第7話:消えた指輪

冬の冷たい雨が黄昏堂の窓を叩いていた。


蒼太は店内の棚を整理しながら、柱時計の音だけが響く静かな空間を心地よく感じていた。湿った木の匂いと古書の香りが混ざり合う冬の午後。特に依頼もなく、穏やかな時間が流れていくはずだった。


突然、ドアが勢いよく開き、冷たい風と共に一人の女性が飛び込んできた。


「すみません!開いてますか?」


慌ただしい声に、蒼太は振り返った。そこには二十代後半の女性が立っていた。上品なスーツ姿だが、髪は少し乱れ、息を切らしている。その表情には焦りと不安が入り混じっていた。


「はい、どうぞ」


蒼太の言葉に、女性は安堵の息を吐いた。


「ありがとうございます。斎藤美咲と申します」


彼女は急いで自己紹介をすると、小さなハンドバッグから名刺を取り出した。「斎藤美咲 ウェディングプランナー」と印刷されている。


「実は大変なことになってて...」


美咲は言いよどみ、それから一気に言葉を吐き出した。


「婚約指輪をなくしてしまったんです!」


その声には、純粋な焦りと不安があった。蒼太は静かに頷き、彼女を椅子に案内した。


「いつ頃、なくされたのですか?」


「それが...分からないんです」


美咲は半泣きの表情で言った。


「今朝、出かける準備をしていて気づいたんです。いつもはベッドサイドの小さなトレイに置いているのに、そこにないことに...」


彼女は深く息を吸い、続けた。


「私、結婚式を二週間後に控えていて...彼にはまだ言えていないんです。あんなに大切にしろって言われていたのに...」


彼女は指輪のあった場所を指で示すように、左手の薬指に触れた。そこに光るはずだった印が、今は空虚に見えた。


「喜一くんはすごく几帳面な人で、特に大切なものには本当に慎重なんです。プロポーズの時も、指輪を選ぶのに3ヶ月かけたって言ってたくらいで...」


美咲の表情に、ほんの少し愛おしそうな微笑みが浮かんだ。


「彼、建築設計士なんです。細部まで完璧じゃないと気が済まない性格で。でも、そんな几帳面な彼が、私みたいなおっちょこちょいを選んでくれて...」


その言葉には誇りと共に、自分の不注意を責める気持ちが混ざっていた。


「お相手のかたは?今は?」


「いま出張中で、明後日帰ってくるんです。京都の古建築の調査に行ってて。電話では喜一くん、すごく楽しそうに話してて...それを台無しにしたくなくて...」


蒼太は黙って頷いた。美咲の心配は理解できる。婚約指輪は単なる装飾品ではなく、二人の約束の象徴。それを失くしたということは、象徴的にも現実的にも深刻な問題だろう。


「最近の行動を思い出して、どこで失くした可能性があるか考えてみましょう」


美咲は少し落ち着いた様子で、ここ数日の行動を振り返り始めた。昨日は友人との食事、その前は買い物、週末は祖母が入居している老人ホームへの訪問...


「老人ホームですか?」


蒼太は、話の流れの中で少し引っかかるものを感じた。柱時計の音が、わずかに間を置いたような気がした。


「はい。祖母が先月から入居していて、毎週日曜日に顔を見に行っているんです」


「そこで指輪を外すような機会はありましたか?」


美咲は考え込んだ。


「特には...あ、でも手を洗った時に一度外したかもしれません。祖母の部屋のシンクで」


蒼太はそこに可能性を感じた。


「よろしければ、そのホームに一緒に行ってみませんか?」


---


「睦見(むつみ)苑」という老人ホームは、市の北側の静かな丘の上にあった。近代的な建物だが、周囲には古い木々が残され、穏やかな雰囲気を醸し出している。


玄関でスタッフに事情を説明し、美咲の祖母の部屋へと案内された。斎藤千恵子さん、82歳。部屋番号は305号室。


「おばあちゃん、こんにちは。私よ、美咲」


美咲は優しく声をかけた。千恵子さんはベッドに腰掛け、窓の外を眺めていた。振り返った顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいる。しかし、その目には少し混乱の色も見えた。


