第伍話:緑と太陽
体内の熱がじわじわと奪われていくような感覚が、フブキの意識を辛うじて繋ぎ止めていた。
腹部を握りしめる手に滲むのは乾ききらない生温かい血液。その痛みが意識の淵へと引きずり込もうとするのを、フブキは必死に抗っていた。
このままでは、本当に失血死してしまうかもしれない――そんな絶望的な予感が、彼の脳裏を鈍くよぎる。
傍らには白い肌を草原の緑に晒して、ウィズが静かに横たわっている。規則正しい寝息がかろうじて彼女の無事を告げていた。周囲を見渡せばどこまでも広がる緑の絨毯。遮るものは何もなく、開け放たれた空間は心細いほどに静かだ。しかしこの静寂が安全を意味するとは限らない。背の高い草陰や、遠くの林の奥には、予期せぬ脅威が潜んでいる可能性だってあるのだ。
フブキはまるで全身の骨が軋むような痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がった。視界の端が薄い紫色に滲んでいる。それは彼の特殊な体質によるもの、あるいは失血によるものか――定かではなかった。
「でもここは……一体どこなんだ……?」
乾いた喉から絞り出した声は、草原の広さに虚しく吸い込まれていく。助けを求めようと辺りを見回しても、人の影は見当たらない。そうだ人がいないということは助けてくれる人もいないということなのだ。
どれだけ声を張り上げても、この広大な草原の向こうにいる誰かに届くはずもない。その残酷な事実に、フブキの心は一層深く沈んだ。
彼の大きな声が静寂を破ったのだろうか。眠っていたウィズがゆっくりと瞼を開いた。その瞳に映るフブキの姿を捉えると心配そうな表情を浮かべる。
「ウィ、ズ……大丈夫か?」
フブキの声は張り詰めていた。彼女の無事を確認できるまで、心の底から安心することはできない。
「うん……体はまだ少し痛むけど、自己再生で出血はもう止まったよ」
ウィズの言葉に、フブキは安堵の息を漏らした。だが、その安堵も束の間、腹部の激痛が再び彼を襲う。まるで内側から引き裂かれるような痛みに、フブキは顔を歪めた。
「フブキ! その傷……」
ウィズは、フブキの腹部に巻かれた血濡れた布を見て、声を震わせた。フブキは、心配させまいと無理やり口角を上げたが、その笑顔は痛みに歪み、見るも痛々しい。
「少しだけ痛いっていう程度だから大丈夫だよ……本当に」
彼の言葉とは裏腹に、額には脂汗が滲んでいる。ウィズは、そんな彼の強がりを見抜いたのだろう。訝しげな表情でフブキに近づくと、躊躇なく彼の腹部をそっと突いた。
「ま、まって! 痛タい! イタッ! なにすんだ、よ、痛ッたい!」
予期せぬ痛みに、フブキは悲鳴を上げた。反射的に身を屈めると、ウィズは彼の腹部に手を重ねた。彼女の手のひらから、柔らかな緑色の光が溢れ出し、フブキの傷口を優しく包み込む。じんわりとした温かさが広がり、先ほどまで脈打つように痛んでいた傷の痛みが、徐々に和らいでいくのが分かった。同時に、流れ続けていた出血も、まるで魔法のように、ゆっくりと、しかし確実に止まっていく。
「今、何をしたんだ? 出血が止まったんだが……」
信じられないといった表情で、吹雪は自分の腹部を見つめた。先ほどまで赤黒く染まっていた布が、今はほとんど元の色を取り戻している。
「フブキに回復魔法を使ったの! 実は死界にいる間、回復阻害て言って、自然回復と魔法の回復を大幅に低下させる結界が張られていたから、まともに回復できなかったから」
ウィズは、心配そうな眼差しで吹雪を見つめながら説明した。
「そんな結界があるのか?」
フブキは驚きを隠せない。結界といえば、防御や攻撃といったイメージが強かったからだ。
「うん、結界は本当に様々な種類があって、中には回復をしやすくするような、珍しいものもあるんだよ!」
ウィズは、少し得意げに胸を張った。
「ふーん……あと、敬語は止めたんだな」
「あたりまえでしょ! もう仲間なんだから!」
フブキはアビス戦の時の発言に、すこしだけ恥ずかしいと感じてしまった。
「たしかフブキがあのときいってたのは、」
ウィズが回復魔法を付与したことで、フブキの視界を覆っていた紫色の靄は消え去り、鮮やかな緑色の草原が再び彼の目に映るようになった。しかし、激しい痛みに耐え、さらに立ち上がっていた疲労は、彼の体力を限界まで奪っていた。ふっと意識が遠のき、フブキはそのまま地面に倒れ込んだ。
幸い、ウィズは咄嗟に彼を受け止め、優しく抱きかかえた。温かい彼女の腕の中で、フブキはかろうじて意識を保っている。そんな彼の耳元で、ウィズはそっと、しかしはっきりと呟いた。
「ありがとう……フブキ」
その感謝の言葉は疲労困憊のフブキの心に、じんわりと温かい光を灯した。
*
意識が浮上するにつれて、フブキは柔らかな感触に包まれていることに気づいた。まるで雲の上にでも寝ているかのような心地よさ。ゆっくりと瞼を開けると、そこは見慣れない白い天井だった。傷の痛みは嘘のように消え去り、ぼやけていた視界もクリアになっている。
「ここは……どこだ?」
いくつもの疑問符が、フブキの脳内を駆け巡る。自分がなぜここにいるのか、最後に何があったのか――記憶の断片を手繰り寄せようとするが、靄がかかったように思い出せない。そんな中、静かに扉が開かれ、一人の穏やかな雰囲気の中年女性が部屋に入ってきた。
「シハラさん! お目覚めになられたのですね」
女性は、安堵の表情を浮かべながらフブキに近づいた。その顔には、慈愛に満ちた皺が刻まれている。
「まだお若いというのに、あれほどの酷い傷を負っていらっしゃったとは……一体、どのような危険な旅を?」
彼女の言葉に、フブキはますます混乱する。自分の傷が酷かったことすら、朧げな記憶でしかない。
「えっと……まず、ここは……?」
フブキが問い返すと、女性は優しく微笑み、軽く会釈をした。
「失礼いたしました。まずは自己紹介からですよね。私の名前はセリビス・マドナと申します。決して裕福な家庭ではございませんが、どうぞごゆっくりとお寛ぎください」
セリビス・マドナ――その名前の響きは、平凡という言葉からはかけ離れた、どこか神秘的な印象を与える。立ち居振る舞いもまた、質素な暮らしをしているとは到底思えないほど、上品で洗練されていた。
フブキも、彼女の丁寧な態度に倣い、ベッドの上で上半身を起こして軽く頭を下げた。
「もう名前はご存知かもしれませんが、紫原 吹雪です。短い間ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
フブキの言葉に、マドナさんは何かを思い出したように、ベッドの脇に立てかけてあった簡素な紙袋を手に取った。
「こちらに、着替えのご用意がございます。あまり上等な品ではございませんが、そちらの……お召し物よりは、幾分かましであろうかと」
マドナさんの視線に促され、フブキは自分の身なりを見下ろした。汗で染み付き、ところどころ黄ばんだシャツ。白い埃や泥汚れが付着したブレザー。最後にいつ洗濯したのかも思い出せないほど、酷い有様だった。
恥ずかしさで顔がじわじわと赤くなるのを感じながら、フブキは慌ててマドナさんに何度も頭を下げ、部屋から退出してもらった。
「あんな汚れた制服で人に会うなんて……ああ、今すぐ着替えて、この恥ずかしい記憶を忘れ去りたい!」
一人残された部屋で、フブキは深く後悔の念に苛まれながら、マドナさんが置いていった紙袋を手に取った。
「……なめらかな触り心地だ……こんな上質なものが」
袋の中に入っていたのは、見たこともないような柔らかな生地の服だった。感謝の念を抱きながら、フブキは急いで着替えを済ませた。そしてふと、部屋の隅に置かれた縦長の鏡に気づいた。
「結構……似合ってるんじゃないか?」
鏡に映っていたのは、鮮やかな赤いパーカーに、すっきりとした白いズボンを身につけた見慣れない青年だった。
「これが……俺なのか?」
最後に自分の姿を見たのは、一体いつだっただろうか。半年以上前の記憶は曖昧で、目の前の青年の姿が本当に自分なのか、フブキは驚きと困惑を隠せない。しかし、明らかに変わっているところがあった。
「髪色……こんなに紫色がかっていたっけ」
以前はもっと黒に近い色だったはずの髪が、今は深く、美しい紫色に染まっている。不思議に思い、髪を触ってみるも、特に傷んでいる様子もない。まるで、元からこの色だったかのように自然だった。
