第伍話:静かに燃える魂
死界に、夜明けという概念は存在しない。じめじめとした空気は常に重く、遠くで蠢く怪物の気配が、この世界の不吉さを常に囁いている。
それでも、俺たちの魂に刻まれた体内時計は、否応なしに出発の時を告げていた。移動魔法の特訓に没頭してから、数週間、いや、もしかしたら数ヶ月という、もはや曖昧な時間だけが過ぎ去った。
そして今日、ついに俺は確信した。これが今の俺にできる、紛れもない最大限の力だと。
これ以上特訓を続けても、劇的な変化は望めないだろう。残された道は、この固定された能力を最大限に活かし、知恵と勇気を絞り出すしかない。
ウィズはいつものように、簡素ながらも温かい食事を用意してくれていた。じめじめとした死界の中でも奇妙な形状のきのこや、硬い葉を持つ雑草のようなものが僅かに生息している。決して新鮮とは言えないがこの過酷な世界で生き延びるためには、貴重な糧となる。ウィズはそれらを丁寧に調理し、俺たちの前に差し出した。
共に過ごす時間の中で、ウィズの日本語は驚くほどの速さで上達していた。最初は片言だった言葉も、今では日常会話には全く支障がないほどになっている。
「フブキさん!見てください!こんなに大きな、紫色のきのこを見つけたんですよ!」
朝食の準備を終え、嬉しそうに差し出されたそのきのこは、鮮やかな紫色をしていた。しかし、その毒々しい色合いは、一目で危険な香りを漂わせている。一口でも食べれば、即死を招きそうな、そんな不吉な色だった。
「……ああ、すごいな、ウィズ……」
俺は、努めて平静を装い、言葉を選んだ。「まあ、その珍しいきのこの話は、後でゆっくり聞かせてくれ。今、お前に、どうしても、話しておきたいことがあるんだ」
ウィズは、俺の言葉に気づいたのか、首をわずかに傾げ、その吸い込まれそうなほど深い蒼い瞳で、じっと俺の顔を見つめた。「なんでしょう?」その瞳には、いつもの穏やかさに加え、ほんの僅かな緊張の色が宿っているようにも見えた。
「……死界の王を、そろそろ倒しに行きたい」
俺は、静かに、しかしはっきりと告げた。「俺は、この固定された一メートルの移動と0.5秒のインターバルという能力で、考えられる限りの戦略を練ったつもりだ。もちろん、お前の力も、最大限に借りる。ウィズは、どうだ?」
ウィズは、俺の言葉をしっかりと受け止め、その小さな唇に、迷いのない、確信に満ちた微笑みを浮かべた。その笑顔は、まるで凍てついた大地に咲く一輪の花のように、力強く、そして美しかった。「はい。フブキさんが、そう決めたのなら、私はいつでも、あなたの傍にいます。どんな困難も、共に乗り越えましょう」
「ありがとう、ウィズ」
その短い言葉には、感謝の念と、共に生きてきた時間の中で育まれた、深い信頼の念が込められていた。
俺たちは、言葉少なに、しかししっかりと、目の前の食事を終えた。重い沈黙の中にも、互いの決意が静かに燃えているのを感じていた。もうすぐこの長きに渡る戦いの最後となるだろう。俺たちは静かに、しかし確かに決戦の時を待っていた。
*
翌朝という概念はない死界だが、二人の間には出発の明確な合図があった。ウィズは、既に身支度を終え静かに俺を待っていた。その小さな背には薬草から作ったと思われる、様々な色の液体が入った小瓶が詰まった革製の鞄が背負われている。その量から察するに死界の王との戦いが、決して容易なものではないことを物語っていた。俺もウィズが用意してくれた、簡素な食料を鞄に詰め込んだ。
「準備は、整ったな。行こうか、ウィズ。この一メートルと0.5秒で、活路を見出すんだ」
「はい!」
二人は、じめじめとした洞窟のような隠れ家を後にした。ウィズは、食料調達などで何度か外に出たことがあるが、俺にとっては、あの忌まわしい謁見の間から追放されて以来、初めての外界だった。
「この、淀んだ空気……懐かしい、なんて思うはずがないな」
俺は、苦笑いを浮かべた。それでも隣にウィズがいるだけで、不思議と心が落ち着くのを感じた。この固定された能力でもウィズがいれば、何かができるかもしれない。
薄暗く、不気味な植物が生い茂る森を抜けると、ウィズが突然、指をさした。
「あれが……死界の王が……いる場所です」
指の先には、異様なほど高い、黒い塔がそびえ立っていた。頂上は、厚い瘴気に覆われ、全貌を窺い知ることはできない。
「あんな高いところに……どうやって登るんだ?」
「普通の入り口は、ありません。あの塔の壁面を、直接登るしかないのです」
「そんなこと、本当にできるのか?」
ウィズは、自信に満ちた表情で、小さく微笑んだ。「私の魔法を、舐めてもらっては困りますよ。あなたの力は、私が最大限に引き出します」
「ああ、そうだったな。ウィズにできないことなんて、ほとんどないんだった」
「では、行きますよ! 少し、速度を出しますので、しっかりと手を握っていてください!」
俺は、ウィズの小さな手を、しっかりと握り返した。次の瞬間、ウィズの周囲に緑色の光が集中し、彼女の体がふわりと浮き上がった。
「ちょっと、ウィズ!?」
まるで強風に煽られたように、俺たちの体は、信じられないほどの速度で塔へと向かって走り出した。いや、正確には、飛んでいるのだ。風魔法の応用だろうか。俺のこの一メートルの移動能力など、まるで意味をなさないほどの速さだ。
「ウィズ! 速すぎる! 壁に激突する! 死ぬ!」
俺の悲鳴も虚しく、ウィズは速度を緩めることなく、そのまま塔の壁面を垂直に駆け上がっていく。足の裏には、微かな風の感触しかない。まるで、空を飛んでいるようだ。俺の固定された一メートル移動など、ここでは全く役に立たない。ウィズを信じるしかない。
数分後、俺たちは塔の最上階の、広々とした屋上に辿り着いた。
「はあ……はあ……もう、二度とあんな無茶な真似はしないでくれ……」
地面にへたり込み、息を切らす俺をウィズは少し心配そうに見下ろした。「大丈夫ですか、フブキさん? 着きましたよ」
屋上は予想以上に広かった。端から端まで走ってもかなりの時間がかかりそうだ。中心には、禍々しい黒いオーラを放つ、巨大な魔法陣が描かれている。
はい、承知いたしました。ライトノベルのプロとして、ご依頼の改定版を作成します。内容や表現は一切変更せず、「紫原」を「フブキ」に、「吹雪」を「フブキ」に修正します。
「それで、この屋上に、死界の王がいるんだな。俺のこの一メートルの移動と0.5秒で、どう戦えっていうんだ……」
「はい……そろそろ、姿を現すはずです。あなたの力は、必ずなにかの役に立ちます」
ウィズがそう言った、まさにその瞬間だった。じめじめとした洞窟の奥深く、今まで見たことのない、禍々しい紋様を描く巨大な魔法陣が、脈打つように強烈な黒い光を放ち始めた。それは、まるで世界の底が抜け落ちたかのような、深淵の色だった。そして、その光の中心から、異質な、しかし魂を震わせるほどの圧倒的な威圧感を放つ存在が、ゆっくりと、その巨大な姿を現した。
それは、想像力を遥かに超える、まさしく悪夢から抜け出してきたような、巨大な人型の影だった。全身を、生きた闇を凝縮させたかのような黒い鎧で覆いその手には、星の光さえも吸い込んでしまいそうな漆黒の巨大な剣が、静かにしかし確実に握られている。その姿は生ける者が決して抗うことのできない、絶対的な死の化身そのものだった。
「……あれが……死界の、王……」
その場に満ちる重苦しいまでの存在感に俺は言葉を失い、まるで足元に根が生えたかのように、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。肌をビリビリと刺激する威圧的なオーラはまるで重力が数倍になったかのように俺の全身にのしかかり、呼吸すらも困難にする。これがウィズが長きに渡り恐れ、そしてその小さな肩に全てを背負って倒さなければならない相手なのか。その絶望的なまでの強さに、俺の固定された一メートルの移動能力など、取るに足りないまるで蟻が象に挑むような無力さを感じずにはいられなかった。
「グオオオオオオ……!」
死王、リバース・アビスは、その巨大な口を開きまるで世界の終末を告げる雷鳴のような咆哮と共に、耳慣れない、異質な言語をウィズに叩きつけた。それは意味のある言葉というよりも、魂の奥底に直接響き渡る破壊的な衝動そのものだった。
「キィィィィ……!」
その咆哮に応じるように、ウィズは、その小さな全身の魔力を限界まで凝縮させ、張り裂けるような、しかしどこか悲痛な叫び声を上げた。彼女の小さな体から放たれる魔力は、まるで一陣の小さな炎が吹き荒れる巨大な嵐に懸命に立ち向かおうとするように、必死に死王の威圧に対抗していた。二人の間に交わされる、言葉なき魂の応酬は張り詰めた静寂の中で、異様なそしてな多大なる緊張感を漂わせていた。
「やっとお出ましですね。リバース・アビス」
ウィズの声は、いくらか落ち着きを取り戻していた。しかしその吸い込まれそうなほど深い蒼い瞳は目の前の強大な敵を寸分も離さずに捉え、その一挙手一投足を観察していた。
「リバース・アビス……それで、さっき……何を話していたんだ?」
俺は息を潜め、喉の奥から絞り出すように問いかけた。死王の圧倒的な存在感を前に、平静を保つのがやっとだった。
ウィズは、アビスを睨みつけ、その小さな体に宿る全ての魔力を爆発させるように、低い、しかし確固たる声で言った。
「やつは私をこの死界の新たな支配者として迎え入れ、共にこの朽ちた世界を統治したいと……死界語で言っているのです。だから……さっきは……『共に、この絶望的な世界を再生させよう』と……」
「グオオオオ……!」
ウィズの言葉が終わるや否や、アビスはまるで提案を拒絶されたことに激昂したかのように、怒りの咆哮を上げ、その巨大な漆黒の剣をまるで天から落ちる雷霆のように、ウィズへと容赦なく振り下ろした。それは、一振りで空間そのものを断ち割り魂さえも粉砕するような、絶望的な破壊力を持った一撃だった。
ウィズは研ぎ澄まされた感覚で、辛うじてその剣の軌道を見切り、まるで紙一重で身を翻して回避した。しかし、その剣が通過した後の空間には歪んだような痕跡が残り、その破壊力の凄まじさを物語っていた。
そして、間髪入れずにウィズは反撃に出る。
まずその小さな右手で、眩いばかりの蒼い光を放つ、巨大な雷の球体を魔法で作り出した。それは周囲の空気をビリビリと震わせ、強烈なエネルギーを内包していた。するとその球体を中心に、目に見えない引力が働き始めたのか、アビスの巨大な体が僅かにしかし確かに引き込まれていく。
しかし、その状況にも関わらず、アビスはニカッとまるで獲物を前にした獣のような不気味な笑みを浮かべ、その雷の球体をまるで玩具を叩き壊すかのように殴りつけた。
「!! すごい風圧だ……! こんなんで立っていられるのか!?」
俺は、吹き飛ばされまいと必死に足を踏ん張り、地面に食らいついた。衝撃波はまるで巨大な嵐のように周囲の空気を掻き乱し、洞窟の壁に激しくぶつかって砕け散った。
ウィズはもう一方の小さな左手から、今度は燃え盛るような赤い炎を生み出しそれを一点に集中させ、アビスの巨大な顔面へと向けて放った。それは小さな火球でありながら、信じられないほどの熱量を帯びていた。
「ガハハハッ!」
しかしアビスは、その攻撃を全く意に介さないかのように余裕綽々とした嘲笑を響かせた。炎は彼の黒い鎧に触れることなく、まるで別の次元へと吸い込まれていくようだった。
するとアビスは再び咆哮を放った。その声に応えるように洞窟の奥深くから、無数の黒い影が湧き上がってきた。それはおぞましい形をしたコウモリの群れだった。彼らは鋭い牙を剥き出し、毒々しい緑色の液体を滴らせながら一斉にウィズへと襲い掛かろうとしていた。
「ウィズ! 俺の出番だ!」
俺は迷わず前線に飛び出し、迫りくるコウモリの群れのヘイトを惹きつけるために、最も近い一匹のコウモリを、持てる限りの力で殴り飛ばした。鈍い音と共にコウモリは壁に叩きつけられ、黒い液体を撒き散らしながら墜落した。するとまるで蜂の巣を突いたかのように、残りのコウモリたちは一斉に俺へと標的を変え、鋭い牙を剥き出しに噛みつこうと襲い掛かってきた。ヘイト向け完了だ!
「そっちは頼んだ!」
俺は背後のウィズに向かって叫んだ。彼女は一瞬こちらを振り返り、その蒼い瞳に確かな信頼の色を宿した頼もしそうな笑顔で頷いた。
「頼まれた!」
ウィズは、その小さな両手に蒼い雷の球体と大きな炎の球体を同時に生み出し、それを一点に収束させ、アビスの巨大な体へと解き放った。雷は鎧の表面を激しくスパークさせ、炎は黒い表面を焼け焦がそうとする。アビスの腹部あたりは、感電と火傷によって黒い鎧が崩れ落ちているように見えたが、アビスの防御力もまた並大抵のものではなかった。
「これで効かないって……さすがは死界の王ね!」
ウィズは間合いを詰め、アビスの巨大な足に渾身の力を込めた蹴りを叩き込んだ。彼女の小さな足は激しい衝撃でジンと痛んだが、そのまま体勢を崩したアビスを今度は右手から放たれた強烈な風魔法によって、吹き飛ばした。
「私ね結構、風魔法得意なの。あなたのような大きくて鈍い人でも、簡単に吹き飛ばせるの!」
ウィズは体勢を立て直そうとするアビスに向かって、何発もの鋭い風の刃を連続して打ち込んだ。しかし、その攻撃を受けている最中、アビスの巨大な両目は不気味な赤色に染まった。
「来る! 反射が!!」
ウィズの連続して放った鋭い風の刃は、まるで鏡に映ったかのように、その軌道を反転させ全てがウィズ自身へと跳ね返ってきた。
轟音と共に強烈な爆風が吹き荒れ、足元の大理石のタイルがまるで紙のように剥がれ飛んだ。
「はぁ、はぁ、まるで地獄だな……やっぱり死界の王なだけある!!」
俺は爆風に巻き込まれながらも、俺に襲い掛かってきたコウモリの群れを吹き飛ばしてくれたアビスを、必死に嘲笑った。わずかな挑発でも相手の隙を生むかもしれない。
しかしアビスの赤色に染まっていた目は、元の深い黒色に戻っていた。そしてウィズは畳み掛けるように、炎、雷、そして風、同時に三つの異なる属性の魔法をアビスの巨大な体に叩き込んだ。それは、彼女の持つ全ての魔力を注ぎ込んだ、渾身の一撃だった。
「……もう終わり?」
ウィズは息を切らしながら、吹き飛ばされたアビスに向かって問う。アビスはゆっくりとしかし確かに、その巨大な体を再び起こした。
そのまさにその瞬間だった。信じられない速さで、アビスはいつの間にかウィズの背後に回り込んでいたのだ。
「ウィ――」
俺が彼女の名前を叫んだ時には、もう遅すぎた。
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