第陸話②:最後の手

「グオオオオオオ……!」


先ほどの、獣のような咆哮よりもさらに深く、内臓を掻きむしるような苦悶に満ちた叫びが、アビスの喉から絞り出された。それは耐え難い激痛に悶える、敗者の悲痛な叫びだった。


その巨体が目に見えるほど激しく痙攣し、漆黒の装甲の隙間からどす黒い液体が滲み出し始めた。そしてついにアビスは最後の力を振り絞るように巨体を震わせ、フブキの次の攻撃を予期したかのようにゆっくりと頭を持ち上げた。その単眼は、もはや怒りや憎しみではなく、ただただ深い苦痛の色を宿していた。


だが、フブキの決意は、微塵も揺るがなかった。


「終わりだ、アビス!!」


フブキは再び全身の力を右腕に集中させ、移動魔法を発動させた。今度水平方向ではなく垂直方向へ。信じられないほどの速度でまるで紫色の流れ星のようにその軌跡はまるで暗闇を引き裂く一条の閃光のようだった。高度が上がるにつれて眼下のアビスの巨体が徐々に小さくなっていく。地上に残された瓦礫の山々も、まるで玩具のようだ。高所からの重力と紫色のオーラを最大限に利用した、渾身の必殺の一撃。それが疲弊しきったフブキに残された、最後のそして最大の賭けだった。


次の瞬間、信じられない光景がフブキの目にそして死界の全てに広がった。紫色の光を纏ったフブキの拳が、落下する凄まじい勢いをそのままにアビスの巨大な頭頂部へと一点集中で炸裂したのだ。まるで天が崩れ落ちるかのような轟音が死界を支配した衝撃波が、周囲の空気を震わせ無数の瓦礫が四方八方へと吹き飛ばされた。アビスの巨大な身体はまるで内部から破壊されたハリボテの人形のように、見るも無残な形に変形し信じられないほどの勢いで吹き飛ばされ、党の屋上の端から底の見えない、漆黒の闇へと吸い込まれていった。落下していく巨大な質量が、空気を切り裂く異様な音、そして遥か下から遅れて響いてくる、重く鈍い轟音だけが静かに、しかし誰にも否定できない事実としてフブキの勝利をそして悪夢の終焉を告げていた。


……これで、本当に、終わりなんだな……。


激しい戦いの余韻が、重くフブキの身体にのしかかる。全身を覆っていた紫色のオーラは、まるで潮が引くようにゆっくりと消え始め、代わりに、先ほどよりもさらに深く、妖しい紫色が、フブキの視界を染め上げていた。もしかしたら、あの異常な移動魔法を使いすぎたせいかもしれない。足元もおぼつかない。まるで泥酔したようにふらつく身体を必死に支えながら、フブキは、血濡れのウィズの元へ、這うようにして近づいた。


「ウィズ……!」


再び、彼女の名前を呼んだ。その時、フブキの耳に、微かだが、確かに聞こえた。ウィズの心臓が、弱々しく、しかし確かに、鼓動を打つ音が――。


紫色の残光が消えかけた世界で、フブキは震える手でウィズの小さな手を取り、安堵と、そして込み上げてくる感情を抑えきれず、熱い涙を流した。生きていた。彼女は、まだ生きていたのだ。その事実に、フブキの張り詰めていた心が、ようやくゆっくりと、解き放たれていくのを感じた。


「移動魔法……使いすぎたな……」


全身を蝕む疲労感と、過酷な魔法行使による強烈な倦怠感。紫色の残光が消えかけた視界の中で、フブキは自嘲気味に呟いた。だが、その安堵も束の間だった。直後、足元の塔がまるで巨大な生物のように、不気味な音を立ててぐらりと揺れ、地底の奥深くから響き渡るような、耳をつんざく咆哮が鼓膜を打ち砕いた。


「アビスが、まだ……!」


全身の関節が悲鳴を上げる中、フブキは必死に体を引き起こした。立っているだけでも辛い。だが倒れているウィズを守らなければならない。その強い意志が俺の最後の力を振り絞らせた。


そして、吹き荒れる瓦礫の向こうフブキの目の前に、信じられない光景が広がった。それは先ほどまで死闘を繰り広げていた先程のアビスとは全く異なる異形だった。


まるで悪夢。六本の異様に長い腕が、それぞれ独立した意思を持つかのように蠢き、その先端には禍々しい光を放つ漆黒の球体が、次々と生み出されては楽しげに宙でもてあそんでいる。


その異質な光景は、先ほどまでの激戦で僅かに見え始めていた希望の光を、完全に打ち消す絶望的なまでの質量を持っていた。


アビスはその六本の腕の一本を、ゆっくりとしかし確実に倒れているフブキとウィズに向けた。その手のひらの中で黒い球体がまるで小さなブラックホールのように、周囲の光を吸い込みながら禍々しい輝きを増していく。


(まずい!このままじゃ、確実に死ぬ!)


