第6話:遺された楽譜

冬の足音が近づいていた。


黄昏堂の窓ガラスに映る朝日は、日に日に低く、冷たさを増していく。蒼太は温かい紅茶を飲みながら、古い本の埃を払っていた。柱時計のチクタクという音だけが、静かな店内に響いていた。


ドアの鈴が鳴り、冷たい風と共に一人の男性が入ってきた。


「すみません、開いていますか?」


三十代前半だろうか。黒いコートに身を包み、少し長めの髪を揺らしながら、彼は遠慮がちに声をかけた。その手には茶色い紙袋が握られていた。


「はい、どうぞ」


蒼太は丁寧に応え、客を店内に招き入れた。


「中島陽一と申します。音楽の仕事をしているんですが...」


彼の声には疲れが混じっていた。眼の下にはうっすらと影があり、何か悩みを抱えているように見えた。


「音楽の仕事ですか?」


「はい、作曲をしています。といっても、まだ無名ですけどね」


陽一は照れたように微笑んだ。彼は差し出された椅子に腰掛け、紙袋を膝の上に置いた。


「どのようなご相談でしょうか?」


蒼太の静かな問いかけに、陽一はしばらく迷った様子だったが、やがて紙袋から一枚の楽譜を取り出した。黄ばんだ譜面用紙には、手書きの音符が丁寧に並んでいた。しかし、途中で途切れており、未完成の楽譜だということがわかる。


「これは祖父の遺品から見つけたものなんです。祖父は先月亡くなったんですが...」


陽一は楽譜を大切そうに広げながら続けた。


「祖父も昔、作曲家を目指していたらしいんです。でも、この曲のことは聞いたことがなくて...」


彼は少し言葉を詰まらせ、そして深く息を吸った。


「でも、この旋律、なぜか頭から離れないんです。すごく悲しくて、でも何か強い意志を感じるような...」


蒼太は静かに頷き、楽譜を受け取った。表題や作者名が書かれているはずの部分は、インクがにじんで読めなくなっていた。しかし、楽譜の端には小さな字で「祈り」「平和」「鎮魂」といった言葉がメモ書きされていた。


「お祖父様について、もう少し教えていただけますか?」


陽一は少し考え込み、そして静かに語り始めた。


「祖父は中島誠といって、生前は高校の音楽教師をしていました。温厚で穏やかな人で、生徒からも慕われていたようです」


彼は少し視線を落とし、続けた。


「でも、時々すごく悲しそうな顔をすることがあって...特に戦争の話題になると、急に黙り込んでしまったりね」


柱時計が十時を告げた。チーンという澄んだ音色が、静かな空間に広がる。


「もし良ければ、祖父の家を見せてもらえませんか?この楽譜について、何か手がかりがあるかもしれません」


陽一は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに穏やかな笑顔に戻った。


「助かります。一人では整理しきれないと思っていたところなんです」


---


中島誠の家は、市の郊外にある古い一軒家だった。小さいながらも手入れの行き届いた庭には、冬枯れの花壇が並んでいた。陽一が鍵を開け、蒼太を中へ招き入れる。


「祖父は最後まで一人で暮らしていました。頑固だったんですよ」


陽一は少し微笑みながら言った。家の中は整然としていたが、どこか寂しさを感じさせる空間だった。リビングの壁には、音楽関係の賞状や古い写真が飾られている。


「祖父の書斎はこちらです」


案内された部屋は、本と楽譜で埋め尽くされていた。一面の本棚、机の上には筆記具や五線譜が整然と並べられ、隅には古いレコードプレーヤーが置かれていた。


「ここで何か見つかるかもしれません」


二人は静かに探索を始めた。陽一が書類を確認する間、蒼太は本棚や引き出しを見ていく。古い楽譜、音楽理論の書籍、クラシック音楽の全集...そのどれもが大切に扱われた形跡があった。


「何か見つかりました?」


陽一の問いかけに、蒼太は首を振った。しかし、ふと目に入った古びた小箱が気になり、手に取った。


「これは?」


「ああ、祖父の宝物箱みたいなものです。開けてみてください」


小箱の中には、古い写真や手紙、勲章などが大切に保管されていた。蒼太は慎重に中身を取り出し、一つずつ確認していく。


一枚の古い写真が目に留まった。黒白の写真には、若い兵士たちが写っていた。裏を返すと「第三中隊 1944年」と書かれている。


「祖父は戦争に行っていたんですね」


「はい。終戦間際に召集されて、幸い大きな戦闘には参加せずに済んだようです。でも、戦争体験については、ほとんど語りませんでした」


さらに探していくと、一通の古い手紙が見つかった。黄ばんだ紙に、かすれた文字で何か書かれている。


「戦地からの手紙のようですね」


蒼太が手紙を広げると、そこにはかすれた文字が並んでいた。


「誠へ

君の旋律を、昨夜皆で共有した。あの音色だけが、この場所に一瞬の光をもたらしてくれた。

明日、私たちは動く。この手紙が届くかどうかも分からないが、君の音だけは消えないでほしい。

いつか、全てが終わったら...

健」


二人は言葉を失い、手紙を見つめていた。単純な言葉の向こうに、言い尽くせない深い感情が流れていることを感じた。蒼太の心に、ある確信が芽生えた。


「この手紙が言及している旋律が、陽一さんが持ってきてくださった楽譜かもしれません」


陽一は深く息を吸った。


「健...という名前に見覚えはありますか?」


「いいえ...祖父の友人だったのでしょうか」


さらに探索を続けると、陽一は一冊の古い日記を見つけた。


「祖父の日記です...」


彼は恐る恐る日記を開いた。そこには、若き日の誠の心情が率直に綴られていた。


「1945年8月20日」と書かれたページには、数行の文章があった。


「終戦から5日。しかし内側の騒音は止まない。中隊の顔々が目の前を行き交う。健も...最後まで私の音を信じてくれた健も、もう応えてくれない。

生き残ったことの意味。この旋律を完成させる義務。だが、指が凍りついたように動かない。あまりに重すぎる音か。それでも、私は書き続けねばならない。これが...」


文章はそこで途切れていた。書き残そうとした言葉が、何かの理由で記されなかったかのように。


陽一の手が震えた。彼は日記を静かに閉じ、窓の外を見つめた。


「祖父は...こんな思いを抱えていたなんて...」


蒼太は静かに話を続けた。


「恐らく、あの楽譜は単なる曲というよりも...」


彼は言葉を選びながら続けた。


「戦時中に何かを失った方への...音による手紙だったのではないでしょうか。そして、その重さゆえに、筆を置かざるを得なかった...」


二人は黙って、部屋の静けさに耳を澄ませた。柱時計がなくても、時の流れを感じる瞬間だった。


「でも、なぜ今、祖父の死後にこの楽譜が出てきたんだろう...」


陽一の問いに、明確な答えはなかった。しかし、蒼太の心には一つの考えが浮かんでいた。音楽は時に、言葉以上に強い思いを伝えることがある。もしかしたら、誠さんの魂は、孫である陽一にこの未完の旋律を託したかったのではないだろうか。


「陽一さんは...この曲を完成させてみる気はありませんか?」


蒼太の突然の提案に、陽一は驚いたように目を見開いた。


「私が?でも、祖父の曲を...」


「あなたも作曲家ですよね。そして、血を分けた孫です。誰よりも祖父の心に近い存在かもしれません」


陽一は黙って考え込んだ。そして、ゆっくりと頷いた。


「...試してみます」


---


その日の夕方、陽一はピアノの前に座っていた。彼のアパートの小さなリビングに置かれた電子ピアノだ。未完成の楽譜を譜面台に置き、彼は深く息を吸い、そして指を鍵盤に置いた。


最初は恐る恐る、祖父の書いた音符を一つずつ確かめるように弾いていく。陽一の指先から流れる音色は、確かに悲しさに満ちていたが、同時に強い意志も感じられた。戦争の悲惨さを知り、平和を祈る心。失った仲間への思い。生き残った者の責任。


徐々に曲は陽一の中で形になっていった。彼は祖父の書いた部分を何度も繰り返し弾き、その先に続く音符を探っていく。ある時は行き詰まり、ある時は急に閃いて、新たな旋律が浮かび上がる。