「あら、美咲ちゃん。今日は水曜日じゃないのに珍しいわね」


「うん、ちょっと大事なものを探しに来たの。この方は蒼太さんって言って...」


「こんにちは、初めまして」


蒼太が挨拶すると、千恵子さんは少し戸惑ったように首を傾げた。


「あら、あなたは...誰かしら」


美咲は小さく溜息をついた。


「おばあちゃん、さっき言ったでしょ。蒼太さんよ」


「あ、そうだったわね。ごめんなさい、最近物忘れが多くて...」


千恵子さんは照れたように笑った。蒼太は理解を示すように頷いた。軽度の認知症の兆候かもしれない。


「美咲さん、指輪について祖母さんに聞いてみましょうか」


美咲は少し困った表情を見せたが、頷いた。


「おばあちゃん、この前来た時に、キラキラした指輪をしていたの覚えてる?それをどこかで見なかった?」


千恵子さんは首を振った。


「指輪?いいえ、見てないわ。でも、美咲ちゃんはいつも素敵なものをつけているわね」


彼女はそう言いながら、美咲の手を優しく握った。


「あの素敵な青年と結婚するんでしょう?写真を見せてくれた...」


「そうよ、喜一よ。おばあちゃんにも会わせたでしょ、先月」


美咲は少し表情を明るくして言った。


「彼、おばあちゃんのために、この施設の模型まで作ってきてくれたのよ。覚えてない?」


千恵子さんは少し混乱した表情を見せたが、すぐに微笑んだ。


「ああ、そうだったわね。丁寧な人だったわ。しっかりした目をしていたわ」


美咲は少し嬉しそうに頷いた。


諦めかけた時、蒼太は部屋を見回した。コンパクトにまとめられた生活空間。ベッド、小さなテーブル、テレビ、そして窓際には小さな棚。棚の上には写真立てやいくつかの小物が並んでいる。その中に、古びたオルゴール型の小物入れが目に留まった。


「あのオルゴールは?」


美咲が視線を向けると、懐かしそうに微笑んだ。


「ああ、おばあちゃんの大切なもの。若い頃からの宝物なの」


蒼太はそのオルゴールに近づき、千恵子さんに許可を得てから開けてみた。中には古い写真や、乾いた小さな花、そして...


「あ!」


そこには確かに、キラキラと光る指輪があった。プラチナのバンドにダイヤモンドが輝く、美しい婚約指輪。


「私の指輪!」


美咲は驚きと安堵の声を上げた。千恵子さんは少し混乱したように二人を見ていた。


「おばあちゃん、どうしてこれを持ってたの?」


千恵子さんはオルゴールの中の指輪を見て、少し困惑した表情を浮かべた。


「あら...これは確か...私の指輪よ。清一が、戦争に行く前にくれたもの...」


美咲は戸惑いの表情を浮かべ、蒼太と視線を交わした。清一というのは、美咲の祖父の名前。しかし彼は戦争体験はなく、高度経済成長期に千恵子さんと結婚したと聞いていた。


「おばあちゃん、これは私の婚約指輪よ。喜一くんがくれたもの」


千恵子さんは黙ってしばらく指輪を見つめていた。そして、ゆっくりと頷いた。


「そう...そうだったわね。ごめんなさい、私、時々混乱してしまうの」


美咲は静かに指輪を受け取り、千恵子さんの肩に手を置いた。そこには怒りより、祖母を心配する気持ちのほうが大きかった。


廊下に出た二人は、詰所にいた看護師に声をかけ、状況を説明した。


「ああ、斎藤さんですね。彼女は時々、他の方の持ち物を自分のものだと思ってしまうことがあるんです」


看護師の優しい説明に、美咲は安堵の表情を浮かべた。祖母が意図的に指輪を取ったわけではないのだと理解できたからだ。


「認知症の方は、時に過去と現在が混ざり合うことがあります。特に大切な思い出や強い感情が結びついているものに関しては」


看護師の言葉を聞きながら、蒼太は千恵子さんの反応を思い返していた。「清一が、戦争に行く前に」という言葉が引っかかる。何か彼女の中で、婚約指輪が別の記憶と重なり合っているのではないだろうか。


「美咲さん、お祖母さんが言っていた『清一』というのは?」


「祖父の名前よ。でも祖父は戦争には行ってないわ。それに、祖父が祖母にくれた指輪は、確か違うデザインだったはず...」


美咲は自分の指輪を見つめながら、少し考え込んだ。


「おばあちゃんの記憶が混乱しているのかしら...」


帰り道、二人は静かに歩いていた。美咲は指輪を無事に取り戻した安堵と、祖母の状態への心配で複雑な表情をしていた。蒼太もまた、何か引っかかるものを感じていた。


「美咲さん、もし良ければ、お祖母さんの若い頃の話をもう少し聞かせてもらえませんか?」


---


黄昏堂に戻った二人は、蒼太が淹れた温かい紅茶を飲みながら、千恵子さんの若い頃の話をしていた。


「祖母が結婚する前の話はあまり知らないの。でも、祖母と祖父は見合い結婚だったって聞いたわ。二人とも戦後の混乱期を生き抜いて、それから出会ったみたい」


美咲は記憶を手繰り寄せるように話した。祖父の清一は温厚な公務員で、二人の結婚生活は平穏だったと聞いている。特に波乱はなく、美咲の母を育て、そして孫である美咲を可愛がってくれた。


「祖母が戦争中に別の人と婚約していたという話は...聞いたことないわ」


蒼太は柱時計を見つめながら、静かに考えていた。千恵子さんの言葉には、何か真実が混ざっているのかもしれない。記憶が混乱しているとしても、まったくの作り話ではないような気がした。


「お祖母さんの実家に、古いアルバムとか手紙などは残っていないでしょうか?」


美咲は少し考え、それから頷いた。


「あるわ。実家の蔵に、祖母の古い荷物が保管されているはず。でも、もう何十年も誰も開けていないと思うけど...」


---


次の日、美咲は蒼太を彼女の実家に案内した。東京郊外の古い家で、小さな蔵が敷地の隅にあった。埃まみれの箱の中から、ようやく見つけたのは、「千恵子の荷物」と書かれた古い木箱だった。


二人は箱を実家のリビングに運び、おそるおそる開けた。中には千恵子の若い頃の写真、手帳、そして結婚式の写真などが入っていた。美咲の母も同席し、三人で千恵子の過去を紐解いていく。


「これが祖父と祖母の結婚式ね」


美咲は白黒写真を手に取った。1955年の結婚式で、着物姿の千恵子と和服の清一が写っている。二人とも若くて幸せそうだ。


「母さん、祖母が戦争中に婚約していた人がいたって聞いたことある?」


美咲の問いに、母は少し驚いた表情を見せた。


「そういえば...一度だけ、酔った時に言っていたかもしれないわ。でも、詳しくは聞かなかったの」


母の言葉に、蒼太と美咲は顔を見合わせた。やはり何かあったのかもしれない。


箱の中をさらに探っていくと、一番下の層から古い手紙の束と小さな布包みが出てきた。手紙は黄ばんだ用紙に、丁寧な筆致で書かれていた。宛名は「千恵子様」となっており、差出人は「木下誠一」。


「木下...誠一?」


美咲は驚いて手紙を見つめた。祖父の名前は斎藤清一。似ているが、別人だ。


手紙を開くと、そこには戦地から送られた若者の熱い想いが綴られていた。1943年の日付。木下誠一という青年が、故郷で待つ千恵子への思いを切々と書き連ねていた。


「千恵子さん、いつかこの戦が終わったら、必ず帰ります。そして約束通り、あなたを妻に迎えます...」


美咲は言葉を失った。祖母には、彼女の知らない過去があったのだ。


小さな布包みを開けると、中には古い指輪が出てきた。シンプルな銀の指輪で、内側には「誠一・千恵子」と刻まれていた。


「これが...本当の婚約指輪?」


美咲は指輪を見つめながら、祖母の言葉を思い出していた。「清一が、戦争に行く前にくれたもの」。それは清一ではなく、誠一だったのだ。


彼女は自分の婚約指輪を思い出した。喜一が真剣な表情で差し出したあの日。「これはぼくの全部の気持ちだよ。受け取ってくれる?」と囁いた時の、彼の少し震える手。完璧を求める彼が、緊張で少し言葉を詰まらせた姿が愛おしかった。


