変わってくる。
間違いなく死ぬ。先ほどは受け入れたはずの死が、なぜか今は心がぎゅっと凍るほどに怖かった。
翼をはためかせても風をおこすばかり、シニエルの体は浮き上がらない。
なら権能で、と魔力を込めても……やはり発動しなかった。
シニエルの翼はとうに折れている。
己の権能に対する果てしない不信感と、醜い翼への嫌悪。
その呪縛からそう簡単に逃れることはできなかった。
飛べない、飛べないの。あたしはいつもそう。
あぁ、空はこれほど近く見えるのに。
その空が、呆れるほどに遠い。
シニエルは己を眈々と狙う赤い瞳を見て、死を悟った。
◆
天使養成学園の地下には、この世の叡智が集められた大図書館が広がっている。
そこでしか閲覧できない情報も多く、一般人の立ち入りは禁止されているほどであった。
最低でも中級天使以上、仮面師ですらその立ち入りを断られることは多い。
真理書庫、と呼ばれることさえあった。
そこで蠢く3つの黒い影。
それは真理書庫の本を漁り、目的の情報を焦りつつも探す。
焦るのは当然だ。
なぜならここには、奴がいるからだ。
「急げ、そろそろタイムリミットだぞ」
黒い影の一つ、中級悪魔のベルベッドがそう言った。
その言葉に他の二人の中級悪魔も頷き、書庫を探し回る。
中級悪魔が3人。
並の仮面師ギルドであれば、容易く落とせてしまうほどの大戦力であった。
それでも、それでもだ。
「ふむぅ、ワシが見るにタイムリミットはとうに過ぎ去っているがの」
誰もいなかったはずの場所から、声が響いた。
好々爺とした笑顔を見せるその人物こそ、現代まで生き残った最高齢の天使。
名を、ハデン=バルディニア。
ベルベッドたちは瞬時に持っていた書物を放り投げ、臨戦体制に入った。
上級天使はそれほどに警戒しなければならない相手である。
「いかんいかん、本は大切に扱わんとな」
だからこそ、ベルベッドは背後から聞こえてくるその声に驚いた。
放り投げたはずの本を全て拾い集め、元の場所へ戻している。
その全身から溢れ出す余裕を、ベルベッドのプライドは許さない。
「てめぇ舐めてんな」
書庫が揺れるほどに魔力を垂れ流し、空間を黒く染め上げる。
大気が軋むほどに莫大なその魔力は、ベルベッドが中級悪魔のなかでも最上位に位置する証。
幾多もの仮面師を屠り、付けられた異名は血染めのベルベッド。
ベルベッドに付き従っている2人の中級悪魔も、それに呼応するように魔力を高めた。
「天握のハデン、権能の話は聞いてるぜ。強いんだってなぁ」
ベルベッドはにやりと笑って、残像が見えるほどの速度で飛び出した。
その手には莫大な魔力が篭もった武器を構えている。
「だがその権能、この距離でも使えるかよ!!」
迫るベルベッドを笑顔で見るハデン。
確かに速い、優秀な悪魔であるのだろう。
「はぁ、つまらん男じゃの」
ハデンが表情を変えるのと同時、ベルベッドの頭が消える。
いや、消えたのではない。正確に言うならば、切り取られたのだ。
それを為したのは洗練された神器、リットグリント。
ハデンと共に戦場を駆けた両刃の大剣である。
残った体が力無くばたりと倒れ伏した。
黒い血が床を染め上げ、やがて端から魔力の粒子となって消えていく。
「権能なんぞ使わんでもお主程度敵ではない。もう聞こえとらんか……ほれやるわい」
ハデンはその手に掴んだ頭を、震えて動かない中級悪魔の片方に投げ渡した。
「それで、力の差が分かったところじゃろうて。抵抗することなく目的を吐いてもらえるとありがたいんじゃが」
ハデンの言葉に2人の中級悪魔は無言で構えを取った。
死んでも吐かぬ、とその顔が告げている。
「面倒な奴らよ。まぁ、探していた場所から大体の検討はついておるのじゃがな」
ハデンは凍りつくような冷たい視線を向ける。
「どうせ最近目覚めた“勇者の仮面”についてじゃろ。ワシは理由が分かったが、お主らには一生分からんことよな」
悪魔が一瞬、ぴくりと動いた。
これほどの力を持った悪魔が群れて行動するとなると、最上級悪魔が動いた可能性が高い。
そして悠久の時を生きる彼らが動くのはいつだって、自身の命が脅かされるときだけだ。
そう思って聞いてみると、やはりビンゴだ。勇者の仮面は現存する中でも稀有な、最上級悪魔すら殺し得る原初の仮面。
「アタリじゃな。やっぱりワシって天才」
目的がバレたとなると、悪魔としてもこのまま逃げ帰るわけにはいけなくなったのだろう。
お互いに目配せして、ハデンへと肉薄せんと足を一歩踏み出して。
