第21話 JB9 大久保

   JB9  大久保


 逸平太はあらためて、星玲菜、本名、白石玲菜にかんする資料を読みかえしてみる。

 彼が以前の担当から彼女を引き継いだのは三年前である。元の担当は夫の転勤に伴い、児相を退職し、仙台に移り住んでいる。


 白石玲菜は現在、通信制の高校に籍をおく十六歳である。

 児相から、大田区に在住する里親宅に預けられたのは、彼女が三歳のときである。原因は両親の自殺だった。縊死いしであり、幼い彼女はそれを目撃していた。

 彼女の場合、養子縁組でもよいケースに思えたが、IQがボーダーの七十五だったため、縁組に手をあげたようしん候補者がいなかったようだ。

 今現在、彼女を養育しているのは、実子のいない六十代の夫婦である。

 里親は、小、中学校とも普通級にこだわったため、彼女が学習についていくのはやっとだったようだ。成績はつねに低迷し、中学二年生あたりから徐々に、いわゆる「問題」といわれる行動を起こしだす。

 もっとも騒ぎになった事案は二件ある。どちらも逸平太が処理にあたった。

 一件目は、中学の第三学年時で、逸平太が担当を引き継いだ直後だった。里親宅の自室で、大田区対岸の川崎市に住む高校生と性行為をしていたところを、帰宅した里母に見つかり、騒ぎになったこと。

 二件目も、これも性行為にまつわる事案で、一件目よりもさらに深刻だった。こちらも川崎で見知らぬ男性と行為に及び、中絶までしなければならない事態となったのだ。通信制高校第一学年のときだった。

 実のところ、ここまで性に執着することじたい、逸平太にはほとんど理解ができない。同じようなケースはいくつもあるが、漠然と、依存せざるを得ない理由があるんだろうなあ、と思うにとどまるのである。

 どちらの場合も、児童相談所で心理面接をかさね、ときには東京都の治療指導課におもむき、療育的なプログラムにも参加させた。

 だけれど彼女は、同じことを繰り返す。

 環境が悪いのかと思う時もあったが、養親たちはいたって常識的な、おだやかな人たちだった。普通級にこだわったのも、実子のように、子の将来を案じていたためと理解できた。ただ、支援級での手厚い指導のもと、居場所づくりができていたら、と、悔やまれた部分はあった。

 玲菜自身、「この家から出されたら死んでやる」、とつねづね宣言するのだ。それも依存の一種かとも思うが、養親の、困惑した表情を見るにつけ、どうにかならないものかと、逸平太はいくども頭をひねった。


 星玲菜に面会をした功刀さんと原田さんによると、なぜ、逸平太の名前を出したかについては、

「それを覚えていたから」

と、拍子抜けするくらいあっさり、答えたということだった。

 それが、重大な冤罪えんざいを引き起こすとか、そんなことにはもちろん、考えが及ばないようだ。

「どうします? 担当の長谷川くん、面接させます?」

「いや~、まずいでしょ。当面、功刀さん、原田さんで対応にあたってもらって」

 上司たちがそう話すので逸平太はムキになって、

「ぼく、行きますよ」

と、言い張る。

「なに言ってんの。相手、ハレーション起こすでしょ」

 それはわかっているが、と逸平太は思う。

「長谷川くん、怒ってない?」

 これを怒らない人、どこにいるんですか? そう逸平太は口に出したいのだが、それでは福祉司として、経験値が低いととられても致し方なくなってしまう。

うたがってる人、所内にいたんじゃない? とか、思ってない?」

 おばちゃんたちは鋭い、以外のなにものでもなかった。

「いいよねえ。若くてかっこいい男の子は」

「それが武器なのは、今のうちだよぉ」

「いやいや。もろはのつるぎ、ってやつでしょ。気をつけなきゃ、ねえ」

 そんな会話から二週間ほどたって、一時保護所で逸平太は、担当福祉司として、星玲菜に面接を行ったのだった。


 東京都の一時保護所は数ヶ所あって、所在地はおおやけにはされていない。

 そのうちの一ヶ所は、今では観光客でごった返すコリアンタウンがある大久保駅が最寄りである。

 のんびりとした事案であれば、多国籍な地域と化した大久保通りのガチ中華で昼メシ、なんてのもいいけれど、今日はそうはいかない、と、もうひとりの男性福祉司と早足で、一時保護所に向かう。

