団地の子〜サ終世界のローグライク生活〜

灰町宵

序章

第1話 表札のない家

 他人ひとの家の匂いは独特だ。


 子供の頃、友達の家に行くとその不思議な感覚にいつも戸惑っていた。しばらく遊んでいるうちに忘れてしまうが、帰り道、ふとした瞬間さっきまで居た部屋の匂いがしたりする。服や髪に匂いが移っただけなのだろうが、なんとなくまだ近くに友達が居るような気になる。

 その子自身の匂いと、その子の家の匂いはきっと同じ成分のはずだが、後者のほうがずっと強く感じる。家がそこに住んでいる人の匂いになるのではなく、住人のほうが、住んでいる家の匂いになっていってるんじゃないかと思うほどに。

 自分も同じように、自分の家の匂いをさせていたのだろうか。


 ——そんなことをぼんやりと考えながら、わたしは<団地>の一室で冷蔵庫を漁っていた。見知らぬ誰かが週末の昼食用に買いためていた、そんな設定を感じさせる焼きそばの麺やパックの豚肉、人参、キャベツ。すぐに食べられそうなものがない。非常に危険な状態だ。


「そろそろやばいんじゃないですか」

「うん。もう赤ゲージ」

「空腹もですが、言いたかったのはそろそろ<居住者>が顕れるころなんじゃないかってことで」

「わかってる。……どうしてこの家焼きそばと冷凍食品しかないの?」

「調理している暇はありませんよ。麺だけそのままかじってください」

「そんなことしたらよけい情緒にダメージ入っちゃう」


 泣きそうな気持ちになりながら答える。本当に、なんて面倒な仕様なのだろう。

 薄暗いダイニングの散らかったテーブル越しに、水色のミトンがふわふわと浮かんでいるのが目に入った。魚のデザインに見えなくもない毛糸の手袋が、縫い付けられた二つの黒い小さなボタンをこちらに向けて、続ける。


「キャベツはどうですか? 野菜なら生でもいけますよね」

「味噌とビールがあればなんとか……」


 一瞬ミトンが呆れた顔をしてみせた気がした。ゆるキャラを気取っているが、そういうところがあるのだ、こいつは。


「ここはひとまず補給を諦め、食材を持って退散するのがよいのではないか」


 自分の首元で、落ち着き払った声がする。もうひとつの喋る毛糸グッズ、くすんだピンク色のマフラーだ。


「検索してみたが、関連のレシピが230件見つかったぞ」


 口のように見えるニットのほつれが、言葉にあわせてもぞもぞと動いている。

 悠長に調理の手順を聞いている訳にはいかない。意を決し、ホルダーで袈裟がけにしていた端末を操作して、ストレージを開く。外見、背丈も相まって、子どもが親から与えられたスマホを弄っているように見えることだろう。もっとも自分がこれから行おうとしているのは窃盗、犯罪行為だ。健全な子どもの行いではない。ここが現実であればの話だが……。ついでに言えば、中身も子どもではない。


 片手で収納したいものを掴み、もう片方の手で端末を操作すると、ウインドウに表示が現れる。焼きそば生麺。チェックボックスをタップすると、ノイズのようなエフェクトとともに対象が消え、ストレージに入る。とても便利な機能だが、自分で持ち上げていることが条件だ。触れているだけでは収納できない。


 当初は罪悪感のあったこの行為も、繰り返すうち、ゲームにつきものの食糧採集と変わらない、と割り切れるようになってきてしまった。現実に戻ってもこの癖が残っていたら、一発で逮捕だ。しかし、帰還の可能性が万に一つもないことは、自分でよくわかっていた。黙々と作業を進め、冷凍の鶏唐揚げに手を伸ばしたところで、玄関のドアががちゃりと鳴った。

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