そこまでが、彼らにできた最期であった。
ハデンが右手を握り込んだ瞬間、二人の中級悪魔は何かに押しつぶされるように消失したのだ。
ハデンの持つ権能、『
大気を己が手の如く自在に操る力である。
「残る悪魔は一体か。ま、シニエルとあの子のコンビなら問題ないじゃろて」
ハデンは息を吐き、またにやりと笑った。
シニエルはハデンを超える天使になる。ハデンはそう確信していた。
努力のできる天使は少ない、というか居ない。ハデンが努力するようになったのも、相棒たる仮面師が死んでからの話だ。
ならばシニエルはどうか。
生まれた頃より努力を続けてきたあの子なら、とハデンは思うのだ。
それにあの少女、聞くところによると名前はソラノというらしい。
ハデンの眼が見抜いたのは彼女が持つ透き通るほどに透明な白い魔力。
あれは間違いなく勇者の証だ。
勇者の仮面が反応を示したのは、きっとソラノの勇気に呼応してのこと。
伝説が蘇る日は近い、そうハデンは確信していた。
「あの二人が組んだらワシとて勝てぬかもしれんわい」
さ、掃除せんとな、とハデンは荒らされた書庫で呟くのだった。
◆
ソラノがそれを感じたのは、5階の廊下を走っているときであった。
上から落ちてくる二つの魔力。
間違いなくシニエルと悪魔のものだ。
合図はしていない、つまりは異常事態。
ソラノに迷いは無かった。
真っ直ぐに魔力を感じる方へと走っていき、窓を割って飛び出す。
タイミングは完璧だった。
震えているシニエルの体を抱き止め、ソラノは迷いなくシニエルを逃がそうとした。
この段になって、ソラノの頭から悪魔を倒す、という考えは消えている。
ただシニエルを守らなければならない。そんな想いがひたすらにソラノを突き動かした。
逆にシニエルは、迷いなく飛び出してきたソラノに苦笑しつつ、自分を悪魔の軌道から押し出そうとするソラノの体を逆に抱きしめた。
そして、翼でソラノを優しく包み込む。
これで最低限、地面に落ちた時の衝撃は緩和されるだろう。
あとは自分が盾になり、ソラノを逃がせばいい。
ただソラノを守らなければならない。そんな思いがひたすらにシニエルを突き動かした。
この絶対絶命の状況の中、二人の想いが完全に一致する。
優しく、甘く、どこまでも温かい想いが。
ある天使は言った。
己の拠り所になる者の、拠り所になりなさい、と。
そしてそれが、仮面師と天使が真に力を発揮する条件であるのだと。
溶け合う。お互いを想う強い気持ちが、ただひたすらに溶け合っていく。
そしてシニエルの体と意識もまた、ソラノと溶け合った。
天使の憑依現象が、意図せず起こった。
ソラノは仮面を介さずに、己を媒体としてシニエルを憑依させたのだ。
長い世界の歴史の上で、初めてのこと。
これを奇跡だというのは簡単だろう。
しかし、これは決して奇跡ではない。
シニエルが己の全てをソラノに預けきったこと、ソラノが己の全てをシニエルに預けきったこと。
シニエルがソラノを守りたいと、己の身すら魔力に変えてソラノを強化しようとしたこと。
そして、ソラノの魔力制御技術が理外の領域にあったこと。
挙げるならキリがないほどに天文学的な重なりはしかし、全て彼らの想いゆえ。
ソラノの体が白い魔力を帯びて光る。
目を見開くと、見えるのは満点の星空と迫る悪魔。
空ってこんなにも綺麗だよ、シニエル。
そうね、ソラノ。あなたと見る空なら────
「「────飛べる」」
シニエルの持つ権能はなんの役にも立たないもの。
翼を持つ天使には笑われ、力こそを尊ぶ悪魔からは無価値だ。
重い仮面鎧装を纏う仮面師では操れず、誰にも見向きされずに生まれ落ちた。
けれど、それでも。
ソラノはシニエルが持つ、この権能を素敵だと思った。
だってそうでしょう?
翼のない
ありがとうシニエル、あなたのおかげで私に翼が生えたみたい。
『
ソラノが天を踏み締めた。
空を飛ぶというのは誰にでも許されたことじゃない。
どんなに強くとも、翼無き生き物は空においては無防備だ。
世界の掟、絶対の楔から、ソラノだけが逃れられる。
その手に、白く輝く神器を握りしめて。
二人分、力強く鼓動する心臓よ。
そしてその奥、決して色褪せぬ心の灯火よ。
私に空を魅せてほしい。
「はぁぁぁあああああ!!」
悪魔に向かって、
無防備に落ちてくる悪魔を真正面から切り裂いた。
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