第3話 日常
朝。
晴樹は一人、教室の一番後ろの窓側の席に着く。いつも通り、誰とも目を合わせず、誰とも言葉を交わさない。
だが、周囲は賑やかだ。
バレー部の男子たちが教室で声を張り上げ、女子たちは新しく来たイケメン教師「橘先生」の話題で盛り上がっている。
「見た? 橘先生、今朝も職員室の前で女子に囲まれてたよ」
「やばくない? 顔だけじゃなくて、声も落ち着いてて……なんか大人って感じ~」
晴樹は、無言で教科書を開く。別に興味がある内容ではないが、話す相手もいないので、そのまま読むふりをする。
そうすることで、誰とも話さなくて良いという心地にしてくれて、どうも心が落ち着く気がした。
ふと、視界の端で教室のドアが開いた。
「おはようございまーす」
相変わらず爽やかな笑顔で入ってきたのは、噂の中心にいるその人――橘 輝明。
一瞬、教室の空気が変わった。女子生徒たちは、橘のその顔を見て歓喜し、男子生徒は「またその笑顔を振りまくのか」とでも言いたげに呆れた顔をしていた。
橘の視線がふと、晴樹の方に流れる。昨日の出来事を思い出すが、あれから今日はまだ一言も話していない。
(……なんで、見てくるんだろう。やっぱり、昨日のこと、かな?)
晴樹は思わず俯いた。心が波立つ。霊が視えるなんて、誰かに信じてもらえたのは橘が初めてだった。正直、あの時は安心した。
授業が始まる。橘は黒板に丁寧な字を書きながら、ややゆっくりとした口調で話す。その声は不思議と心に染み込んでくるが、晴樹は一切手を挙げない。
誰にも気づかれないように、授業を聞く。ペアワークが始まっても、一言だけ話して気まずい雰囲気になり、また、ノートに静かに字を書き続ける。
それが、晴樹の日常だった。
体育の時間。
晴樹は運悪くジャンケンで負けた結果、リレーの選抜で走ることになり、内心げんなりしていた。
「またかよ、あいつ足遅いのに」「いや、もう諦めろよ」と小さく聞こえる声。
彼はただ黙って順番を待つ。走れば、案の定ビリだった。
でも、誰にも何も言わない。ただ、グラウンドの隅で体操座りをして、風が過ぎるのを待っていた。
放課後。
校舎の裏手、中庭に向かう。そこには今も、ときどき「見えるもの」がいる。今日も、傘も差さずに、霧のように揺れる人影が佇んでいる。
「……なんで、ここにいるの」
誰にも聞かれないよう、小さな声で問う。
霊は答えない。ただ、そこにいるだけ。しかし、晴樹も答えは求めない。ただ、それが日常の一部になっている。
ふと、昨日のように雨が降ってくる。
肩が濡れはじめたその時。
「……また、無防備だね。君は」
声がして、傘が差し出された。
見ると、そこには橘が傘を持って立っていた。口元には、いつものように優しい笑顔。
「……別に、大丈夫ですよ。傘はないけど、タオル、持ってきてますし」
「風邪をひくと大変だよ。君、細いし」
「……なにか知ってるんですか、僕のこと」
「少しだけ。……君のことは、ずっと前から気になっていたから」
その言葉に、晴樹はまじまじと橘の顔を見る。だが、言葉は返さない。ただ、傘の影に黙って身を寄せる。
橘はそれ以上何も言わず、一緒に中庭を離れた。
橘と並んで中庭を離れたあと、晴樹は教室には戻らず、そのまま帰ることにした。
橘もそれを咎めなかった。ただ、傘を差したまま、校門の前まで無言で一緒に歩いた。
「……ここまでで大丈夫です」
「うん。じゃあ、傘は貸しておくよ。明日、返してくれれば」
橘は、柔らかく微笑んで傘を晴樹に渡した。
受け取った傘は、黒いけれど、どこか懐かしい香りがした――木の皮のような、あるいは、火のような。香のような匂い。
(……なんで、こんな匂いが……)
「それじゃ、また明日。ちゃんと風呂入って元気に来いよ?」
橘が踵を返し、雨の中へ歩き去っていく背中を、晴樹はじっと見ていた。
何も言い返せなかったが、どこか胸の奥に、小さな音が残っていた。
***
その夜、晴樹は夢を見た。
灰色の空の下に、何もない草原が広がっていた。
そこに、一匹の銀色の毛並みの、大きな狼がいた――いや、狼ではなかった。
人の形に近づいた何か。けれど、瞳は人ではなく、深く、金色に、光を宿していた。
(あなたは……誰……?)
その存在が、晴樹に近づいてくる。
まるで「迎えに来た」とでも言いたげに。
そして、その瞳とぶつかった瞬間――
ぱちん、と何かが弾けた。
「っ……はっ……!」
晴樹はベッドで跳ね起きた。汗をかいていた。息が荒く、鼓動も速い。
跳ね起きた衝撃で落ちたのか、床にあった時計を見てみると、まだ朝の五時半過ぎだった。
(今のは……何……?)
カーテンの隙間から、雨の音がまだ聞こえていた。
そして晴樹はふと気づく。
部屋の隅に、ぼんやりと佇む、見覚えのない人影があった。立っていたのは、昼間中庭にいた霊だった。
でも――その目は、赤く光っていた。
(……まさか)
その時、扉がノックされた。
「……晴樹、大丈夫?起きてる?」
母の声だった。おそらく、さっきの落ちた時計の音で心配したのだろう。
「……大丈夫だよ、時計が落ちただけ」
晴樹は慌てて言ったが、母にはこんなこと、言えるわけがない。きっと、これは誰にも相談できない。多分、橘以外の人は。
視線を戻した時には、霊はもういなかった。
だが、彼の胸の鼓動は止まらなかった。
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