第肆話:最初の開拓者
「でもあんな化け物に食われて死ぬなんて、冗談じゃない!」
あの巨大な爪、鋭い牙、そして何よりもあの底知れない悪意を宿した瞳。思い出しただけで、胃の中がひっくり返りそうだった。
しかし隣に立つウィズの瞳には、先ほどまでの絶望の色は薄れ、微かな希望の光が灯っているように見えた。その蒼い瞳はまるで深海の底で揺らめく燐光のように、頼りなくも確かに存在していた。
「い……移動……魔法、は……どんな……ひと、でも……詠唱、なし……で、使え……ます」
「弱い魔法だからか……」
でも、そんな都合の悪い話があるのだろうか? 俺には魔法の才能が無くて、数センチメートルしか移動できない魔法だけが使える。……明らかに酷い。なんかウィズとはスタートから違う気がする。
………まあでも、こんなクソみたいな状況で小さな可能性も見逃すわけにはいかない。
藁にも縋る思いで、彼は続けた。
「まあ一応聞いておいて損は無いかな。それはどうやって発動させるんだ?」
たとえ数センチの移動だろうと、この絶望的な状況で何かの役に立つかもしれない。今はどんな小さな可能性にも賭けてみるしかないんだ。他にこの状況を打破する手段なんて、見当たらないのだから。……なんて、内心で必死に言い訳じみた言葉を重ねている自分が、少し滑稽だった。
「それで……頭、のなか……で、念じて……ください……自分が……移動、する……イメージ、を……強く、鮮明、に」
言われた通り、フブキはゆっくりと目を閉じた。じめじめとした洞窟の空気、岩肌の冷たさそして背後から聞こえるかすかな怪物の唸り声。それらの感覚を意識の奥底に追いやり、頭の中で自分が今の場所から横にスライドするイメージを強く、鮮明に描いた。
足の裏が地面から離れるほんの一瞬の無重力感。体がふわりと浮き上がり、隣の少しひんやりとした地面に再び着地する感覚……。まるでスローモーションのように、移動の一連の流れを脳内で繰り返した。
だがしばらくしても、何も起こる気配はなかった。本当にこんな子供の空想みたいなことで移動なんてできるのか?
まるで子供騙し……いや、今はそんなことを思っている場合じゃない。焦燥感がじりじりと胸を焦がす。
「今……フブキ、さんは……五、センチ……くらい……移動、しましたよ」
ウィズのどこか嬉しそうな声が聞こえた。その声には、成功したことへの安堵とフブキの役に立てたことへの喜びが滲んでいるようだった。
「まじか!? 全然、感覚がなかった…………で、戦闘に使えんの? これは……」
言われておそるおそる目を開けて自分の足元を見てみた。……確かにほんのわずかに、靴の位置が変わっているような気がする。言われてみればさっきまであったはずの小さな石ころが、ほんの少しだけ遠ざかっている。五センチか……確かに移動はしたのかもしれないけれど全く体感がない。これでは襲い来る怪物から、ほんの数センチ避けるのが精一杯だろう。逃げることすら困難極まりない。
「……しょうが……ない、です……この……魔法は……戦闘、用……ではなく……娯楽……として……使われて……ました……から」
「娯楽……?」
一体どんな者が、こんなにも非力な魔法を娯楽として使っていたというんだ?
全く理解できない。数センチしか移動できない魔法で、一体何が楽しいんだ? ますます、この死界という世界の常識が分からなくなってきた。
外の世界は、信じられないほどの数の異形たちが蠢いているという。ウィズでさえその存在を感じると僅かに身を強張らせるほどだ。しかし奇妙なことに、その怪物はウィズが近くを通ると、まるで恐怖にでも駆られたかのように、道を空けるのだという。その理由をウィズは多くを語らないがフブキは彼女の中に、ただならぬ力のようなものが宿っていることを感じていた。
「そういえば魔法って、使えば使うほど上達するものなのか?」
それでも心の奥底に残る、ほんの僅かな希望を捨てたくなくて、フブキは問いかけた。この状況を打破できるのは、もしかしたらこの頼りない移動魔法だけなのかもしれない。
「……まあ……上達、する……者もいれば……しない、者も」
えぇ!? じゃあ努力が水の泡になる可能性だって……あるってこと……!?
