第弐話:死界の住人

 警戒心は依然として消えないが、この状況で他に選択肢はないと感じた俺は意を決してそのローブの影の後をついていくことにした。周囲にはおぞましい怪物たちが蠢いているが、そのローブの影を一瞥するとまるで絶対的な支配者に畏怖するように、道を空けていく。


そのローブの影は、巨大な口を開けた暗くじめじめとしたトンネルへと躊躇なく入っていった。トンネルの中は、外よりもさらに湿気が強く鼻をつく腐臭が濃密さを増している。そして何よりも不気味なのは、絶対的な静寂だった。壁のあちこちから無数の視線が突き刺さるような気がして背筋に冷たいものが走った。


「なあ、一体どこまで行くんだ?」


俺の問いかけに、ローブの影は振り返ることもなくただ黙々と暗いトンネルの奥へと進んでいく。この先に一体何があるのだろうか。もしかしたら俺を安全な場所に誘い込み油断したところをゆっくりと喰らうための巧妙な罠なのかもしれない。そんな疑念が拭いきれない不安と共に、頭の中をよぎる。


どれほどの時間このじめじめとした暗闇の中を歩いただろうか。突然、ローブの影は何の予兆もなくその場で立ち止まった。トンネルの奥は巨大な岩壁に阻まれ、完全に塞がれているようだ。


「#&##! ☆▲☆!!」


ローブの影は、その行き止まりの岩壁に静かに手を触れた。すると信じられない光景が目の前に現れた。硬いはずの岩壁がまるで水面に落ちた絵具のようにじわじわと、音もなく溶け始めたのだ。その奥には、簡素ながらも明らかに人工的に造られたと思われる、小さな部屋のような空間が現れた。


これから、この得体の知れない影が俺をどうするつもりなのか、全く想像もできない。だが今、目の前で起こった常識を覆すような魔法じみた光景には、恐怖よりも先に奇妙な感動を覚えてしまった。上位の魔法使いなのだろうか。


ローブの影は、無言のまま現れた部屋の中へと足を踏み入れた。俺も、警戒しながらその後に続いた。部屋の中には、古びた木製の簡素なベッドと同じように使い込まれた背もたれの低い椅子が一つだけ置かれている。生活感はほとんどなくまるで一時的な隠れ家のようだった。


ローブの影は、軋む音を立てるベッドの端に腰を下ろし、そしてその正面にある埃を被った椅子を静かに指さした。座れということなのだろうか。


半信半疑ながらも、促されるままにその椅子へと腰掛けた。硬い木の感触が疲労困憊の体にじんわりと染み渡る。こんなにも警戒心を解いて座ったのは一体いつぶりだろうか。これからどうなるかわからない状況なのに、ほんの少しだけ張り詰めていた心が緩んだ気がした。


 俺がようやく椅子に深く腰掛け、わずかに落ち着きを取り戻した様子を、ローブの影がフードの奥からじっと見つめていたような気がした。その暗闇の奥でほんの一瞬、優しい光が揺らめいたような気がした。もちろん、深い影に覆われていて、はっきりと確認できたわけではない。数時間にも及ぶ奇妙なやり取りと、得体の知れない存在への警戒心で俺の目が疲れているだけの錯覚かもしれない。それでも、もしあれが微笑みだったとしたら、それは一体何を意味するのだろうか?


そしてローブの影は、まるで幼子が初めて親に何かを伝えようとするかのように、ゆっくりとした身振り手振りを始めた。最初は全く意味が掴めずただ奇妙な動きに見えたが、注意深く見ているうちにその意図が少しずつ理解できてきた。まず細い指先で静かに自分自身を指さし、それからゆっくりとまるで大切な何かを示すように、俺を指さしているようだ。


次にその指は自身の口元へと移り、かすかに震えながら何か言葉を発しようとしている。もしかして本当に言葉を交わしたいのだろうか。


ローブの影は、フードの下で何かを深く考え込んでいるような仕草を見せた後、まるで生まれたての雛鳥が初めて鳴くような、たどたどしいしかしよく耳を凝らして聞けばわかる、確かに人間の言葉に近い音を発した。


「……あ、な、た……ことば……はなす……?」


それは長年放置され、錆び付いてしまった壊れたオルゴールの音色のように、ひどくぎこちない発音だった。それでも注意深く耳を傾ければ、その意味を辛うじて理解することができた。


「ああ、俺は言葉を話す。お前は?」


俺が答えるとローブの影はフードの奥で、隠された瞳がまるで暗闇の中で灯された小さな炎のように一瞬強く輝いたように感じた。そして細く白い指先で自分のローブをそっと撫でながら、先ほどの言葉をまるで幼い子供が新しい遊びを覚えたかのように、たどたどしく繰り返した。