「保護所っていうとさ、世間一般ではすっごい暗いイメージだけど、ここの、そんなことないんだよね」

「あ、はい。そうですね」

 年長の福祉司に向かって、逸平太はていねいな返事をする。

「自分も驚きました。設備が整ってて。楽器類とか、図画工作の道具とか」

「とりあえずは外出が許可されていないから、室内運動場もあるもんなぁ。さすが東京都だなぁ」

 星玲菜が二週間も保護所にとどめ置かれているのは、里親が、引き取りを拒否しかかっているからだった。

 彼女は里親家庭から、かなりの額のお金を持ち出していた。


 二重か、場所によっては三重くらいになっている保護所の扉の奥には、明るい空間が広がっていた。ふたりを迎え入れた職員は、その足で居室に行って、面接室に玲菜とともに戻ってきた。玲菜は、支給された明るい色の上下のジャージを着用していた。

「こんにちは。どう?」

 年長の福祉司が、調子を尋ねる。

「あ、はい」

「こんにちは。わたしのこと、覚えてる?」

 逸平太も、平常心で挨拶をする。玲菜はさきほどと同じように、「あ、はい」と返事をした。

 問題を起こしている最中は、薄汚れたネズミのように見えるのだが、安心して生活できる場所では、つるっとしたきれいな肌になるもんだな、と、テーブルをはさんだ斜め前から、逸平太は玲菜を観察する。

「んーと、今日はね、星さんのね、これからのことを相談しようと思ってね」

 年長福祉司は、それとなく切り出した。

「推し、さんに、かなり使っちゃったね」

「あ、うん」

 推し、ということばに、玲菜は笑顔になった。状況にそぐわない表情に、ああ、わかっていないな、と逸平太は思う。

 悪質、ともいえるメンズ地下アイドルだった。おそらく、悪質を通り越して、犯罪の域であると思われた。まともな地下アイドルの世界に紛れる悪質業者に、玲菜のような子は、いともたやすく引っかかった。

 新宿駅東口で声をかけられて、地下のステージへ連れていかれ、まるでお姫さまであるかのように扱われて、からめとられた。

 三分トークに十万円。握手に二十万円。インスタントカメラ撮影に五十万円。ひざ上抱っこに百万円。

 里親宅から持ち出した。現金と、貴金属。

 足りない分を、新宿で立ちんぼをして稼いだ。


 どんなに言い含めても、星玲菜は、同じ行動を繰り返すね、というのが、児相のおおかたの見立てである。

 養親側で金銭管理はできるだろう。しかし、閉じ込めておくわけにもいかず、行動管理には限界があると思われた。養親らが再び玲菜を、家に迎え入れたくない理由であろう。そう逸平太は理解した。

 自分が同じ立場だったら、やっぱり、無理だ。

 この先、十年も、二十年も、手をかえ品をかえして、彼女のような子どもたちが、這いあがれない沼に陥っていくのを、なんとか止めながら支え続けていかなければならないなんて、自分には、無理。

 玲菜は、里親家庭に戻りたい、と言った。

「でもねえ…」

と、年長福祉司はさとす。

「玲菜さんがねえ、今回のようなことをすると、おかあさんも、おとうさんも、困っちゃうんだって」

 小学生に言って聞かせるような調子だった。

 実際のところ、彼女を引き継いで受け入れる児童養護施設を探すことも、困難を極めるだろうと思われた。


 疲れた。保護所を出た逸平太は背を丸めた。

 彼女、欲しい―。

 前を歩く年長福祉司の背を見送りながら逸平太は、価値観が似たような、一緒にいるとホッとする彼女が欲しい、と、つんのめるような姿勢で思った。

 お前そうやって、自分が理解できない相手と対峙することを避けているんだろう、児童福祉司のくせに、と言われるのだったら、もう、児相の仕事辞めてもいいや、と思った。

 自分がホッとすることも許されないのなら、勝手にしろ、と思った。勝手に沈没してろ、この国―、と。

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