第9話:おじさんと翌朝

 ——カラスの声が聞こえる。

 その声がやけに耳に響いた瞬間、小夜ははっと目を開けた。


 天井。

 見慣れた、白い天井。

 淡いカーテン越しに朝日が差し込んでいる。


 さっきまで、確かに自分は草原に立っていた。

 湿った土の匂い、肌をなでる朝もやの冷気、そして——

 隣で戸惑った顔をしていた、異世界仕様のおじさん。

 あれは……夢?


 枕元の時計は、いつもの朝より少し遅い時間を示していた。

(やば……)

 慌てて布団をはねのけ、制服に袖を通す。ボタンを掛けながら、まだ頭の奥でさっきの景色がちらついていた。


 階下から母の声が響く。

「小夜ー 起きてるなら早く降りてきなさい、遅刻するわよ!」


 キッチンに入ると、味噌汁の湯気と焼き鮭の香りが迎えてくれた。

 母はエプロン姿で、手際よく食器を並べている。


「おはよう」

「おはよ。尾路さんはもう会社行ったわよ。朝、けっこう早く出ていったわ」

「……そう」

 椅子に腰掛けながら返事をすると、ポケットの中でスマホが震えた。

 画面には短いメッセージ。


『今日の夜、少し時間もらえる? 話したいことがある』


 その一文だけで、心臓がひとつ跳ねた。

 指先が少し震えながら『わかりました』と打ち、送信する。


 母が味噌汁を置きながら微笑んだ。

「今日は部活?」

「……うん。その後自習室よるかも」

 自分でもわかるくらい、声が上ずっていた。


 朝食を口に運びながらも、頭の中はスマホの画面に釘付けだった。

 “話したいこと”——あのおじさんのことだから、きっと普通じゃない話だ。


 食後、食器を流しに置き、洗面所で歯を磨く。

 鏡に映った自分の制服姿が、なぜか夢の中の景色と重なった。

 制服の裾が朝もやに濡れ、足元が冷たかったあの感覚——ありありと思い出せる。

(やっぱり……夢じゃなかったのかな)


 鞄を手に取り、玄関のドアを開けると、冷たい朝の空気が頬をかすめた。

 一瞬、その冷たさが、夢の中の草原の風と同じように思えた。


 通学路はいつも通りの景色。

 けれど小夜の胸の中には、現実と夢の境界線がうすくなったような感覚が残っていた。

 そして夜、おじさんが何を話すのか——そればかりが頭を占めていた。


 小夜は深く息を吸い込み、足を踏み出した。

 現実味のないまま、いつもの通学路へ進んでいく——。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る