第陸話①:紫の閃光

俺は死界という絶望の淵で一筋の光のように現れたのがウィズだった。


そんな彼女は右も左も分からない俺に、雨風をしのげる場所と僅かながらも生きるための糧を与えてくれた。

最初は見ず知らずの俺にここまでしてくれる理由が分からず、警戒心と不審感が渦巻いていた。


けれど共に過ごす時間の中で彼女の飾らない優しさに触れるたび俺の心は少しずつ解きほぐされていった。


その優しさの裏に何か隠されているのかもしれない――そう思いつつ彼女との距離を縮めていくうちに、ある感情が芽生え始めた。


彼女の役に立ちたい――


でも俺には誇れるような才能なんて何一つない。辛うじてできることと言えば、一メートル程度の短い距離をテレポートすることくらいだ。こんな取るに足りない力で一体何ができるというのか? ウィズが命懸けで見つけてくれたこの安寧の時間を無謀な挑戦で無駄にするわけにはいかない……だから逃げるべきだ――


その考えが頭をよぎった瞬間、脳裏に焼き付いたのは死界から脱出できるかもしれないという微かな希望を宿しキラキラと輝いていたウィズの瞳だった。


「……だめだ! 俺はウィズと、必ずこの忌まわしい死界から二人で抜け出すと決めたんだ。役立たずの俺に、初めてできた大切な存在。彼女の希望を俺が無駄にするわけにはいかないんだ!」


背を向けたまま、硬直していた足をまるで大地に縫い付けるように強く踏みしめ直した。一歩、半歩と、微動だにしなかった体がついに意思を持って動き出す。振り返った先にいたのはウィズだった。彼女の小さな身体は、幾度となく繰り返されたであろう激戦の傷跡を生々しく刻み込み、今まさに限界を迎えようとしていた。それでもなお、彼女は折れかけた魂に鞭打つように、懸命に両手を動かし、泥と岩を混ぜ合わせたような粗末な城壁を築き上げようとしていた。


その背中は、あまりにも小さく、そして脆かった。吹き荒れる死界の冷たい風に震えながらも、彼女は絶望の淵で、たった一人、必死に生きようとしている。その姿は痛々しいほどだったが、しかし、その奥底には、微かながらも決して消えることのない、一縷の希望を宿した強い意志が確かに息づいているように見えた。


「ウィズ!」


張り裂けそうな叫び声が、俺の喉を突き破って死界の空気に放たれた。乾いた風にかき消されそうになりながらも、その声は確かに彼女の耳に届いたのだろう。ウィズは、ほんのわずかに、本当に弱々しく、まるで糸で引かれた操り人形のように頷いた。その表情は疲弊しきっていたが、それでも俺の存在を認識した安堵の色がほんの一瞬、垣間見えた気がした。


「おい、リバース・アビス! 貴様はどこに隠れている! 俺は、ここにいるぞ!」


再び、渾身の力を込めて叫んだ。だが、その声は、広大で虚無的な死界の空気に虚しく吸い込まれていくばかりだった。まるで、この世界の法則そのものが、俺の存在を拒絶しているかのようだ。アビスは、そんな俺の必死の挑発など、まるで存在しないかのように意にも介さなかった。その巨大な影は、静かに、そして確実に、ウィズへと迫っていた。


次の瞬間、信じられない光景が俺の目に飛び込んできた。アビスがその身の丈ほどもある巨大な剣を、まるで天空に轟く雷鳴を伴う一閃のように、ありえないほどの速さで薙ぎ払ってきたのだ。その剣圧だけで周囲の空気がビリビリと震え、地面が僅かに陥没したように見えた。ウィズが必死に築き上げた土魔法による粗末な防御壁はまるで熟した果実が潰れるかのように、あまりにも容易くそして無残に切り裂かれた。巨大な刃は抵抗する間もなく彼女の小さな身体を捉え、まるで強風に吹き飛ばされる木の葉のように屋上の端から無慈悲に吹き飛ばした。


「――!!」


心臓が文字通り凍りつき全身から血の気が引いていくような、底知れない絶望感が俺を襲った。咄嗟に、思考よりも早く、手が伸びる。だが、俺の指先が捉えたのは、無情にも空を切る冷たい空気だけだった。焦燥が後悔が、そして何よりも彼女を救えなかった無力感が、怒涛のように俺の心を押し潰していく。


(くそっ、間に合わない!)


