第5話 あなただから


「っっつ!!」


 アラートが鳴り響くのと同時に、シニエルは鋭い殺気を感じとった。

 素早く魔力で剣を構築し、振り返る。


 そこに佇んでいたのは体長4メートルはあろうかという漆黒の大狼。

 間違いなく悪魔であった。

 シニエルからすれば、それは分かっていたこと。天使養成学園のアラートが鳴り響くのは悪魔が侵入したときだけ。


 予想できていなかったのは、その悪魔の強さであった。


「う、そ……」


 シニエルの眼に映るのは膨大な黒き魔力。

 一瞬中級かと疑ってしまうほどに大きなそれは、しかし一定の間隔で揺らいでいる。


「あんた、それの」


 シニエルが剣を構えて尋ねても、やはり答えは返ってこない。

 魔力量に見合わない知能の低さ、シニエルは確信した。


 授業で習ったことがある。

 その魔力制御技術や、知能が魔力量と見合わない場合、その悪魔は“眷属”である可能性が高い、と。

 中級以上の悪魔は格下の悪魔に契約を持ちかけ、己と繋がりのある眷属を作り出し、魔力を貸し与えることができるらしい。


 最低限、溢れる魔力を霧散させない程度の拙い魔力制御技術を見るに、最近眷属になった悪魔なのだろう。


「そう、答えないのね」


 ふぅ、とシニエルは息を吐く。

 初めての実戦、それも相棒たる仮面師無しでの戦い。

 相手は格上、シニエルの倍以上の魔力を保有する大狼。


「魔力は心の力……」


 シニエルは思い出す。

 自分を見つめる空色の瞳、輝かんばかりの意志を撒き散らしていたあの少女を。

 そして、彼女の中で芸術の如く制御される魔力を。


 シニエルは飛べない天使。


 翼の折れたシニエルは、あのソラノという少女には釣り合わない。

 だから断ったし、遠ざけた。

 自分に決して未練が残らぬように、この先含めて最後のチャンスだったことは理解していながら。


 ソラノの魔力は少なかった。

 シニエルのそれより遥かに、彼女は才能に恵まれていなかった。

 それでもソラノは諦めず、きらきらとした瞳で夢を語っていた。


 シニエルは彼女より多くの物を持って生まれ、彼女より多くのことを諦めて生きてきた。

 スカウトされたんだし、やっと天使として恥ずかしくない戦いができる……なんて思った自分を、シニエルは何より恥じた。


 醜いとすら思った。あれほどに突き詰められた努力に対して、そんな想いで返すなら、死んだ方がマシだと感じるほどに。


 ハデンに言われずとも、シニエルは無意識の内に悟っていたのだ。

 シニエルが努力するのは周りの目を気にしてのこと。“戦う理由”など無い。夢はとうに折れた。


 それは、ソラノとはまるで違う在り方で。

 シニエルの並外れた眼は、その全てを見てしまったから。


 落ちこぼれの天使は、己の身を引いたのだ。


「あれ……あたし、何のために────」



 ────戦えばいいの



 大狼が迫る。

 戦う理由無き者に、勝利は訪れない。


 シニエルの形作った無骨な剣が、その牙によって容易く噛み砕かれるのもまた、当然のことであった。


 バラバラになって宙に舞う魔力の欠片。

 力の抜けたシニエルは、ぼーっと前を見た。


 口を大きく開ける大狼が視界に映る。

 そして身動き一つせず、それを静かに受け入れた。


 そうだ、死んでしまおう。

 なんの引っかかりもなく、そう思った。


 もはやシニエルに闘志ちからなど湧き上がってこない。



 戦う理由も、生きる理由すら、シニエルには────



「────あっっぶない!!」



 そんなシニエルを、一人の少女が抱きしめるように突き飛ばした。







「え、あれ、なんで……」


 私の下敷きになって目を白黒させるシニエルを見て、私はほっとした。

 アラートが鳴ったから何かあったのかと急いで戻ってきてほんっとうに良かった。


 あと少しでも遅ければ、シニエルは頭を噛みちぎられて死んでいたと思う。


「シニエル! いいから立って、逃げるよ!!」


 まだ理解が追いついていない様子のシニエルの手を取り、私は校舎に向かって走り出す。

 本当なら悪魔と戦いところだけど、あれは流石に勝てる気がしない。


 前戦った牛さんより圧倒的に強そうだし、何よりシニエルを守ることを優先したい。

 幸いにもここは夜の学校で、生徒も残っていないはず。

 シニエルにさえ気をつければ、被害は出ない。


「ガウゥゥゥ!!」


 でっかい狼さんは見た目通り、とんでもなく速かった。

 身体強化をして普通の人とは比べものにならない速度で走っている私とシニエルに、当然のように追いついてくる。


「シニエル、行くよ!」


 大口を開けて迫る悪魔を背にして、私とシニエルは窓ガラスをぶち破って教室に転がり込んだ。

 追随するように壁を壊して悪魔が入ってくるけど、流石に速度は落ちている。


 私は窓が思ったより硬くてぶつけた肩が痛いけど、シニエルと狼さんにダメージは無さそうだ。

 それも当然。悪魔と天使は魔法的なダメージしか受けないからだ。

 魔力の込められた物質での攻撃か、悪魔か天使による直接攻撃しかダメージになり得ない。


 私がこの悪魔に勝てないと判断したのは、私の魔力を全て使ったとしても体力を削りきれないと判断したからだ。

 だから今は逃げ一択!


