第2話 橘先生と僕
「……先生、もしかして……霊が、見えるんですか?」
言ってしまってから、晴樹は後悔した。
こんなことを口にしたら、また「変なやつ」と思われるかもしれない。
相手が教師であろうと――いや、教師だからこそ、余計にまずいかもしれない。
しかし、橘は驚くでもなく、軽く目を伏せるようにして言った。
「そうだとしたら、君は……どうするの?」
「……!」
静かに、けれど確かに、心がざわめいた。
それはまるで、ずっと胸の奥で眠っていたものを、そっとすくい上げられたような気持ちだった。晴樹は答えをすぐに出せず、橘の顔をまっすぐに見つめた。
橘の目は、晴樹のそれをまっすぐに返す。一切のからかいも、疑いも、優しさを装う嘘もない。
「……僕は、視えるんです。昔から。けど……誰も信じてくれなくて」
それを聞いた橘は、ふっと微笑み、言った。
「大丈夫。無理に信じさせなくていい。ただ、君が視えるということが、君にとって真実なら――それだけで十分」
その瞬間、晴樹の心に、少しだけ雨が止んだ。そして、二人はしばらくの間、黙って雨の音に耳を澄ませた。
霊の姿はもうなかった。
まるで、「もう、いいよ」とでも言うように、その姿を静かに消していた。
「帰ろうか。風邪をひくよ。」
そのとき、晴樹は思った。
この人は、普通じゃない――でも、だからこそ今、初めて“自分が普通じゃないこと”を肯定された気がする。
橘と並んで歩く帰り道。放課後の校舎のまわりは、まだしとしとと雨が降っていて、空気は湿っていたが、晴樹の胸の内はなぜか軽かった。
「……さっきの霊、どうしてあそこにいたんだと思いますか?」
ぽつりと聞いた晴樹の問いに、橘は少しだけ目を伏せる。
「理由を持つ霊もいれば、ただ留まっているだけの霊もいる。けれど……あの子は、君のことを見ていた気がするよ」
「……え?」
「君が声をかけたとき、少しだけ、雰囲気が柔らかくなっていた」
そう言った橘の横顔は、いつもの明るい教師の顔とは違い、どこか遠い記憶を思い出しているように見えた。
晴樹は口を閉じて、その言葉の余韻に耳を澄ませた。雨音だけが傘を叩き続けていたが、不思議と寒くはなかった。
「先生は、そういう霊に何度も会ってきたんですか?」
「まあ……そうだね。けれど、君ほど素直に声をかけられる人は少ない。普通は、見えても無視する。それが自分を守る方法だと考えるからね」
橘の声はどこか寂しげだった。
晴樹はその感情の正体がわからずに、ただ歩幅を合わせた。
「先生って……本当に不思議な人ですね」
すると橘は、いたずらっぽく笑って言った。
「それは君が言うことか? 僕から見れば、君の方がずっと不思議だよ。……でも、悪くない」
その瞬間、晴樹は胸の奥がじんと温かくなるのを感じた。誰かに「不思議」と言われることが、嫌じゃなかったのは初めてだった。
そして、その日から、晴樹は少しだけ『視える自分』を隠すことをやめようと思った。
校門を出てからも、橘と晴樹はゆっくりと並んで歩いていた。傘の中にふたりだけの空気が漂っていて、外の雨音とは違う、穏やかな静けさがあった。
橘は、無意識に隣の晴樹を見た。
黒髪にまだ雫が残っていて、雨の気配が残っている。表情は穏やかだが、その奥にどこか人に言えない孤独が見え隠れしていた。
(――やっぱり、似ている)
胸の奥が微かに疼いた。
いつかの記憶。赤っぽい瞳で人を見つめていたあの人の面影。今は目の前の少年の中に、それがゆっくりと息づいているのを感じる。
「……橘先生」
突然、名前を呼ばれて、橘は軽く目を見張った。
「どうかした?」
「……なんでもないです。ただ、今日は、ありがとうございました」
たどたどしいその言葉に、橘の胸がまた締め付けられた。
(ありがとう、か……。俺が君に言いたかった言葉なのに)
けれど、それを口には出さず、橘は柔らかく微笑むだけにとどめた。
「どういたしまして。……君が、君でいてくれるだけで、僕は嬉しいよ」
晴樹は少しだけ目を丸くしたが、何も言わず、ふっと笑った。
――その笑顔を見たとき、橘は確信した。
(間違いない。君の中に、あの人がいる。……だけど、今の君は、『君』なんだな)
過去を追いかけることと、今を大切にすること。その狭間で揺れながら、橘はそっと歩幅を合わせた。
そして、ふたりが分かれる駅前で、橘はふいに立ち止まり、晴樹に言った。
「ねぇ、晴樹くん」
「……はい?」
「君が今日、あの霊に話しかけてくれたこと。きっと、あの子も嬉しかったと思うよ。だから、怖がらないで。君のその力は、優しいものだから」
一瞬、晴樹は目を見開いたが、やがて真剣な顔でうなずいた。
「……はい。ありがとうございます、先生」
ふたりの間に、静かな何かが芽生えた瞬間だった。
駅の改札をくぐり、晴樹の姿が見えなくなったのを確認すると、橘は小さく息を吐いた。傘を閉じ、肩に雨粒を受けながら、夜の道をゆっくりと歩き出す。
「……濡れるのも、悪くないな」
誰にも聞こえない声でつぶやく。
昔は、こんなふうに雨を煩わしいと思っていた。だが、長い時を経て、雨は記憶を洗い流すようなものになった。
(まさか、あんなに似ているとは……)
晴樹の目。ふとした時にのぞく、あの赤い光。
それはかつて、橘の記憶の中のあの人にそっくりだった。
(けれど、違う。……あの子は、あの人とは違う)
同じではいけない。似ているからといって、すべてを重ねてはいけないと、橘は分かっていた。けれど、感情というものは厄介で、理屈では止められない。
胸の奥に、あの時と同じ温もりが灯るのを感じてしまう。
「……俺は探していたんだ、ずっと。だけど、君は君として、今を生きている」
見上げた空には、どこまでも冷たい雨。
だが、なぜか心の底はほんのり温かかった。
(あの子を守ろう。一人の人間として。)
自分にそう言い聞かせると、橘はまた歩き出した。背筋をまっすぐに伸ばし、教師としての顔を取り戻しながら。
君が願うなら、僕は何度でも手を差し伸べる――それが、千年遅れの、贖罪だから。
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