その刹那、俺は心の中でありったけの力を込めて強くイメージした。ウィズのいる場所へ、今すぐ移動する! と。


移動魔法のクールダウンは、僅か0.5秒。ほんの一瞬の隙。だがその刹那に、落下していくウィズの恐怖に歪んだ、涙で濡れた小さな顔が吹雪のように冷たい俺の目に焼き付いた。風を切る鋭い音信じられないほど軽く、まるで羽根のように頼りないウィズの身体の感触、そして抗うことのできない巨大な鉄塊のように、容赦なく、そして確実に迫りくる地面の硬質な感触。


どうにか寸前の、本当に地面に当たる寸前のところで俺は元いた所へワープした。

「ウィズ、一旦ここで待っ――」


一体、何が起こったのか――。脳の処理能力が、突然の事態に完全に追いついていなかった。


視界は油絵のようにぐにゃりと歪み、認識していたはずの世界の輪郭が曖昧になる。


まるで灼熱の鉄板をじわじわと、しかし容赦なく押し付けられたような、鈍くそして逃れられないほど強烈な痛みが全身を駆け巡った。


それは単なる物理的な痛みではなく、魂の奥底まで焦がすような異質な感覚だった。


吹雪は自分がどうなっているのかさえ、すぐに理解できなかった。かろうじて確認できたのは自分が倒れているということだけだった。朦朧とした意識の中上下の感覚すら曖昧になり、自分がどちらを向いているのかも定かではない。ただ目の前に広がるおぞましいほど鮮やかな、どす赤色の血だけが否応なしに現実を突きつけてくる。これは夢ではない。紛れもない現実なのだとその残酷な色彩が沈黙のままに訴えかけてくる。


そしてその赤い血の中心にウィズがいた。彼女は俯いたまま、まるで魂が抜け落ちた壊れた操り人形のようにカタカタ震えている。その細い指先は血に濡れた冷たい地面を這いずり、まるで何かを求めるように力なく吹雪へと伸ばされていた。さっきまで深い絶望の淵にありながらも、その瞳の奥底に微かに灯っていたはずの、小さな希望の輝きはもうどこを探しても見当たらなかった。


そこに宿るのは深い絶望と、全てを諦めてしまったような痛ましいほどの悲壮感だけだった。


その姿は、見る者の心を締め付けるほどに痛々しくそして儚かった。


「ごめんなさい……フブキさん……」


彼女の口から漏れたのは、か細く掠れた小さな声だった。それはまるで今にも途絶えそうな断末魔の叫びのように、頼りない風に乗って消え入りそうだった。その声には生きることを諦めたような、深い後悔と謝罪の念が痛切に込められていた。


「ウィ、ズ――」


喉の奥から絞り出した声は、乾いて掠れまるで砂利を噛み砕くような音しか出なかった。喉が焼け付くように痛い。肺の中の空気がまるで重力に逆らうように、思うように出てこない。アビスはそんな満身創痍の俺たちを嘲笑うかのように、重々しい地響きのような足音を立ててゆっくりと近づいてくる。その一歩一歩が、俺たちの残された希望を容赦なく踏み潰していくようだった。そして躊躇うことなくその巨大な足が、ウィズの小さな身体を汚れた玩具のように蹴り飛ばした。


吹き飛ばされた彼女の身体は、まるで秋風に舞う一枚の枯葉のように無力に虚空を舞い、そして無情にも再び地面に叩きつけられた。鈍い衝撃音と共に彼女の小さな身体が跳ねそして動かなくなった。アビスは、まるでそれが当然であるかのように止めとばかりに、漆黒のまるで悪夢から抜け出してきたような巨大な剣を、ゆっくりとしかし確実に振り上げた。その剣の切っ先は冷酷な光を放ち、ウィズの小さな命を刈り取る準備をしていた。


「や、めろ――!」


張り裂けそうなほど喉を引き絞り、必死に叫んだ。だが、その声は虚しくアビスの耳に届くことはなかっただろう。喉はまるで焼け火箸を押し当てられたように痛く、叫ぶたびに激痛が走る。


「だから、や、めろって――!!」


苦しさと、彼女を救えない己の惨めさで、心がいっぱいに埋め尽くされたまさにその次の瞬間だった。


俺の視界が、じわじわとしかし確実に底なし沼のような禍々しい紫色に染まり始めた。それは世界の色彩が塗り替えられていくような、異様な感覚だった。


耳の奥深くで今まで聞いたことのない、耐え難いほどの高音が、けたたましくまるで魂を切り裂くように鳴り響く。それは世界の悲鳴のようにも聞こえた。


同時に身体の奥底で、長い間眠っていた何かがゆっくりと、しかし確実に覚醒していくような感覚に襲われた。それは今まで感じたことのない、根源的な恐怖を焼き尽くすような激しく、そして熱い衝動だった。