回避する? だが、もしこの攻撃を避けたら、背後にいるウィズにあの黒球が直撃する。彼女はもう、身を守る力など残っていない。あの絶望的な破壊力を持つ黒球を、どうにかして、俺たちに当たらないように、軌道を逸らさなければ! どうする!


脳内を無数の思考が駆け巡る。あの黒球の特性は? 魔法的なエネルギーの塊なのか? それとも、物理的な破壊力を持つ何か別のものなのか? どうすれば、あの漆黒の奔流を俺たちから遠ざけることができるのか……だが、焦燥感だけが募り、具体的な解決策はまるで掴めないまま、時間だけが残酷に過ぎていく。


そしてアビスは、まるで獲物を弄ぶかのように、ゆっくりと腕を振り上げた。その瞬間黒い球体は重力を無視したかのような速度で、俺たちへと射出された。


「ウィズ!?」


絶体絶命のその瞬間、信じられないことが起こった。意識を失っていたはずのウィズが、まるで奇跡のように、僅かに目を開き、弱々しいながらも確かに魔法を発動させたのだ。彼女の細い指先から放たれた、蒼白い光の奔流が、迫り来る黒球と激突した。けたたましい破砕音と共に、黒球は僅かに軌道を逸れ、神殿の壁に激突。轟音と共に、壁の一部が粉々に砕け散った。だが、その衝撃の余波で、ウィズの小さな身体は大きく体勢を崩し、激しく咳き込んだ。彼女の口元から溢れ出したのは、おぞましいほど鮮やかな、赤い液体――血だ。


アビスは、まるで悪夢から具現化したような異形だった。六本の腕は、それぞれ独立した意思を持つかのようにうねり、蠢き、その先端に生み出される漆黒の球体は、まるで悪意の塊のようだった。それらは、まるで玩具のように宙で弄ばれ、禍々しい光を放っている。その異様な光景は、先ほどまで僅かに灯っていた希望の光を完全に打ち消し、見る者に底知れない絶望感を植え付けた。


(あの黒球の量は……尋常じゃない。ウィズの、今にも消えそうな結界魔法では、一度に全てを防ぎ切るのは、絶対に不可能だ!)


フブキの心臓は、まるで激しい雷鳴のように、張り裂けそうに脈打っていた。目の前で、今にも消え入りそうなウィズを、どうにかして助けたい。だが、今の自分に何ができる?


アビスの魔力は底知れず、正面から力押しでぶつかっても、勝ち目など微塵も感じられない。枯渇した魔力、疲弊した肉体。脳内を高速で駆け巡る思考の中で、まるで走馬灯のように、過去の記憶が鮮烈に蘇った。


(そうだ……特訓の時に、ほんの一度だけ、危険すぎるからとすぐに中断した、あの常識外れの移動魔法……)


不安定で僅かにイメージを維持するだけで、激しい吐き気に襲われ中断せざるを得なかった、禁断の技。成功する保証など、どこにもない、極めて危険な賭け。


(だが、今は違う!ウィズを、この悪夢のような存在から救い出すためなら、どんなリスクも厭わない! あの禍々しい黒球を、この崩壊寸前の神殿の外へ、遥か彼方の異空間へと、吹き飛ばすんだ!)


フブキは、乾ききった喉を潤すように、深呼吸を一つ。限界寸前の意識を集中させ、脳内に、歪んだワープゲートのイメージを鮮明に描き出す。入り口となる、一点の歪んだ空間。そして出口となる、遥か遠い虚無の空間の一点。二つの点が、紫色の光の線で繋がり歪んだ楕円形の門が、まるで幻のように、俺の目の前に出現した。それは、かろうじて人一人分が通れる程度の、不安定な門だった。


「これが……ワープできる、門……!」


まだ、その輪郭は曖昧で、今にも消え去ってしまいそうだ。だが、確かに、そこに存在する。その刹那、アビスが、勝利を確信したかのような哄笑と共に、残りの全ての腕から、雨あられのように黒球を放ってきた。それは、まるで意思を持つ凶悪な獣のように、唸りを上げながら、容赦なくウィズへと迫る。


「間に合え!」


フブキは、出現させたばかりの、不安定な紫色の門を必死の形相で、迫り来る黒球の軌道上に移動させた。黒球は、まるで異次元のブラックホールに吸い込まれるようにヌルリとした、生きた肉を飲み込むような不気味な感触と共に、門の中へと消え去り直後、遥か遠くで大地を揺るがすような爆発音が、微かに聞こえた。成功した! 信じられないことに、極めて不安定な、禁断の魔法を、俺は、土壇場で成功させたのだ。