「……わ、た、し……あ、な、た……ことば……はなしたい……?」


その問いかけは、葉の意味を知りたいという純粋な好奇心と、何かを切実に訴えかけようとする微かな願いが混ざり合っているように聞こえた。


俺は自分の胸を軽く叩き、「俺は」と言い次に、相手のローブを指さして「あなた」と言い直した。そして、「言葉を話す」という一連の言葉をまるで壊れやすい陶器を扱うように、一つ一つの音を区切りながら丁寧にはっきりと発音した。


ローブの影は、フードの奥からまるで熱い視線が突き刺さるように、熱心な眼差しで俺の言葉に耳を傾け、そして、時折首を傾げながらも懸命にその音を真似ようとした。その小さな体全体から言葉を理解しようとする強い意志が感じられた。


「……わた、し……こ、と、ば……は、な……し、た……い……」


その繰り返される言葉は、まるで暗闇の中で一筋の光を探すように、切実でどこか悲しげに響いた。


「…………なあ、あの時、俺を食べようとしてたんじゃないのか?」


唐突にあの時の恐怖が蘇り、俺は問いかけた。ローブの影はその言葉の意味が理解できなかったのか、ゆっくりと首をかしげた。フードの奥の闇は深くその表情を窺い知ることはできない。


「そりゃ、まだ文字がわからないから、俺の言葉の意味も理解できないよな……」


俺は言葉が通じない相手への苛立ちと、あの時の恐怖が再び湧き上がってくるのを感じて小さく落胆した。


「はぁ、まあでも言葉を教える間だけでも、この安全な空間で養ってくれるってことだよな……え?  そうじゃないのか?」


俺は都合の良い解釈を口にしたが、ローブの影はまたもや首をかしげた。


「……ふうーぅ。この部屋にいる間だけ、言葉を教えてやるよぉ…………はぁ」


面倒な事態になったという思いと、依然として拭えない恐怖そして言葉が通じ始めたことへの微かな希望が入り混じり、俺の心は複雑な感情で満たされ深い疲労感が全身を重く覆っていった。


「じゃあまず、」


警戒しながらも、好奇心に抗えず、俺は声をかけた。


「『座る』は、こうやっって身体を安定させるための姿勢で、主にお尻? を支点とし体全体を支える……」


俺がそう説明すると、ローブの影はフードの奥でじっと俺を見つめた。その沈黙はまるで深淵を覗き込んでいるかのような錯覚を覚えるほどに重い。そしてゆっくりと、まるで長年動かしていなかった機械のようにぎこちなく、自分の体を下ろしソファに座った。そしてその行動は俺の言葉を理解しようとする、かすかな意志が感じられた。


座った後も彼女……いや、彼だろうか……は微動だにせず、まるで古木の年輪を数えるかのように、静止していた。周囲の空気までもがその存在に合わせて息を潜めているようだ。


次に俺は、「読む」「書く」という、より抽象的な概念を教えることにした。足元の湿った地面に拾った木の枝で、子供の頃に夢中で読んだ冒険譚に出てくるような、簡単なベッカム文字を書きながら、「これが『読む』。ここに書かれた記号を理解し、意味を読み解くことだ」と説明する。指先から伝わる土の感触と、枝が地面を擦る微かな音が、静寂の中に響いた。まあ、まずは基礎中の基礎であるベッカム文字だけ覚えていればいいだろ。逆に英語なんて店の看板とかでしか見ないし……


ローブの影は、その文字をまるで飢えた獣が獲物を狙うかのように、食い入るように見つめた。そして信じられない速さで自分の指先を土に這わせ、俺が書いたばかりのベッカム文字を、少しの狂いもなく正確に真似て書き始めた。まるで長い間、言葉というものを渇望かつぼうしていたかのようだ。


俺が最初に試し書き程度で書いた「あ」という文字を指さすと、ローブの影はフードの奥で微かに光を揺らめかせ、自分の頭をほんのわずかに傾げた。


それは、無垢な子供が初めて見るものに抱くような、「これは何?」という純粋な問いかけに見えた。


「それは『あ』という音を表す記号だ」


ローブの影は再び首をかしげる。本当に始めから教えるのって骨が折れるな……


「じゃ、実際に発音してみるか!」


言葉が通じない相手にどう伝えればいいのか。思考を巡らせ、俺は自分の口の前で手を動かし話すというジェスチャーを行うことにした。具体的にはグーパーを繰り返し前に出しながら行う動作だが。


そしてローブの影は、その奇妙な動きに一瞬戸惑ったようだったが、すぐに何をするべきかを理解した。フードの奥から、微かに空気を震わせるような音が聞こえた。


「あ」

「ぁ……」


ローブの影から発せられたのは、か細く、まるで風に運ばれる砂粒のような音だった。


「い」

「りぃ……」

「い」

「うぃ……」

「い!」

「ぃい……」


俺はめげずに、間違いはちゃんと指摘してあげるように、少し大げさなほどはっきりと復唱した。


「う」

「くぅ……」

「う」

「う……」


「う」は比較的簡単なのか……まあ確かに、「い」の発音は舌の使い方が難しいしな。


「え」

「るぇ……」

「え」

「ゆぇ……」

「え!」

「ぃえ……」

「え」

「ぇ……?」


なかなか発音も良くなってきたな。この調子で何度も反復練習させて言葉をちゃちゃっと覚えさせよう。


だが数分後、何度も何度も単調な音の繰り返しに、さすがのローブの影も飽きてしまったらしい。


そして突然ローブの影は自分の指で、先ほどまでの拙いベッカム文字とは全く異なる、複雑な模様を地面に書き始めた。それは、流れるような曲線と、幾何学的な直線が組み合わさった、俺の知るどの文字とも違うものだった。まるで、意思を持つ生き物のように、地面を這い広がっていく。


「ベッカム文字じゃない。それは、一体……?」


俺が問いかけると、ローブの影はフードの奥から、先ほどとは比べ物にならないほど強く、眩い光を放ちながら、その模様をじっと見つめ返してきた。その光は、まるで言葉を持たない魂の叫びのようで、その模様に何らかの深遠な意味があることを、声にならない声で伝えようとしているかのようだ。周囲の木々もその強い光に照らされ、一瞬昼間のように明るくなった。そしてその光が収束していくにつれて、森は再び静寂と黄昏の色に包まれていった。地面に残された奇妙な模様だけが先ほどの異質な光の名残のように、ぼんやりと浮かび上がっていた。





 そして何日か経過した。発音が曖昧で意味が通じないことも多かったが根気強く何度も何度も繰り返すうちに、少しずつ正しい発音に近づいていった。

「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」。


俺たち人間が教えるごく簡単な挨拶の言葉を驚異的な速さで吸収していく。


その純粋な学習意欲には、戒していたはずの俺でさえ目を見張るものがあった。その時この世界で忘れかけていた、他者との繋がりという微かなしかし確かな温かい光が冷え切った俺の胸の奥に静かに灯った。


次に俺はより日常的な簡単な動作を表す言葉を教えた。「歩く」「止まる」「座る」「立つ」。言葉だけではなく実際に体を動かしながら教えることで、ローブの影はより深くその意味を理解しているようだった。時折言葉の意味が完全に理解できずに、小さな首を傾げることもあったが俺が身振り手振りを交え丁寧に説明すると、すぐに納得したように静かに頷いた。


そんな風に、俺は時間をかけて少しずつ言葉を教えていった。

「はは、なんて俺は馬鹿らしいことしてるんだ……」

死への恐怖はまだ心の片隅に、常に付き纏っていたが言葉を教え、そして相手がそれを懸命に覚えようとする姿に集中している間だけはその恐ろしい現実を、ほんのひととき忘れられた。そしてフードの奥から注がれる、熱心で純粋なまなざしに応えているうちに言葉を超えた、奇妙な連帯感のようなものが俺との謎のローブの影との間に確かに生まれ始めていた。


ある程度、日常的な本当に簡単な言葉を教えた後、ローブの影はフードの奥でまるで夜空の星のようにキラキラとした瞳でじっと俺を見つめてきた。まだ何かを学びたいもっと知りたいという強い意志が、その瞳からひしひしと伝わってきた。


なんかそいつを見ていると、自分まで希望の兆しで照らされてしまう気がする……


「じゃあ、今度は、簡単な質問をしてみるか?」

俺はそう提案した。「趣味は、何か好きなことはあるか?」


ローブの影は少し考え込むような仕草を見せた後、先ほどまでのたどたどしさからは想像もできないほど、流暢なしかしどこか機械的なイントネーションの日本語で答えた。「……私は……学ぶ……です」


「特技は?」


「……私は……動く……こと? です」


「最後。何か、楽しいと思ったことはあるか?」


ローブの影はフードの奥から、じっと俺の目をまるで魂の奥底を見透かすかのように見つめ、そしてゆっくりと、しかし先ほどまでの機械的な響きとは明らかに異なる温かい声で答えた。


「……今……貴方と……言葉を……学べてる……この時……楽しい」そのまだ完璧とは言えない、しかし確かに感情を帯びた言葉はまるで幼い子供が一生懸命、自分の気持ちを伝えようとしているようで警戒していたはずの俺の絶望の壁にヒビが入った。


この人間とは異なる存在も何かを知りたい誰かと繋がりたいと強く願っているのかもしれない。


簡単な質問にはもう問題なく答えられるレベルまで上達したのか……この驚異的な学習速度ならもしかしたらもっと複雑な会話も、そう遠くない未来にできるようになるかもしれない。


俺は不安だらけのこの世界を、今なら少しだけ安心できると感じた。

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