蒼太は部屋の隅で静かに見守っていた。陽一の表情が次第に変わっていくのが見える。最初の困惑や躊躇は消え、代わりに強い集中力と、どこか澄んだ光が宿っていた。


何時間が経っただろうか。陽一の指が止まり、彼はゆっくりと息を吐いた。


「...完成しました」


彼の顔には疲れと充実感が混じり合っていた。


「聴かせてください」


陽一は再び深く息を吸い、そして演奏を始めた。


祖父が残した旋律から始まり、そこに陽一自身の想いが重なっていく。悲しみを湛えた部分から、徐々に光が差し込むような転調。そして最後は、静かな祈りと希望を感じさせる和音で終わる。戦争の悲しみを抱えながらも、未来への希望を失わない、そんな曲だった。


演奏が終わると、部屋には深い静寂が広がった。陽一はピアノから手を離し、ゆっくりと顔を上げた。蒼太との視線が交わったとき、彼の目には涙が光っていた。


「どうでしたか?」


彼の声は少し震えていた。


「素晴らしかった」


蒼太は静かに、しかし確信を持って言った。


「陽一さんの音楽と、お祖父さんの音楽が、見事に融合していました。まるで...」


「まるで対話しているようでした」


陽一が言葉を続けた。


「祖父と...そして、祖父が失った仲間たちとも」


彼は楽譜を見つめながら、静かに微笑んだ。


「不思議です。この曲を弾いている間、祖父がそばにいるような感覚がありました。あの悲しそうな顔ではなく、穏やかで、安心した表情で」


陽一はペンを取り、完成した楽譜の表題に「平和への祈り〜祖父への手紙」と書き入れた。


「次のコンサートで、この曲を演奏します。祖父が果たせなかった約束を、私が果たします」


彼の顔には、新たな決意が宿っていた。


---


数週間後、蒼太は小さなホールでのコンサートに招待された。会場には、クラシック音楽を愛する人々が集まっていた。


陽一が舞台に上がり、静かにピアノの前に座った。彼はマイクに向かって短く言葉を添えた。


「祖父が残した旋律と、それを受け継いだ私の応答です。『未完からの再生』」


彼の指がピアノの鍵盤に降り立ち、静かな旋律が会場に流れ始めた。


蒼太は客席で目を閉じ、その音色に耳を傾けた。不思議なことに、あの日アパートで聴いた時とは少し違って聞こえた。より深く、より豊かに。まるで今、この瞬間にこそ、この曲は本当の完成を迎えたかのように。


演奏が終わると、一瞬の静寂の後、会場から温かい拍手が沸き起こった。陽一は何度も頭を下げ、そして最後に客席のある一点に向かって、特別な敬意を込めて深く一礼した。祖父の魂への挨拶だろうか。


コンサート後、陽一は晴れやかな表情で蒼太に近づいてきた。


「ありがとうございました。あなたのおかげで、祖父との本当の対話ができました」


彼は楽譜の写しを蒼太に手渡した。


「これは黄昏堂に。いつか、誰かの心に届くかもしれないから」


蒼太は感謝と共に受け取った。表紙には「未完からの再生 〜対話〜」と書かれていた。


「陽一さんの音楽の道は、これからどうなりますか?」


「もっと深く掘り下げていきたいです」陽一は静かに言った。「音には言葉を超えた何かがある。祖父がずっと探していたものを、私も探していきたいと思います」


彼の声には、以前には感じられなかった確かな自信があった。


---


黄昏堂に戻った蒼太は、陽一からもらった楽譜を大切に本棚に収めた。「未完からの再生 〜対話〜」。途絶えた音が、時を超えて新たな響きとなった物語。


柱時計が八時を告げた。チーンという音色が、静かに店内に響く。


蒼太は窓辺に立ち、冬の夜空を見上げた。星々が冷たく、しかし優しく瞬いている。


「時は過去そのものを変えはしない。でも、その意味を、響きを変えることはできるのかもしれない」


彼は静かに呟いた。陽一と祖父の物語は、その可能性を示していた。途切れた音色も、誰かの手によって受け継がれ、新たな命を得ることがある。


そして彼は、自分自身の未完の思いに思いを馳せた。陽菜への言えなかった言葉。それもいつか、何らかの形で届く日が来るのだろうか。


黄昏堂の灯りは、冬の闇の中で静かに輝き続けていた。

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