第2話 JC23 西八王子
JC23 西八王子
やっぱ、入れ歯にするわ。ブリッジ。
父はそう言った。
あ? それなら三交代制の貴重な休みの日、呼び出さないでほしい。孫はお小遣いで釣ってさ。ちょっとは顔見せろって、素直に言えばいいのに。インプラントにしたいから駅前の歯医者まで付き添えって。おかあさんに一緒に行ってもらいなさい、おかあさんに!
二〇××年、クリスマスイヴ、半年前の夏だった。安田えりなは、ぷんぷんしながら炎天下を歩く。
でも、ぷんぷんできるのは今のうちだともわかっている。父親が古希を少し過ぎた七十代前半だから、安心してそんなことが言える。
ぷんぷんしついでにえりなは、できればかかわりたくもないが、
「先月、今月と、養育費の支払い、滞ってるよ!」
ひとことでは済まない気分だったので、「さっさと払って!」と付け加えた。キツく言っても怒らない元夫だ。未練たらたらのメールがないだけましだが、いかんせん、稼ぎが少ない。
離婚の原因は、一にも二にも稼ぎだった。夢追い人。笑っちゃうわよぉ。四十過ぎて居酒屋の雇われ店長、兼バンドマン。
「一発さ、一発ヒットが出れば、もう、印税だけで毎月二百万円くらいが自動的に振り込まれてくるわけよ」
いったい誰に吹き込まれたんだか、そんな絵空事。えりなは歯ぎしりしたくなる。それを聞かされたのは二十年以上前で、あれからさらに二十年近く。線香花火さえ、あがりゃしなかった。
「線香花火、あげるもんじゃないか。それにしても……」
娘との半年に一度の面会、それと養育費月六万円。そういう公正証書を作成している。あたしは守ってるよ、仕方なく、その約束。おまえも守れーっ。そう心の中で叫んでいるえりなの、ひたいからもわきからも、汗がビタビタとしたたりはじめる。
実家から直線距離にして約一・五キロ強の、JR西八王子駅にたどり着いたえりなは、駅南口に向かってインプラント歯科医院を背にした。昭和四十年代に大規模造成された実家のある地区は、今では高齢化率が四割にものぼる。そんな土地にインプラント歯科って、目のつけどころ違う。
西八王子って何があるの、と聞かれたらえりなは、「インプラント専門の歯科医院です」、と答えている。ああ、あれ、とみんなが笑う。東京のあちこちに、そこの院長の顔写真が大きくプリントされた屋外看板がお目見えして十数年たつ。名所だよ、すでに。
「稼ぎが大きいって、いいな」
思わずひとりごとが出た。自分の稼ぎも悪いほうじゃない。看護師だから。でも、娘と夫を背負うのは足腰に来る。正直、しんどい。
駅入り口に向かって歩き出そうとしたえりなの携帯に、メッセージの通知音が鳴る。
「ごめんなさい。今、お金ない」
「ないってどういうこと」
えりなは元夫に素早く返信をする。
「ないは、ない。キャッシュカード会社からの催促のはがきに続いて、弁護士事務所からの封書も来た」
バカか?
「働いてんの?」
「働いてますけど、お金がない」
「支払わないと、こっちも弁護士たてるからね」
「わかりました」
そういって連絡は途絶えた。
こんなやつが、こんなやつが、娘の父親だなんて。やっぱあの時、とえりなは思ってハッとした。
その時、背後でバタバタという足音がした。殺気を感じて振り返ると、娘のここなと友人であるのっちゃんが、えりなに突進してくるところであった。
闘牛士のように身体を斜めにしてよけようかと思ったが、ふたりはえりなの前で急停止をした。
「おかあさん、遅い。もうとっくに電車乗ったかと思った」
「こんにちは」
ちょっと息を弾ませて、のっちゃんがえりなに挨拶をする。
「一緒に乗る?」
「あ、いい。あたしたち、歩く」
「ひゃっ? こんな炎天下?」
スタジオの予約時間までまだ一時間以上もあるので、アイス食べながら行きます。そうのっちゃんが答えた。
娘のここなとのっちゃんは、高校の同級生だ。祖父母の住んでいる同じ大規模住宅地にのっちゃんは、おなじく祖父母と両親の、三世代で住んでいる。入学まもない時期、同じ部活動をはじめた彼女たちは、この住宅地を介して、おおいに意気投合したらしい。
いっぽう、離婚前、えりなとここなは家族で豊島区に暮らしていた。えりなと夫の離婚後、ふたりは三鷹市に移った。三鷹は、えりなの勤務先にもここなの高校にも近かった。
炎天下、元気にかけ去っていく女子高校生ふたりを見送りながら、えりなは、
「おまえが死んだとしても、ここなのために、養育費だけは払えよ」
と、元夫に対して心の中で毒づいた。
「おじいちゃん、インプラントするの?」
「しないってさ。要は、あたしたちに会いたいだけなの」
なあんだ、と応えながらのっちゃんがアイスを吸いだした。カプチーノ味だ。あたしもそっち、つまり「吸う系」にすればよかったかな、と思いながらここなは、チョコがコーティングされた棒アイスの下半分を、外側の袋で覆いつつ右手に持ち、先端をかじる。
