第5話:古い写真立て
清々しい秋晴れの午後だった。黄昏堂の前を、黄色や赤に色づいた落ち葉が、風に乗って舞っている。蒼太は店の前に箒を持って立ち、しばらくその光景を眺めていた。
「もう少しで冬だね」
彼は自分に言い聞かせるように呟いた。商店街には季節の変わり目を告げる風が吹き、人々の服装も徐々に厚手のものへと変わっていった。
ちりんちりん。
風鈴でなく、玄関に取り付けられた小さな鈴の音が響いた。蒼太が振り返ると、そこには小柄な老婦人が立っていた。七十代後半だろうか。きちんとした身なりで、銀色に染まった髪をまとめている。その表情には穏やかさと同時に、何か心配事を抱えているような影が見えた。
「あの、黄昏堂さんですよね?」
老婦人は少し遠慮がちに声をかけた。
「はい、そうです。どうぞお入りください」
蒼太は丁寧に応え、老婦人を店内に案内した。彼女は少し腰が曲がっていて、ゆっくりと歩いていた。その手には、小さな紙袋が握られていた。
「お茶をお出ししましょうか?」
「ありがとう、でも大丈夫よ」
老婦人は椅子に座ると、少し緊張した様子で紙袋から何かを取り出した。それは古びた木製の写真立てで、中には黄ばんだ白黒写真が収められていた。
「私、木村千代と申します。この度、老人ホームへの入居が決まりまして、家の整理をしていたんです」
彼女は写真立てを大切そうに手に持ち、続けた。
「そしたら、この写真立てが出てきたのですが…この中の写真が誰なのか、どうしても思い出せないんです」
蒼太は静かに頷いた。千代さんが差し出した写真立てを、そっと受け取る。
写真立ては素朴なデザインながらも、丁寧に作られたものだった。長年の使用で木目は色濃く変色し、いくつかの傷も見られたが、大切に扱われてきたことが伝わってくる。中の写真は、若い女性のもので、戦後間もない頃のものだろうか。モノクロの写真は経年劣化で少し色褪せていたが、真っ直ぐなまなざしで前を見つめる女性の姿が写っていた。
「この方ですね」
蒼太は写真を見つめながら言った。
「はい。見ていると、胸が苦しくなるような、懐かしいような…でも、誰なのか思い出せなくて」
千代さんの声には、焦りと共に深い悲しみが混じっていた。
「捨てるに捨てられなくて…でも、このままだと老人ホームに持っていくかどうか決められなくて」
千代さんは少し恥ずかしそうに笑った。
「年寄りの取り越し苦労かもしれないですけどね。最近、物忘れが多くなって…認知症の初期かもしれないって、先生にも言われてるんです」
蒼太は彼女の不安を理解したように、ゆっくりと頷いた。
「では、少し調べてみましょう。他に何か、この写真に関連するものはありますか?古いアルバムとか、手紙とか…」
千代さんは少し考え込み、それから頷いた。
「アルバムなら、いくつかあります。あと、古い手帳も」
「もしよろしければ、お宅まで伺って一緒に見せていただけますか?」
千代さんは少し驚いたような表情を見せたが、すぐに安堵の表情に変わった。
「本当ですか? ありがとうございます。でも、散らかっていて、お恥ずかしいですけど…」
「大丈夫です。お役に立てれば」
柱時計がちょうど三時を告げた。チーンという音色が、静かな店内に響く。
「では、今日の夕方でも大丈夫ですか?」
---
千代さんの家は、黄昏堂から徒歩十分ほどの住宅街にあった。小さな一軒家で、小ぎれいに手入れされた庭には、季節の草花が植えられていた。
「どうぞ、お入りください」
彼女は蒼太を家に招き入れた。リビングには温かみのある古い家具が置かれ、壁には数枚の写真が飾られていた。家族写真のようだが、全て比較的新しいもので、黄昏堂で見せられた古い写真の女性は見当たらなかった。
「お茶をいれますね」
「ありがとうございます」
千代さんがキッチンに立つ間、蒼太は部屋を見回した。七十年以上の人生を物語る品々が、整然と収められている。彼女は几帳面な人なのだろう。
「アルバムは、この箱にまとめてあります」
千代さんはお茶を持って戻ると、棚から古びた木箱を取り出した。中には数冊のアルバムと、黄ばんだ封筒の束が入っていた。
「整理しようと思っていたのですが、なかなか手がつけられなくて…」
二人はゆっくりとアルバムを開き始めた。最初のページには、戦後の混乱期を思わせる白黒写真が並んでいた。貧しいながらも懸命に生きる人々の姿。その中に、黄昏堂で見せられた写真の女性と思われる人物がいくつか写っていた。
「この方ですね」
蒼太が写真を指さすと、千代さんは少し目を細めて覗き込んだ。
「そうね…どこかで見たような…でも、誰だったかしら」
彼女の表情には、懸命に記憶を探る苦悩が見えた。アルバムをめくる手が少し震えている。
「ゆっくりでいいですよ」
蒼太は優しく声をかけた。彼自身も、忘れたくても忘れられない記憶と、思い出したくても思い出せない記憶の間で揺れ動く気持ちを知っていた。
「昔のお友達かもしれませんね」
「そうかもしれないわ…でも、単なる友達じゃない気がするの。もっと…大切な人のような…」
アルバムをさらにめくると、別の写真に同じ女性が写っていた。そしてその写真の裏には、かすれた文字で何か書かれていた。
「『悦子姉さんと、女学校卒業記念』…」
蒼太が読み上げると、千代さんの表情が変わった。
「悦子姉さん…?」
彼女の目が大きく見開かれた。何かを思い出そうとするように、眉を寄せている。
「姉さん…私に姉がいたような…」
彼女は困惑したように頭を振った。
「でも、一人っ子だったはずよ…違うかしら…」
「お姉さんだったら、もう一度よく見てみましょう」
蒼太は別のアルバムも開き、探し始めた。時折、柱時計を見やる。もう五時を過ぎていた。窓の外は徐々に夕暮れの色に染まり始めていた。
三冊目のアルバムで、新たな発見があった。「悦子姉さん」と書かれた別の写真の裏には、日付まで記されていた。「1947年、春」
「戦後すぐの頃ですね」
「そうね…戦争が終わって、混乱していた時代だわ…」
千代さんの目が遠くを見るように曇った。
「私、幼い頃に両親を亡くしたの…戦争で…」
彼女の言葉に、蒼太は心を打たれた。彼自身も両親を亡くしているからこそ、その痛みが分かる。
「そうだったんですね」
「ええ…でも、詳しくは覚えていないの。小さかったから…」
千代さんは懸命に記憶を手繰り寄せているようだった。その表情には、過去の断片を必死に組み立てようとする強い意志が見えた。
しばらく二人でアルバムを見ていると、蒼太の目に留まった古い封筒があった。そこには「千代へ」と、繊細な筆跡で書かれていた。
「これは…?」
彼が封筒を手に取ると、千代さんは眉を寄せた。
「見たことがないわ…でも、私宛なのね」
封筒の中には、黄ばんだ便箋に書かれた手紙が入っていた。蒼太はそれを千代さんに渡した。彼女はしばらく迷った後、手紙を広げ、声に出して読み始めた。
「千代へ。私が今、この手紙を書いているのは…」
彼女の声が次第に震え始めた。
「…もしかしたら、もうすぐここを離れなければならないかもしれないからです。結核が進んでしまって…」
千代さんは言葉を詰まらせた。その手が大きく震えている。
「千代、あなたはもうすぐ就職するね。私が鍛えた料理の腕を活かして、素敵なお店で働けることを嬉しく思います。両親を亡くしてから、あなたを育てるのは大変だったけれど、一度も後悔したことはありません…」
涙が千代さんの頬を伝い始めた。蒼太は黙って、彼女が続けるのを待った。
「…私がいなくなっても、自分の人生を精一杯生きてください。それが私の望みです。」
「悦子姉より」
読み終えた千代さんは、しばらく動かなかった。ただ、手紙を両手で握りしめていた。その顔には、混乱と衝撃、そして徐々に広がる理解の表情が浮かんでいた。
「悦子姉さん…」
彼女の口から、かすれた声で名前が漏れた。
「思い出したわ…私の姉…私を育ててくれた姉…」
千代さんの目から、止めどなく涙が溢れ出した。それはただの悲しみの涙ではなく、長い間忘れていた大切な記憶が蘇った時の、複雑な感情の涙だった。
「両親が戦争で亡くなった後、姉さんが私を育ててくれたの。十歳も年の離れた姉さんが…」
彼女は震える手で、アルバムの中の写真を再び見つめた。そこには確かに、姉妹の絆が写し出されていた。
「姉さんは結核で…私が就職する直前に…」
千代さんは言葉を詰まらせた。
「ごめんなさい、姉さん…私、あなたのことまで忘れそうになって…」
蒼太は静かに立ち上がり、窓辺に歩み寄った。千代さんにとって、これは非常に個人的な瞬間だ。彼は、彼女が自分の感情と向き合う時間を作りたかった。
外は完全に夕暮れとなり、街灯が一つずつ灯り始めていた。時間の流れは誰にでも平等だが、記憶の流れは時に乱れ、時に止まり、時に失われることもある。しかし、本当に大切なものは、心の奥底のどこかに残り続けるのかもしれない。
蒼太は振り返り、千代さんを見た。彼女は少し落ち着いた様子で、写真立ての中の写真—悦子さんの写真—を静かに見つめていた。
「写真が色褪せていますね」
蒼太は優しく声をかけた。
「デジタルで修復するサービスがあります。もしよろしければ…」
千代さんは驚いたように顔を上げた。
「写真を、綺麗にできるの?」
「はい。元の鮮明さを取り戻すことができます」
千代さんの表情が明るくなった。まるで希望の光が差したかのように。
「お願いできますか?」
---
一週間後、蒼太は修復された写真を持って、再び千代さんの家を訪れた。彼女は玄関先まで出迎え、期待と不安が入り混じった表情を浮かべていた。
「できましたよ」
蒼太は新しい写真立てに入れられた写真を彼女に手渡した。デジタル技術によって色調が補正され、細部まで鮮明になった写真には、若き日の悦子さんの凛とした姿が生き生きと蘇っていた。
千代さんは息を呑み、その写真をじっと見つめた。
「綺麗…まるで昨日撮ったみたい…」
彼女の目に再び涙が浮かんだ。しかし、それは悲しみの涙ではなく、懐かしさと感謝の涙だった。
「ありがとう…姉さん。私、あなたの妹で幸せだったよ…」
彼女は写真に語りかけた後、蒼太に向き直り、深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました。これで安心してホームに行けます」
「お役に立てて良かったです」
彼女は微笑んだ。その表情には、一週間前には見られなかった穏やかさと安らぎがあった。
「あのね、昔の記憶が薄れていくのは、年を取ればみんなそうなのよ。でも、大切な人を忘れるのは…それは違うわ」
千代さんは静かに続けた。
「これからも少しずつ忘れていくのかもしれないけど、この写真を見れば、また思い出せる。姉さんとの思い出は、私の一部なのね」
蒼太は頷いた。人の記憶は完璧ではない。でも、大切なものは心のどこかに残り続ける。そして時に、ふとしたきっかけで鮮やかに蘇ることがある。
帰り際、千代さんはこう言った。
「老人ホームの荷物制限は厳しいのだけれど、これだけは絶対に持っていくわ」
彼女は新しくなった悦子さんの写真立てを、大切そうに胸に抱いていた。
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黄昏堂に戻った蒼太は、店の窓から見える夕焼けの空を眺めていた。柱時計が六時を告げ、チーンという音色が静かに響く。
「記憶は薄れても、想いは残る…」
彼は呟きながら、懐から自分の大切な写真—陽菜との写真—を取り出した。時間が経つほど、記憶の中の陽菜の顔は曖昧になっていく。だからこそ、この写真が大事なのだ。
蒼太はふと思った。千代さんが姉を思い出せた時の表情、あのような表情になれる日が、自分にも来るのだろうか。過去の傷を受け入れ、それでも前に進む強さを持てる日が。
窓の外では、空が橙色から紫へ、そして徐々に深い藍色へと変わっていく。黄昏堂の灯りが、その闇に小さな光を投げかけていた。
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