 引き続きシニエルの手を引いて、廊下を疾走する。

 少し速度が落ちていた悪魔もまた加速して追い縋ってきた。


 むむぅ、ちょっと速すぎない??

 これじゃ幾ら逃げても意味がない。


 なら、次はダメージを与えるまで。


「シニエル、もっかい!」


 言葉と同時に、突き当たりの教室の窓を蹴り破る。

 先ほどと同じように追ってくる悪魔。


 当然だ。これを繰り返した場合、先に体力が尽きるのはこちらなのだから。

 ただし、それは同じことを繰り返した場合の話。


「ほっ!」


 私は窓を突き破る瞬間、窓枠に手をかけて壁に魔力を流し込んだ。

 一瞬にも満たない魔力放出と、そのことを悪魔に気がつかせない隠蔽。

 私の最も得意とするところだ。


 悪魔は気がつかず、そのままの勢いで突っ込んでくる。

 運動エネルギーはバカにしたものじゃない。地球の法則からは悪魔さえ逃れられない。


 多少強度が上がったものの、そこまで魔力をこめたわけではないので、壁は簡単に崩れ落ちた。

 だが、速度を殺さないままに魔力がこもった物質に頭を打ちつけたのだ。

 先ほどとは違い、悪魔が苦しそうに唸った。


 確かに刻まれたダメージ。

 それに比例して上がるボルテージ、滾る怒りの衝動。


 明らかに目の色が変わった。

 獲物を見る目から、敵対者を警戒する目だ。


 鋭い視線が私を射抜き、しばし膠着が生まれる。


「はぁ、はぁ、シニエル、作戦があるの」

「はあ、ふぅ、なにをする気よ」


 その隙にお互い息を切らしながら話し合った。

 悪魔から逃げる作戦じゃない。


 悪魔を“殺す”ための作戦会議だ。


 私だけじゃ絶対に勝てない。それでも、シニエルが居てくれるなら。


 あなたが私と一緒に戦ってくれるなら。



「む、無理よ。あたしにそんなことできな「ううん、出来るよ」



 シニエルが不安いっぱいの顔で私を見てくるけど、私は満面の笑顔で返した。

 出来ないはずがない。だってシニエルはすごい天使だから。


「私が三日間校舎にスカウトに行っている間、シニエルを一度も見なかった」


 そう、門番さんに教えてもらわなければ、私は絶対シニエルと出会えなかった。

 それはなぜか? あの様子を見ていれば理由を察することなど簡単だ。


「毎日、校庭で訓練してたでしょ? 今日みたいに夜遅くまで」


 スカウトのために校舎を周っている間、行われている授業が勝手に聞こえてきた。


 仮面師との関係の築き方や、憑依の注意点。

 悪魔に殺されそうな際の対応や、法律的な観点からの逃亡判断など。


 まさしく仕事の説明だった。

 天使という種族が全うするべき『悪魔退治』についてのお話ばかりで、訓練など誰もしていなかった。

 天使はプライドの高い種族なので、鍛錬するということはイコール醜いことであるらしい。


 訓練するということは、今の自分で満足できていないということだから。

 誰も、だ。私が断られた856人、誰も訓練をしていなかった。天使は生まれ持った魔力と、それに付随した魔力制御技術で戦う種族である。


 シニエルはそんな“仕事”としての天使ではなく、自らの意思で、自らの考える“天使”を体現していたのだ。

 それは彼女が何を言おうと、取り繕えない本心。


 私が真にシニエルを選んだのは、シニエルから私とおんなじ匂いがしたから。


 悔しくて、泣きたくて、それでも諦めきれなくて。

 ずっとずっとずっとずっと、努力し続けてきた人の匂いがしたからだ。



「他の誰でもない。シニエルだから信じてる」



 私の真剣な言葉を聞いて、シニエルが俯く。

 ぐすん、と鼻を啜る音が聞こえてきた。


「あたしも……あんたを信じるわ。あんたとなら、戦える」


 シニエルはそんな嬉しい言葉と共に、前を向いた。


 よし、作戦開始だ!