そんなの、まるで運試しじゃないか。
「じゃ、じゃあ、逆に移動魔法も使えば使うほど、移動できる距離が伸びる人もいるのか!?」
いや、まあもしかしたら誰にも気づかれていないだけで、この魔法にはとんでもない可能性が秘められているのかもしれない。数センチが段々と伸びていって、最終的にはテレポーターのように自由自在に移動できるようになる、なんてことも……。
「……わかりません……だれも……そこまでは……使おう、と……しませんでした……から」
「いや厳しすぎ! 全部無駄になることだってあるってことでしょ? 怖いよそんなこと」
……まあでも、少しやってみて成長したなと感じたら、俺が最初の開拓者になってやっても良いんだけどな。誰も挑んだことのない領域を開拓するなんて、ちょっとワクワクするじゃないか。
じゃあまず、移動魔法の連発が出来るか確かめよう。
フブキは再び目を閉じ、移動したのを確認した瞬間に、また念じる。まるで条件反射のように、その動作をひたすら繰り返すことにした。
続けていてわかったことなのだが、移動魔法は連発できなく、まるで呼吸をするかのように、わずかな間隔が必要だった。念じてから、再び念じることができるまで、およそ一秒前後。それは、戦闘において致命的な時間だ。連続して大幅に移動しようとするのは避けたほうが良いのかもしれないな。
じゃあまず、今、移動魔法で動ける距離を計測しよう。
フブキは足のかかとに、近くに落ちていた小さな石を置いた。ここから移動魔法を念じて、前に進んでみよう。彼は集中し、頭の中で移動するイメージを強く描いた。
おお! 見事にかかとの位置が進んでいるじゃないか……まあ、まだほんの数センチだけどな……。それでも、確かに進んでいる。努力は無駄ではないのかもしれない。
フブキは今いるところに、別の小さな石で印をつけた。「よし、これを基準にして、練習後どれくらい距離が伸びたのかをはかろう」
彼は移動魔法を何回も発動させた。念じて、移動して、また念じる。単調な作業が続く。体感はほとんどないが、確かに最初に置いた石と、今かかとがある位置との距離は、ほんの少しずつだが広がっている。
ふと、ウィズの方を見ると、彼女は静かにフブキの特訓を見守っていた。その蒼い瞳は、じっと彼の足元を見つめ、まるで熱心な研究者のように何かを観察しているようだった。時折、小さく頷いている。その表情は穏やかで、フブキの努力を静かに応援しているようにも見えた。
そして何回か練習している家に俺の意識が、研ぎ澄まされていくのを感じていた。最初はぼんやりとしていた「移動するイメージ」が、徐々に鮮明になっていく。指先で微細な感覚を掴むように、意識を集中させる。
何度も繰り返すうちに、ほんの僅かだが、移動した瞬間に、足の裏に、ごく微かな、まるで砂が擦れるような感触を捉えられるようになった。気のせいかもしれない。でも、確かに何かがある。
集中が途切れないように、意識を持続させる。単調な繰り返しの中で、ふと、ある考えが頭をよぎった。
「イメージを強く、鮮明に……」
試してみよう。
今度はただ前に移動するのではなく、右斜め前に、数センチ移動するイメージを強く描いてみた。意識を集中させ、その方向に、まるで目に見えない力が引っ張るような感覚を思い描く。
……動いた!