それは怒りとも、悲しみとも違う、もっと原始的で破壊的なエネルギーだった。その衝動は全身の細胞一つ一つを駆け巡り吹雪の中に眠る、まだ見ぬ力を呼び覚まそうとしていた。


フブキは咄嗟に移動魔法を使いまるで紫色の閃光のようにウィズの傍へ飛び、震える腕で彼女の小さな身体を抱き寄せた。


さっきよりも距離が伸びてる。それより「傷が……治ってる!?」


「……ウィズ! 今までありがとうな。これから俺はあいつを倒す! だから……

すこし待ってろ!!」


掠れた声で、精一杯彼女の名前を呼んだ。その声は、先ほどまでの絶望の色を僅かに拭い去りかすかな希望を乗せて彼女の耳に届いたはずだ。俯いていたウィズの顔がゆっくりと持ち上げられる。その瞳の奥には、まるで消えかけた蝋燭の炎が再び息を吹き返したかのように、本当に微かなけれど確かに希望の光が、再び灯った気がした。それは暗闇の中で見つけた一筋の光のように、弱々しいながらも見る者の心を強く捉える力を持っていた。


フブキはその小さな光を確かに捉え、決意を新たにした。全身を包み込む禍々しい紫色のオーラ。それは、今まで感じたことのない異質で強大な力だった。この奇妙なまるで身体の内側から湧き上がってくるような奔流。この力漲る今の状態ならばきっと、あの化け物――リバース・アビスにも僅かでも対抗できるはずだ。そうフブキは、根拠のない確信にも似た強い思いを抱いた。しかし同時にこの全身を紫色のオーラが包み込む、湧き上がるようなまるで自分自身ではないようなこの力は一体何なのだろうか、という疑問が心の片隅で小さく渦巻いていた。


そんな思考の一瞬の隙をついて、アビスの巨大な影が、再びウィズへと迫ろうとした。だがフブキはもう迷わなかった。冷却時間を終えた移動魔法を躊躇なく発動させる。紫色の光を纏った身体がまるで雷光のように一瞬で移動し、アビスの正面へと躍り出た。その速度は先ほどまでの疲弊した状態からは想像もできないほどだった。


(今の俺なら、やれる!)


確信にも似た強い感情が、フブキの胸の中で激しく脈打った。全身を覆う紫色のオーラが、その自信をさらに増幅させる。フブキアビスの巨大な、まるで黒曜石のように硬質な腹部へと狙いを定め、全身の筋肉を極限まで収縮させた。そしてありったけの力を込めた右拳を、渾身の力を込めて叩き込んだ。


だがその瞬間、フブキは信じられない感触に息を呑んだ。拳が捉えたのは生きた肉の感触ではなかった。それは、まるで千年という途方もない時間をかけて積み上げられた巨大な、そして冷たい岩壁を殴ったかのような、骨の髄まで響く鈍い衝撃だけだった。


確かな手応えは、微塵も感じられない。紫色のオーラを纏った拳は確かにアビスの巨体を捉えたはずなのに、その衝撃はまるで表面を撫でただけに過ぎないかのように、あっけなく吸収されてしまったのだ。アビスの漆黒の装甲は想像を遥かに超える硬度を持っている。その事実にフブキは愕然とした。湧き上がる力への過信は脆くも崩れ去ろうとしていた。


アビスはまるで獲物を弄ぶかのように、巨大な剣を再びゆっくりとしかし確実に振り回す。


重い剣の軌道は確かに遅い。研ぎ澄まされた今の俺の感覚なら容易に見切れる。油断していたな化物。悪いが今の俺は一味違う。


フブキは移動魔法を最大限に駆使して、アビスの周囲を目まぐるしく動き回る。まるで幻影のように縦横無尽にその巨体を翻弄する。だが、ただ翻弄するだけでは、あの分厚い鎧を貫く、決定的な一撃にはならない。


「ガァァァァァ!!」


アビスが、大地を激しく震わせ魂を刈り取るような咆哮を上げた。その瞬間、まるで目に見えない鎖に繋がれたようにフブキの身体は、金縛りにあったかのようにピクリとも動かなくなった。強烈な威圧感が肺の空気を奪い取り思考を鈍らせる。


(くそっ……動け……!こんなところで……!)


「フッ、こんなとこでやられるか!」


ギリギリのところで金縛りを打ち破ったフブキは、決意の印のために言い放った。

「俺にはその威圧は通用しない! 恐怖は自分が死ぬことじゃない! 仲間が死ぬことだからだ!」


意識を極限まで集中し移動魔法で後退する――と見せかけてまるで紫色の影のように一瞬でアビスの首元にワープした。そして全身の筋肉をバネのように使い渾身の力を込めた蹴りを、アビスの太い首筋に叩き込む。


……これでも効かないか。分厚い鎧が衝撃を吸収しているのかそれとも単に威力が足りないのか、あるいは何か特殊な仕掛けがあるのか……。


だが確かに、ほんの僅かにアビスの巨大な動きが鈍った気がした。


紫色の閃光が奔る。フブキは再び、まるで空間を切り裂くようにアビスの正面へとワープした。全身に漲る奇妙な力、その全てを拳に乗せて、今度は寸分違わず、先ほどと同じ黒曜石のような硬質な腹部へと叩き込んだ。渾身の一撃。だが、その結果は残酷なまでに同じだった。アビスの巨体は微動だにせず、まるで鋼鉄の塊に拳を打ち付けたかのような、骨の奥まで響く鈍い衝撃がフブキの腕を痺れさせただけだった。


直後、まるで熱いナイフで腹部を深く突き刺されたような、鋭く、そして容赦のない痛みがフブキを襲った。何が起こったのか、理解が追いつかない。反転……? アビスの巨大な単眼が、一瞬、危険な赤色に染まったのを、フブキは確かに捉えた。


(でも、なんで反転を使っても、あんなによろけたんだ……? いや、反転を使ったからこそ、体勢を崩したのか……?)


疑問が脳裏を駆け巡るが、考える暇は与えられない。アビスはぐらつく巨体を必死に立て直し、再び巨大な剣を持ち上げた。先ほどの一撃よりも明らかに速い。だがその動きには、どこか焦燥感のような、隠しきれない疲労の色が見て取れた。荒い呼吸僅かに震える剣先。


「疲れ……」


その呟きはアビスの弱点を見抜いた確信だった。フブキは再び移動魔法を発動させる。紫色の残像を残し、アビスの巨大な顔面の、まさに目の前へと瞬時に移動した。その刹那アビスの巨大な単眼の色が、再び禍々しい赤色に変化した。だが今度は遅かった。フブキはアビスが反撃に移るよりも早く、ありったけの力を込めた拳を、その巨大な顔面へと叩き込んだ。紫色のオーラが拳に集中させ炸裂する。


鈍い衝撃音と共にアビスの巨大な頭部が大きく揺れた。直後、その単眼の色は、濁った黒色へと戻り、巨体が大きくふらつき始めた。まるで、何かに強烈な一撃を受けて平衡感覚を失ったようだ。


(やっぱり、反転を使うと大きな負担が疲労として生じるんだ!)


フブキはこれが千載一遇のチャンスだと悟った。体勢を崩したアビスの無防備な脇腹へと、全身の体重を乗せた強烈なキックを叩き込んだ。


「グハァァァァァ!!!」


今まで聞いたことのない地獄の底から響き渡るような、獣の断末魔の咆哮が、死界の凍てついた空気を激しく震わせた。その音波は、まるで目に見えない衝撃波のように周囲の瓦礫をビリビリと震わせ、フブキの鼓膜を強烈に打ち付けた。


アビスの巨体が、悲鳴のような咆哮と共に大きく傾き、まるで重力に逆らうように、ゆっくりとしかし確実に膝をついた。その巨大な質量が地面に接触した瞬間、大地が悲鳴を上げ、周囲の瓦礫が爆発したように跳ね上がり、舞い上がった砂塵が一瞬視界を白く染めた。


畳み掛けるように息つく間もなく、もう一度決定的な攻撃を叩き込むため、フブキは全身の神経を研ぎ澄ませ、移動魔法を発動させようとしたまさにその瞬間だった。


砂塵の奥でアビスの巨大な単眼が、まるで業火のように再び危険な赤色に染まったのが吹雪の目に捉えられた。それは最後の抵抗を示す、絶望的な灯火のようにも見えた。


だがフブキの決意は揺るがなかった。先ほどの一撃で確かに感じ取ったアビスの内部に走ったであろう僅かな亀裂、その確かな手応えを胸にフブキは迷うことなく、再び紫色のオーラを極限まで高めた右拳を、アビスの巨大な顔面へと叩き込んだ。

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