「はぁああああああ!!」


 私は悪魔に向かって飛びかかった。

 体を大きく動かし、拳に魔力を込めて振るう。

 もちろん、攻撃が目的ではない。私に意識を釘付けにするための行動だ。


 ほんの少しだけ遅れて動き出したシニエルが、悪魔の足元を滑るように抜けた。

 その手には再構築された白い剣が握られている。


「死になさい!」


 シニエルは握った剣を上に向け、貫かんと振るう。

 私に意識を向けていた悪魔では避けられないだろう、と思ったんだけど。


 悪魔は想像以上の反射神経の良さで、後ろに飛び退いた。

 私の攻撃は空振り、シニエルの剣も空を突く。


「ソラノ!」


 けど、それもまた想定内だ。

 シニエルが刺突の勢いそのままに剣を離した。

 空中の私はその剣を受け取り、くるりと一回転。


 勢いを殺さず悪魔へと投擲する。


「これダメだ! プランB!!」


 悪魔に剣が届く前に、私はシニエルに叫んだ。

 悪魔の身体能力と反射神経が尋常じゃない。幾ら連携をとっても、正攻法じゃ倒せないと判断した。


 シニエルは一つ頷いて、天井に殴りかかる。

 バキャっ、と凄い音がして、2階に直通する穴が出来上がった。


「先に行って!」


 剣を躱して距離を詰めてくる悪魔と相対しながらシニエルを先に登らせる。

 逃がさん、と言わんばかりの迫力で肉薄する悪魔。

 前足の爪に魔力を込め、勢いよく振り下ろしてくる。


 空間を引き裂く3本の線。

 触れるだけで切れそうなほど鋭利なそれは、尋常じゃない速度で私へと放たれた。


 特殊能力はなにも、天使だけが持つものではない。

 天使だけでなく、悪魔にもまた権能を持つ個体は存在するのだ。


 爪痕を魔力の斬撃として飛ばしてくるこの攻撃は、間違いなく権能だ。

 一本一本から感じられる魔力が、私の全魔力より多い。


 けど、斬撃ならもう覚えたの。


 瞳に宿していた魔力を瞬時に両腕へと移す。

 止まったように見えていた世界が急激に動き出すが、予測はすでに終えている。


「ふっ!!」


 右で2本、左で1本。

 指先で先端を払うことで無理矢理に軌道を変えた。

 前受け流したものより重さがないので、容易いことだ。


 前回の反省を活かして、指が焼けないように魔力で薄い膜を作って保護もしている。


「とりゃ!」


 一瞬動揺したのか隙を見せた悪魔の顎を蹴り上げ、私も2階へと上がる。

 そして待機していたシニエルに声をかけた。


「シニエル、やれそう?」


 深呼吸をして気持ちを落ち着かせていた様子のシニエルは一つ頷いて、強い瞳で私を見つめてくる。


「やるしかないんでしょ。ま、あたしに任せなさいよ」


 にこり、とシニエルは微笑んでくれた。

 隠し切れない震えを抑え込むようにして。


「ほんとは仮面があれば良かったんだけど……」


 私は呟く。そう、仮面があればシニエルに憑依してもらって、仮面師として立ち向かうことが出来た。

 けど、仮面が無いからその選択肢は取れない。

 私たちは無茶な作戦に賭けるしかないのだ。



 今回の狼さんは、前の牛さんなんて足元に及ばないくらい、何もかもが高水準だ。

 けど、一つ劣っていることがある。それは知能だ。

 悪魔の知能は個体によって差が激しい。これで頭の良い悪魔だったら勝てないけど、この程度ならまだ勝機はある。


 作戦は簡単だ。

 理論としてはさっきしたことと同じこと。


 地球の法則を利用して、悪魔を殺す。

 今度はその規模が先ほどの比ではないというだけだ。


 まず私が悪魔を引きつけ、この校舎の屋上である8階まで連れて行く。

 これは悪魔の動きを先読みできて、翻弄できる私にしかできない役目だ。

 

 次にシニエルとバトンタッチして、今度はシニエルが悪魔を引きつけ、屋上にとどめておく。

 私が合図をしたらシニエルは悪魔に背を向けて逃げ、屋上から飛び降りるのだ。


 悪魔は追ってくるだろう。

 知能の低い悪魔は後先考えずに獲物を追う習性があるらしい、とシニエルから聞いたから多分間違いない。

 

 そして私は地面に魔力を流し込み、魔力がこもった物質としておく。

 先ほど教室の壁を武器としたのと同じ論理だけど、今回は使う魔力量が全然違う。

 はちゃめちゃに地面を硬くするつもりだし、落ちてくる場所の予想も難しいからできるだけ広範囲にしておきたい。


 シニエルは権能を使って空をジャンプすることで校舎に戻る。

 落ちてくるのは悪魔だけという寸法だ。


 これなら悪魔を狩れる。

 流石に落下だけで死ぬとは思えないけど、甚大なダメージを負うことは間違いない。

 

 重力とはそれほどに抗えない力なのだ。


「じゃあシニエル、また後で会おう」


 私はそれだけ言ってシニエルと分かれ、丁度登ってきた悪魔と再び対峙した。


 嵐のように吹き荒れる怒りが、悪魔から感じられる。

 グルル、とその唸り声も腹の底に響くよう。


 気にせず、私は構えた。

 魔力による身体強化、それだけで乗り切ってみせる。


「そう簡単に私は殺せないよ、狼さん」


 私はにこりと笑って、悪魔に背を向けて走り出す。


 捕まったら死。

 地獄の鬼ごっこの始まりだった。

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