第8話:おじさんと夢
——耳の奥で、かすかな風の音がしていた。
冷たい空気が頬を撫でる感触で、私は目を開けた。
見慣れた天井はなかった。
視界いっぱいに広がっていたのは、淡い朝もやに包まれた草原だった。
草の先についた雫が、かすかな光を反射している。遠くでは鐘のような音が、低く、ゆっくりと響いていた。
「……どこ、ここ」
自分の声が、やけに澄んだ空気に吸い込まれていく。
制服のスカートの裾を握りしめながら、辺りを見回すと——
「小夜ちゃん?」
後ろから聞き慣れた声がした。振り向くと、そこにいたのはおじさんさん……のはずだった。
「……おじさん?」
でも、昨夜のパジャマ姿じゃない。
深い青の外套に、革の胸当て、腰には剣。
足元は土と草に馴染んだブーツで、肩には革製のバッグが掛けられている。
その姿は、完全にゲームの中の“冒険者”だった。
「おじさん……それ、どうしたんですか……?」
「……わからない。気づいたらこうだった」
おじさんは眉をひそめ、草原を見渡す。
その表情には、私と同じくらいの困惑があった。
「でも……ここ、間違いないな」
「え?」
「俺が巡った五つの異世界のうち……最初の世界だよ」
その言葉に、心臓が一拍遅れて大きく跳ねた。
「つまり異世界……?」
「そうだね」
おじさんはゆっくりと息を吸い込み、遠くに見える尖塔を眺める。
「あの塔……まだあるんだな。俺がこっちに来た最初の頃、よく見てたやつだ」
私の足元では、短い草が風に揺れ、朝もやの向こうから鳥の鳴き声が響いてくる。
でも、どこか現実感がない。夢の中にいるような、けれど肌に触れる空気の冷たさや、土の匂いはやけに鮮明だった。
「えっと……じゃあ、これって夢じゃなくて……本当に……」
「多分ね。僕も混乱してるけど……一つだけ確かなことがある」
おじさんは視線を塔から外さずに言った。
「こんな形で戻ってくる予定は、なかったってことだ」
その時だった。
塔の方角から、低く長い鐘の音が響いた。
音に合わせるように、空を巨大な影が横切っていく。
竜——としか思えない姿が、もやの上をゆっくりと滑空していった。
言葉を失って見上げていると、視界の端で何かが動いた。
塔のふもとのもやの中から、一人の人物がゆっくりと近づいてくる。
全身を黒い外套で覆い、フードを深くかぶっている。顔は影になっていて見えない。
その歩みはゆっくりなのに、不思議と一歩ごとに距離が詰まっていくように感じた。
やがて、その人物は私たちの数メートル手前で立ち止まった。
空気が、重くなる。
「……楔は、そろった」
低く響く声だった。
男か女かもわからない。けれど、胸の奥を直接撫でられたような、不快な感覚が背筋を走った。
「どういう意味だ……?」
おじさんが一歩踏み出す。だが、フードの人物は答えず、ただ静かに私の方へ顔を向けた。
その瞬間、もやの中で何かが光った気がする。目——だったのかもしれない。
そのままくるりと背を向け、再びもやの中へと消えていった。
足音はなかった。ただ、残されたのは草を揺らす風の音だけ。
私は息をするのも忘れていた。
おじさんも、剣の柄に手をかけたまま、その消えた方角を睨んでいる。
「ただの夢ってわけじゃなさそうだな」
そう呟いたおじさんの声が、やけに遠くに聞こえた。
朝もやの草原で、私たちはただ立ち尽くしていた。
これが何の始まりなのかも知らないまま——。
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