「木下誠一さんは...戦争で亡くなったのかもしれませんね」


蒼太の静かな言葉に、美咲と母は黙って頷いた。千恵子の初恋の人、最初の婚約者は戦地で命を落とし、それから数年後、彼女は清一と出会い、新たな人生を歩み始めたのだろう。


「だから祖母は...私の指輪を見て...」


美咲は自分の婚約指輪を見つめた。それは現代的なデザインだが、シンプルな銀の指輪と本質的には同じものだ。約束の象徴、未来への誓い。


「祖母の中で、記憶が重なったのね」


---


老人ホームに戻った美咲は、千恵子の部屋をそっと訪れた。蒼太も同行したが、部屋の外で待っていた。


「おばあちゃん、これを見つけたの」


美咲は静かに古い銀の指輪を差し出した。千恵子はしばらくそれを見つめ、そして震える手で受け取った。


「誠一...」


彼女の目に、過去の記憶が蘇ったようだった。


「彼、帰ってこなかったのね」


美咲は静かに頷いた。


「ごめんなさい...私、あなたの指輪を取ってしまって」


「大丈夫よ、おばあちゃん。何も悪くないわ」


美咲は祖母の手を握った。千恵子の目には涙が浮かんでいた。それは悲しみだけではなく、長い間忘れていた、あるいは忘れようとしていた記憶との再会による複雑な感情の表れだった。


「私、清一を愛していたわ。本当に幸せだった。でも...」


「最初の想いも、大切だったのね」


美咲の言葉に、千恵子は静かに頷いた。


「おばあちゃん、これからはこの指輪を手元に置いておいて。そして...」


美咲は自分の婚約指輪を見せた。


「これは私の大切な指輪。喜一がくれたもの。彼、私のためにデザインから関わったんだって。一緒に年を取っていけるようにって」


彼女は優しく微笑んだ。


「あのね、喜一くん、私が寝てる時にこっそり指輪のサイズを測ったって言ってたの。そんなところも、彼らしいなって思って...」


千恵子は小さく笑い、頷いた。


「素敵ね。あなたは幸せね」


「うん、だから、取らないでね」


千恵子は小さく笑い、頷いた。


「わかったわ。あなたのは、あなたの物語。私のは、私の物語」


千恵子は古い銀の指輪をオルゴールの中に大切に仕舞った。それは彼女の人生の一部、忘れていた、でも大切な記憶の証だった。


「それにしても...不思議ね」


千恵子は窓の外を見つめながら言った。


「私も美咲も、大切な人からもらった指輪をなくしかけたなんて」


美咲は微笑んだ。


「でも、二人とも見つかったわ」


「そうね...ただ、誠一は見つからなかったけれど...」


千恵子の言葉には、八十年近い人生の重みがあった。失われたものもあれば、見つけたものもある。そして、二つの指輪は、見つかったり失われたりしながらも、確かにそこにある愛の証だった。


---


黄昏堂に戻った蒼太は、窓辺に立ち、冬の冷たい雨が降る外の景色を眺めていた。


「すべての失くしたものが見つかるわけじゃない」


彼は静かに呟いた。千恵子さんのように、一生見つからないものもある。そして、それでも人は生きていく。新しい幸せを見つけ、前に進む。


蒼太は、今日の出来事を振り返った。美咲が喜一のことを語るときの表情。その目の奥に灯る温かな光。そこには確かな幸せがあった。千恵子が失った「誠一」との記憶も、別の形で彼女の人生を彩っていた。失われたものと、見つけたものが交錯する中で、人は生きていく。


柱時計が六時を告げた。チーンという音色が静かに響く。


蒼太は懐から陽菜の写真を取り出し、静かに見つめた。彼女との過去も、見つけられないものの一つなのかもしれない。それでも、その記憶は彼の中に生き続けている。


外の雨は、いつの間にか小雨へと変わり、街灯の光が水滴の中に揺れていた。

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