確かに、ほんの僅かだが、先ほどまでよりも、明確に前にへ移動できた。しかも、移動した瞬間の足裏の感覚が、さっきよりもハッキリと感じられた。
「なるほど……ただ念じるだけじゃなくて、イメージの質が重要なのか」
これは、単なる偶然ではないはずだ。意識をより具体的にすることで、魔法の効果が変わる。まるで、ぼやけていたピントが、徐々に合っていくような感覚だ。
俺は、さらに意識を集中させ、様々な方向への移動を試してみた。真横へ、ほんの少し後ろへ。意識を集中すればするほど、移動距離は変わらないまでも、移動の際の感覚が研ぎ澄まされていく。
クールダウンの時間も、意識を集中させることで、ほんの僅かに短縮できるような気がした。気のせいかもしれないが、試してみる価値はある。
単調な特訓の中に、明確な手応えを感じ始めた。数センチの移動魔法。誰も極めようとしなかった、この非力な魔法に、もしかしたら、本当に、隠された可能性があるのかもしれない。
ふと、ウィズが静かに頭上で何かを弄ぶのに気づいた。見ると、彼女は黒いローブに付いているらしいフードを、ゆっくりと下ろしたのだ。フードが取り払われた瞬間、銀色の髪がサラサラと流れ落ち、小さな、まるで陶器のように白い顔が現れた。大きな蒼い瞳が、キラキラと光を反射している。普段は隠れていたその幼い顔立ちを見て、俺は思わず息を呑んだ。
「……え? えふ」
フブキは驚いて舌を噛んだ。
しかし死界の王女の候補という恐ろしい肩書とは裏腹の、あどけないその容姿に俺は一瞬、見惚れてしまっていた。ギャップありすぎ。
ウィズは、相変わらず静かに俺を見守っている。フードを下ろしその顔がはっきりと見えるようになったことで、その蒼い瞳には先ほどよりも、ほんの少しだけ目に期待の色が宿っているように見えた。その視線が、俺の背中をそっと押してくれるような気がした。
「よし……もっと、もっと集中して、この魔法を極めてみせる!」
俺は再び、意識を集中させ微かな足裏の感覚を頼りに、移動魔法の特訓に没頭していった。
*
移動魔法の特訓に没頭してから、一体どれほどの時間が流れたのだろうか。じめじめとした洞窟の空気繰り返される単調な動作、そして疲労の色を滲ませるウィズの表情。それらが過ぎ去った時間の長さをぼんやりと物語っていた。体感では数週間などという短い期間では到底済まないように感じる。まるで、永遠にも続くかのような、濃密な時間だった。
俺の移動魔法はあれからほとんど進歩がなかった。意識を極限まで集中させ神経を研ぎ澄ませても、移動距離は常に安定して一メートル。まるで頑固な壁に阻まれているかのようにそれ以上伸びることはなかった。そして発動後のクールダウンは、まるで機械仕掛けのように正確に0.5秒で固定されていた。それが、今の俺の紛れもない限界だった。
たった一メートルの移動。ほんの一瞬にも満たない、0.5秒のインターバル。この、微々たる能力で、この残酷な死界を長きに渡り支配する、強大な王を打ち倒せるのだろうか? その途方もない目標を考えると、まるで奈落の底に突き落とされたかのような、気が遠くなるような絶望感に襲われることも一度や二度ではなかった。
それでも俺の心が完全に折れることなく、前に進むことを諦めずにいられるのは隣に立つウィズの存在があったからだ。最初その人間離れした異質な容姿、透き通るような銀色の髪や、吸い込まれそうなほど深い蒼い瞳に本能的な警戒心を抱いていたのは事実だ。しかし共にこの危険な死界で生き延びる時間の中で、彼女の奥底に眠る純粋で優しい心そして、その小さな体に秘められた、信じられないほどの強靭な意志に、俺は何度も気づかされてきた。
死界の王女という想像もできないほど重い宿命を背負いながらも、ふとした瞬間に見せるどこか寂しげで不安な表情を守ってやりたい。これは彼女が女性だからって理由じゃない。
じめじめとした床を踏みしめ、俺は再び意識を研ぎ澄ませ、限界まで移動魔法を発動させる。一メートル。0.5秒。まるで体に刻印するように、繰り返されるその感覚を、神経の隅々まで深く深く刻み込む。いつか、この単調な繰り返しが、奇跡を生むと信じて。
その時ウィズが、いつものように音もなく静かに現れた。
「フブキさん……いつ……死界、の……王、との……戦いに……向かいますか? あ……別に……私は……いつでも……大丈夫……ですよ」
その、まだ少し辿々しい言葉には、焦りのようなものは一切なく、ただ、静かに揺るぎない信頼の色が滲んでいた。彼女の蒼い瞳は、まっすぐに俺を見つめ、その奥には、共に困難を乗り越えてきたからこそ生まれる、深い絆が宿っているように感じられた。
「ああ、もうすぐだウィズ……ちょっとだけ待っててくれないか」
俺は、彼女の柔らかな銀色の髪をそっと撫でた。その手触りはまるで上質なシルクのようで、ひんやりとしていた。
「お前の、誰にも負けない強さとその優しい心があればきっと大丈夫だ。俺もお前の力を最大限に引き出せるように、この一メートルの移動と0.5秒のインターバルをありとあらゆる手段を使って、極限まで使いこなしてみせるつもりだ」
ウィズは、俺の言葉に安心したように、小さく本当に小さく頷いた。その表情には微かながらも安堵の色が浮かんでいた。彼女の瞳は再び決意の色を宿し静かに未来を見据えているようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます