第20話 JB8 東中野
JB8 東中野
とある紙の地図では、高尾から一本だった白と黒のJR路線表示が、三鷹駅から二本になる。その二本の白黒線は、三鷹から御茶ノ水まで続く。これを複々線と呼ぶ。
長い歴史のなかで
急行線は中央線快速電車と呼ばれ、オレンジ色の車体にJCで表示される。JCのCは中央線ローマ字の頭文字。
いっぽう、
しかしSは、湘南新宿ラインにとられているのだ。SOUBUのOもUもとられている。だから順番でB。
東中野に中央線快速は停まらない。ついっ、といった調子で素通りしていく中央線の、眼中には入っていないという感さえある。
実際、急行線も緩行線も、並走しているにもかかわらず、お互いわれかんせず、という雰囲気をかもす。本数も多いためか、乗り換え時刻も、とくだん考慮されているというわけでもない。
立川から東中野までの中央線は、地図上でも一目瞭然、東京を東西ほぼ一直線に走行する。直線距離は二十五キロほどで、在来線としては本州で最長、日本全国でも一、二位の北海道路線に続いて、三番目の長さである。
ところが、ちょうど東中野から先で、都心部に入る中央、総武両線は、大きくS字カーブを描く。これには、用地や、交通や、環境に絡む、紆余曲折の歴史がある。
この東中野が、長谷川逸平太が勤務する、中野南部児童相談所の最寄り駅である。
東中野が最寄り駅といっても、中野からの距離も、東中野からに比べてちょっと長いくらいだから、逸平太は総武線を使わずにいつも、中央線の中野駅から徒歩で職場へ向かう。
勤務先の建物は、一階が保健所、二階は子ども家庭支援センターで、三階が児童相談所という複合施設だ。
門を入ると右手に、石塚健太郎が待ち伏せをしていたというヒバ類の植え込みがあり、正面に自動扉。扉を越すとエレベーターがある。その右横に階段。逸平太は階段で三階まであがるのを常としていた。
その日、いつものように三階まであがり、来所者用のソファの横を通り抜けて、「おはようございます」と言いながら所内に入ると、空気の変化を肌で感じた。
母親の四十九日を三日前の日曜日に済ませた、二月の半ばだった。
自分の席は、他の子ども担当職員らの席と、学校給食班のように前と左右に配置されている。緊急班の席のうしろを通った時、座っている職員が少しばかり硬直した気配を、逸平太は身体で感じとった。おかしいなと思いながら自席に着席する直前、女性上司に突然こう告げられた。
「所長のところへ行ってくれない?」
いあわせた周囲の職員たちがいっせいに、逸平太を見上げた。
職員全体から少し離れた、ひとり席に座っているこれも女性の所長を見やると、逸平太と目があった所長はうなづいたあと立ち上がり、彼を室外へ誘導するように、自らが席をあとにした。
子どもの面接などで使う個室のひとつで、テーブルをはさみ、逸平太は所長と向き合って座った。所長はすぐさまこう切り出した。
「長谷川さんね、これからわたしと一緒に、新宿警察署、行ってください」
「…新宿…、警察署、ですか…?」
所長と一緒に? 尋常じゃないな、と逸平太は感じた。
所長は逸平太をまっすぐに見つめたまま、ことばを発しない。少しして、
「シロイシ、レナさん…。んーと。今は里親姓の通称を名乗っているから、ホシ、レナさん…」
と、続けた。その名前を聞いて逸平太は反射的に、「今度はまた、なにをやらかしたんだろう」、と身構えた。逸平太が担当する、通信制の高校に籍をおく女子だった。知的に低く、ひんぱんに、いわゆる「問題行動」を起こしていた。
「引き取りですね」
逸平太がそういうと、所長は、「本人はもうすでに、一時保護所」、と思わぬこたえを返してきた。
「そっちには
席にいなかった福祉司と心理司だった。
所長は一回、視線をテーブルの左端に移したあと、ふたたび逸平太を見つめて、
「わたしとあなたで、新宿署、行かなきゃならないのよ」
と、繰り返した。
いつも背負って通勤するビジネスリュックを取りに、逸平太が自席に戻ると、先ほどの女性上司が、「大変だね」、とねぎらうように声をかけてくれた。
逸平太よりも頭ひとつぶん背の低い所長と肩を並べてエレベーターの前に立つと、開いた扉から、山口さんと、もうひとりの職員が出てきた。出勤だから、所内のただならぬ雰囲気は知らないようで、山口さんは、所長に向かって頭をさげると、逸平太のわきを、空気のように通り過ぎていった。やっぱり山口さんには
「中野署なら目と鼻の先なのにね」
所長はそう言って、逸平太に、どうする? 歩く? と尋ねた。
新宿署は青梅街道をまっすぐ東に向かって歩くだけで、自分ひとりだったら徒歩だっただろうけど、五十代の所長が好んで歩くかどうかわからず、「バスにしましょうか」、と返事をしたのだった。
バスのなかでも、ふたりはほぼ無言だった。そもそもバスが混んでいて、警察沙汰の会話など、できたものではなかったから。
警察署に入り、ふたりが氏名と職業と所属先を告げると、逸平太と所長は別々の部屋に通された。あとから考えると、「あれは、取調室だったのかな」と思えるような、簡素な部屋だった。記録係のような人と、目の前に背広の、三十代後半くらいの男性がいた。
その時のことをかいつまんで言えば、逸平太に「買春の
「相手は、児相の長谷川さんだった、と、白石玲菜さん、通称、星玲菜さんは言ってるんですね」
「…まさか…」
恐ろしかったのに、逸平太は思わず、笑い顔になっていた。だって、まったく身に覚えがなかったから―。
ところが聴取は四時間ちかくに及んだ。所長のほうは二時間弱で済んだらしいが、それから二時間のあいだ別室で、逸平太の聴取が終わるのを待っていたという。
「昨晩、なにをなさってましたか?」
そう、目の前の背広の警察官が逸平太に質問をした。逸平太は落ち着いて、いつも通り、午後八時くらいに児相を退勤して、中央線でまっすぐ帰宅したこと、その記録は所内にあることを伝えた。
「それ以降です。退勤したあと、どちらへ行かれました?」
帰宅したと言っているだろう、と逸平太は思ったが、要は、証拠のことを尋ねているのだと理解し、時系列に説明をした。
二十分ほど歩いてJR中野駅に着き、八時三十分ごろの下り快速に乗車した。
中野から西荻窪までは十分程度なので、八時四十分には西荻窪に到着し、十五分ほど歩いて自宅に着くので、帰りつくのは、予定だったら午後九時前となる。
ただし昨晩は、二十四時間営業の西友の一階で食材を買ったので、家に着いたのは九時半ごろだったのではないかと記憶しているということ。
「証明できる方はいますか?」
父親の帰りはさらに遅かったので、証人はいない。
「西友ではデヴィットカード決済だったので、出てきたレシートは今、持ち合わせていませんが…。家のゴミ箱だと思います。でも、カード記録を調べてもらえばわかりますし、防犯カメラかなにか、そういうものにも映っているはずだと思います」
「そのあと…。九時半以降はなにを…」
ここで逸平太は困ってしまった。帰り着いた自宅には防犯カメラはないし、アリバイ証明のしようがなかった。
ところが警察はそのことについてはそれ以上追及をしてこず、はなしは星玲菜との関係に移った。
「白石玲菜さんと、どういうご関係を持っていらっしゃいますか?」
こう尋ねられたことに、逸平太は絶句してしまった。
どういうご関係、って、管轄児相の措置児童と、その担当福祉司だろう。それ以外に、なんの関係があるというのか。
逸平太がなんどこう説明しても、「どういうご関係でしょう」は繰り返された。あげく、逸平太が星玲菜に、なにか特別な感情を抱かせる行為、行動をしていたのではないか、逸平太が星玲菜に売春をそそのかしたのではないか、というニュアンスを含んだ問答がなされた。
逸平太には答えようがなかった。
万が一、星玲菜が逸平太に特別な感情を抱いていたとしても、自分は星玲菜と関係を持ったことなどないし、潔白である。
逸平太は自分自身が混乱しはじめていることを悟る。どのような嫌疑に焦点が当たっているのだろうか。「児相の長谷川」という玲菜の証言に、端を発していることは間違いない。
自分が昨日、新宿界隈には足を向けておらず、なおかつ、星玲菜をそそのかしてもいない証明―。
気持ちわりぃ。
酸っぱいものがこみあげてきた。
なんなんだ、あのガキ。ふざけんじゃねえ。こっちが好意を抱いてくれと頼んだわけでもあるまいし。
生理的嫌悪感―。
ところが、ここまで考えて、逸平太はハッと我にかえる。
いや。あったかも―。
山口真由香が、阿佐ヶ谷の児童養護施設で放ったことばがよみがえる。
それを逸平太は、自分ごととして置き換えてみた。
―子どもたちには嫌われないよう、それこそ、嫌われたくない一心で、なんでも聞くよ、なんでも話して、って、理解のある福祉司、気取ってたかも―。
山口さんと、おなじ。理解なんかできないのに、理解できるフリ。職業柄、そうできるように努めなければならない自分。
おいっ。目の前の、刑事さんよ。バケツか洗面器、持ってきてください。おれ、マジ、ゲロはきそう。
星玲菜が新宿界隈で「立ちんぼ」をして、男と関係を持ったあと、警察に補導された時刻は、午後九時半だった。
ホテルの防犯カメラには、逸平太とは別の男性が映っていたという。
それでもあの日、警察署で逸平太は自身の写真を何枚か撮られた。その写真に関しては、児相を担当する弁護士を通して、削除の要請を行った。
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