5

 その決心のおかげで今ここには花がある。

 芍薬と、S嬢が。

「辞めるなら前もって言ってくださればよろしかったのに!」

 悪かったよ。

「予習が無駄になったわ」

 それも――悪かったよ。

「辞めるとわかっていたら――私だって、感謝の言葉の一つくらいは差し上げたのよ」

「意外だな」

「心外だわ」

 S嬢にはもう別の講師がついたが、ペギンダンの続きは教わらないらしい。代わりに数学をやるんだそうだ。算盤をぱちぱち弾くみたいに、数字の神秘を探る、崇高な学問――エート、Xの冪が二乗の軌跡(夏融先生はてんでだ)。

「ここまで意気地無しだと笑いも出来やしないわ――甲斐も意気地も無いんじゃ、いったい何が残ってるのかしら(僕だって知れたらどんなに嬉しいか)」

 真っ白な芍薬は水滴の滴るほどに溌剌と咲いている。反対に半分だけ白人であるS嬢の膝は赤い。

 (なんで赤いのかな。きっと僕が勘違いをしているせいだ。

 アスピリン、アダリン、アスピリン、アダリン。

 マルクス、マルサス、マドロス、アスピリン、アダリン)

「いっそ、先生にも翼があったら」


 そうだ。

 ヤリナオシ。

 ヤリナオシをしよう。

 剥製になってしまった僕が、もう一度飛ぶために。

「茉莉!ヤリナオシだ。僕と君と――きっと互いに忘れることなんて出来ないけど、それぞれ勝手にヤリナオそうじゃないか」

 僕が馬鹿だった。それは絶対、変わらない。でも茉莉も僕と同じくらい馬鹿だった。

「私、これからどこへ行くと思う?」と、そう言った舌の先すら見なかったから、寂しくなってしまったんだろう。

 だから僕を置いていったんだ。僕じゃいけなかったんだ。今度は退屈しないといいな。

 生きることと死ぬことと、どちらが罪深いか知らぬまま、もう一度だけ生にすがってみて、だから明日には桃が生る。僕は一人分の桃を見てちょっと笑い、明日を生きるための金が無くたってまたちょっと笑う。目が覚めた僕は六畳のアパルトマンを飛び出し、一服のアスピリンが熱を下げると、鳥籠の開くような気持ちがする。

 独りでいたって夜は来る。変わらなくたって朝は来る。どこへ行こうかな。英吉利イギリス、それこそ倫郭へ?あんまり現実味が無いけれど、それだけにありありと浮かぶようで笑ってしまう。

 そうだ。僕は、剥製だよ。翼の生えた剥製だ。資本の歯車の天辺から、僕のためだけに飛び立って、それでも胸には夢の跡が――

 きっと死んで見せると言って、それでも生きてみたくなって、結局は鳥のように永らえるのだから、薄氷でできたような僕の翼は本当、大したものだ。


「――それで、どうなったんです?」

「自分で考えたらいいだろう」

「あら。それをわかるようにするのが先生の仕事ですわ」

 降参だ。


 それからずっとして、S嬢が合格したと風の噂に聞いた。僕は桃のない今の庭を見渡してから顔を上げて――

 空には道を照らしている、彼女の遊んだ月があった。

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剥製 夏融 @hayung

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