その時ドアが三回誰かにノックされた。フブキは反射的にドアへと近づき、冷たい金属のドアノブを回した。そこに立っていたのは、見慣れた銀色の髪と、吸い込まれそうなほどに深い青い瞳を持つ少女――ウィズだった。
「フブキ! その格好……前と違って、すごくかっこいいね!」
再会しての第一声がそれか、とフブキは心の中で小さく落胆したが、すぐに気を取り直した。
「部屋の中で話そうか」
フブキがそう促すと、ウィズは素直に部屋の中へ入り、用意されていた椅子へと腰を下ろした。ウィズの服装もまた、以前の黒いローブから一変し、明るい青色のスカートに、白いロングTシャツという、可愛らしい装いに変わっていた。
「どう? 似合うでしょ?」
ウィズは少し照れたように、体をくねくねと動かした。
「うん、すごく似合ってるよ。ウィズなら、どんな服でも着こなせそうだ」
フブキの素直な言葉に、ウィズはますます頬を赤らめ、嬉しそうに微笑んだ。その様子を見て、フブキの口元にも自然と笑みがこぼれる。
(死界を出てからウィズはもっと明るくなったな)
そんな内心の呟きを押し殺し、フブキは改めて疑問を口にした。
「それはそうと、ウィズがこの家に運んでくれたのか?」
ウィズは、こくりと頷いた。
フブキは窓の外に目をやった。どこまでも続く緑の草原が、夕焼けに染まり始めている。
「なあ、少し外に出てみてもいいか?」
フブキの問いかけに、ウィズは満面の笑みを浮かべ、勢いよく椅子から立ち上がった。
「ネタバレはしない方がいいでしょ?」
「ああ、自分の目で見てみたい」
二人は並んでドアを開け、部屋を出た。ここは二階らしく優雅な曲線を描く踊り場のある階段を下りると、正面に重厚な玄関の扉が見えた。意を決して玄関の扉を開けると勢いよく爽やかな風が吹き込んできた。靴置きの上に無造作に置かれていた何十枚かの紙が、風に舞い上がったが、フブキの目は、目の前に広がる光景に釘付けになっていた。
そこには、どこまでも続く緑の草原と、その先に広がる青い海が、夕日に照らされて輝いていた。潮の香りを孕んだ風が、フブキとウィズの髪を優しく撫でる。
「……はは、本当に外だ」
あまりにも現実離れした光景に、フブキは思わず乾いた笑い声を漏らした。
「私も初めて見た時、そんな反応してたと思うよ。ねえ、せっかくだから、おにごっこしない?」
ウィズは、きらきらとしたアメジストのような瞳でフブキを見つめ、突拍子もない提案をした。「ねえ、シオン! あの夕日の向こうまで、競争しない?」
彼女の無邪気な笑顔には、春の陽だまりのような温かさと、人を無条件に巻き込む不思議な魅力があった。
フブキは一瞬、その突飛な言葉に目を丸くしたが彼女の眩しいほどの笑顔を見ていると、思考よりも先に心が躍り出した。「いいぜ! 負けねえぞー!」
フブキの叫びが、どこまでも広がるエメラルドグリーンの草原に響き渡ると同時に、彼は大地を力強く蹴り上げた。風を切るように加速する彼の背中をウィズが鈴を転がすような、喜びにあふれた笑い声を上げながら追いかける。
草原の草花が二人の足元で鮮やかに揺れ降り注ぐ光がフブキの黒髪とウィズの白銀の髪を輝かせた。彼女の小さな体は、まるで風の精霊のように軽やかで、懸命に走る姿を見ているとフブキの口元には自然と笑みがこぼれた。
どれくらいの時間、二人は無我夢中で追いかけっこをしていたのだろうか。
やがてウィズは、小さな息切れとともに、白い砂浜にふわりと身を投げ出した。
「はあはあ……少し休憩〜」
「俺も賛成」
茜色に染まりゆく空の下、二人は波打ち際に並んで腰を下ろした。穏やかな波の音が、疲れた二人の体を優しく包み込む。言葉はなくとも、隣にいるウィズの温かい存在を感じるだけで、フブキの心は静かに満たされていく。心地よい潮風が二人の頬を撫で、夕焼が寄り添う二つのシルエットを夕日で縁取った。
(こんな穏やかで楽しい時間が、これから待ち受けてるなんて……!)
ふとフブキの胸に楽しみという、死界では考えもしなかった気持ちが生まれた。
「俺たちは平和を勝ち取った。この楽しみはいつまでも永遠と続いていく」フブキは手を夕日に向かって伸ばしながら心へ誓った。
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