アビスの動きが、一瞬、完全に静止した。理解不能な事態に、そのおぞましい異形の顔が、僅かに歪む。だが、それはほんの一瞬の出来事だった。


すぐに、狂気を帯びた、愉悦に満ちた笑みを浮かべると、残りの全ての腕から、先ほどの比ではないほどの数の黒球を、まるで怒涛のように、容赦なく放ってきた。


「させるか!」


フブキは最後の力を振り絞り、足元の魔法陣を展開した。紫色の光が地面を走り、彼の身体はまるで紫色の疾風のように、高速で移動を開始する。


迫り来る無数の黒球を、次々と出現させる歪んだワープゲートで、まるでブラックホールのように吸い込み異空間へと送り込む。


まるで熟練した手品師のように、紫色の門が空間を縦横無尽に飛び交い、死を運ぶ黒い奔流を次々と飲み込んでいく。だがその数はあまりにも多い。防戦一方ではいつか必ず、限界が来る。


(このままでは、ただの時間の問題だ!攻撃に転じなければ、二人とも、ここで終わりだ!)


フブキは疲労困憊の意識を限界まで加速させた。出口の門を、アビスの醜悪な顔面の、まさに単眼の真前に直接繋げるイメージを、強烈にそして鮮明に抱いた。次の瞬間紫色の歪んだ門は、アビスの巨大な単眼のほんの数センチ手前に、まるで空間を切り裂いて出現した。そして、直前まで吸収していた、巨大な、エネルギーの凝縮された黒球を、信じられない至近距離で、一気に解放した。


轟音と共に黒い衝撃波がアビスの巨大な顔面を吹き飛ばした。焼け焦げた皮膚が、まるで千切れた布のように剥がれ落ち、飛び出した巨大な眼球が、虚空を彷徨う。焦げ付いた肉の異臭が鼻腔を突き刺し、見るに堪えない、おぞましい光景が広がった。


アビスは、悲鳴すら上げられず、六本の異様な腕で、吹き飛んだ顔面を覆い隠そうとする。だが、フブキの攻撃は、これで終わりではない。今度は、俺自身が、歪んだワープゲートを潜り抜け、アビスの巨大な懐へと、躊躇なく飛び込んだ。渾身の力を込めた右拳が、アビスの歪んだ顎を打ち砕き、鈍い骨の砕ける音と、黒い液体が飛び散った。


よろめくアビス。だが、その六本の腕の中の一本には、まだ、最初に作り出した、禍々しい輝きを放つ黒球が、しっかりと握られている。俺は、落下してくる黒球を、素早く歪んだ門で回収し、今度は、アビスの巨大な腹部へと、ワープさせた。


鈍い爆発音と共にアビスの巨大な身体が、まるで崩れ落ちる巨大な建造物のように、轟音を立てて崩壊した。同時に、地面に落ちた黒球が、最後の力を振り絞るように、凄まじい大爆発を起こし、崩壊寸前の神殿全体を、激しく揺さぶった。


「ウィズ!もう限界だ!この神殿は、完全に崩壊する!逃げるぞ……!」


爆風と降り注ぐ無数の瓦礫が飛び交う中、フブキは、意識が朦朧とするウィズへと、必死に駆け寄った。だが、彼女は仰向けのまままるで壊れた人形のように、ピクリとも動かない。白い顔には一滴の血の気もなく、完全に意識を失っている。


(どうする……どこへ逃げれば……!)


焦燥感に駆られ、フブキは崩壊していく周囲の光景を必死に見渡した。頭上では今にも崩れ落ちそうだ。そんな絶望的な光景の中で一際異質なものが、フブキの目に飛び込んできた。


それはまるで霧のように白く揺らめく、巨大な門だった。今まで見た、どの歪んだワープゲートとも違う、神聖で神秘的な光を放っている。その光はまるで希望の象徴のように、暗闇の中で静かに輝いていた。


(あれは……一体、何なんだ? もしかして……もしかしてあれこそが現世へと繋がる門なのか……?)


かすかなしかし確かな希望の光が、フブキの凍り付いた心を僅かに照らした。迷っている時間はない。一瞬の躊躇の後、俺は、意識のないウィズをそっと抱き上げ白い門の近くへと、最後の力を振り絞ってワープした。


そして微かに、しかし確かに脈打つ、女の温かい体温を感じながら、二人で意を決して、その眩い白い光の中へと、足を踏み入れた。


視界が耐えられないほどの眩い光に包まれ足元の大地が、まるで巨大な何かに揺さぶられるような、奇妙な感覚。次に俺たちが立っていたのは広大な草原だった。


頭上には無数の星が、まるで宝石のように、静かに瞬いている。死界のおぞましい光景は、まるで幻だったかのように、跡形もない。


――かくして、二人の死王討伐は、数多くの犠牲と、想像を絶する苦難を乗り越え、静かに達成されたのだった、と、誰もが思った。だが、白い門へと足を踏み入れるフブキたちを、崩壊する神殿の影から、あの六本腕のアビスが、底知れない悪意を宿した、不吉な笑みを浮かべて、静かに見送っていたのだった。新たな悪夢の幕開けを予感させる、恐ろしい笑みを。

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