「あ、ねえ。どっち歩く? 南側だよね」
「おおっ。選択肢、あったんだ! どう見たって南側。日陰、多いもん」
八王子駅へと続く線路の両側に側道が伸びる。進行方向左側は、線路と道路をへだてる柵の、細い影しかない炎天下だが、右側は、戸建てや集合住宅がつくる、面積の大きい日影が続いている。
電車、眺めたよ。
ここなは、陽炎がゆらゆら揺れる側道の先から、線路に視線を移した。
おじいちゃんに連れられて、この、線路沿いの道路から、行きかう電車を眺めては喜んでいたちっちゃいころは、幸せだったな。まわりの大人は、たいていはなんでも要求に応えてくれたし。今日みたいな日だって、アイス食べたいって言ったらおじいちゃん、困ったようにあたしをなだめすかしながら、おんぶして八王子駅までの道すがら、アイスを探してくれただろうし。
過ぎ去ったわ。周りにちやほやされてた絶頂期、終わった。ま、それはそれで、一歩自由に近づいたってことかな。
だから、と、ここなは考える。自分に起こるさまざまな事柄の責任は、自分でとらなくちゃいけなくなるんだろうな。
食べ終わったアイスの棒を袋に滑り込ませ、口を折りたたんで、肩掛けカバンの中へ入れた。
「のっちゃん……」
「なに」
「ちゅう、したことある?」
のっちゃんはアイスを、ブーッ、と吸った。
「……ちゅう、って、なに?」
えと、とここなは一瞬考えて、くちびるをすぼめ、顔をのっちゃんのほうへ向けた。
「あ。あ。その、ちゅう、ね」
のっちゃんは、ちょっと照れたように笑った。
「ない」
少し怒ったような顔で、のっちゃんは答えた。
「ここなは、あんの?」
「ない」
なあんだ、とのっちゃんの怒ったような顔が笑顔に変わりかけた時、まずいかな、と思いつつも、我慢できずにここなは、ことばをつないだ。
「でも、されそうになった」
うっ、とのっちゃんは少し詰まったような顔をした。
「だれにぃ」
「YOSSU(ヨッス)」
ふたりとも、押し黙ってしまった。
カタン、カタンという小さな音が響きはじめ、それが次第に大きくなり、ガタンゴトン、シャーッ、シャーッ、ガタンゴトン、シャーッ、シャーッ、ガタンゴトーン、となったあと、タタンタタン、といって、音は遠ざかっていった。同時に熱風が、くるくるとまわりながら、ふたりをなでて通り過ぎた。
「どう思う?」
「どう思うって……」
あたし、わからないよ、とのっちゃんは動揺したように言った。あたしそういうこと、ぜんぜんわからないよ。のっちゃんは、短い髪を揺らして、ちょっと悲しそうに言った。
「キモいって思ったんだよ」
「き、キモい? でもYOSSUでしょ。YOSSUの彼女になったら、けっこう鼻たかだか、なんじゃないの?」
そうかな、と、ここなはとりあえず「客観的」に考えてみようとした。鼻たかだか? ちゅうされそうになって、鼻たかだか……。 それとものっちゃんにはそうとられてしまった? 相談したかっただけなんだよ。のっちゃんは信用できる。のっちゃんだから。でも、やっぱりまずいことだったのだろうか、と、ここなの頭のなかが混乱しはじめた時だった。ぴょりん、と、白いバルーンパンツのポケットにねじ込んでいた携帯が鳴った。
表示された相手を見て、ここなはちょっと困惑したのかもしれない。のっちゃんがその気配を察し、だれ? と尋ねてきた。
言うべきか迷った。でも、YOSSUからだとカン違いされても困る。だから致し方なく、ここなは答えた。
「花いけメンズ」
「うそっ!」
どれどれ、どの子? とのっちゃんがここなの携帯をのぞこうとするから、ここなはちょっと身体をそらして、
「佐藤大地だよ」
と相手の名を正直に告げた。
「名前じゃ、わからん」
のっちゃんが首をかしげるので、一番背が高かった子、とここなは答えながらメッセージに視線を移す。
「ヒマ?」
ウザいな。今そんなこと聞くなよ。のっちゃんが顔をそむけたのでここなは慌てて、「ヒマ? だってさ」と弁解めいたせりふをつぶやきながら、
「今のっちゃんと 八王子歩いてるから いそがしい」
と、返信を打つ。
「八王子じゃだめだ とお」
そこで通信は途絶えた。タイミング悪いんだよ、こいつ。握りしめていると汗まみれになりそうで、ここなは携帯を再度ポケットにねじ込んだ。
「まだ連絡とりあってたんだ」
のっちゃんは引き気味に言った。言い訳をするとなおさら厄介なことになりそうで、ここなは押し黙った。
「ここなって……」
のっちゃんが口を開く。
「モテる?」
ここなはのっちゃんを見た。じっと見た。恐怖だった。のっちゃんがもし、嫉妬でもしていたら。
「
ここなの本音が、意図せず口から出た。
「あたし、おとうさんの
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