JR東日本中央線各駅停車出発進恋
珠野 休日
第1話 JC24 高尾
JR東日本をご利用くださいまして、ありがとうございます。この電車は中央線、各駅停車、東京行きです。
実際の中央線は、各駅には停車いたしませんので、お乗り間違いのないよう、ご注意ください。
JC24 高尾
「うっ、うっ……」
「お、親父……」
「うっ、うっ、うっ、お、おえっ……」
「お、おやじ、もうやめて……。駅員さん来る!」
「ママぁ、見て。あの変なおじさん。天狗の鼻につかまって泣いてる!」
おれも、まだそんなに長くは生きていないけど、人生二十七年間ではじめて、天狗の鼻にすがって泣いている人、見た。それが自分の父親だなんて。
「子宝てんぐでもあるまいし。なんだよ、この巨大さ」
なんだよーっ。この、男根! 男根! 男根!、のような、鼻っ。
幽体離脱して自分自身をながめたなら、駅前でがなっている選挙演説中の候補者像に見えるかも。そう思ったら逸平太は、なんだかよけいに力が抜けた。
JR中央線高尾駅の、四番ホームに到着した列車から降りてくる乗客はまばらで、今日は土曜日だけれど、始発駅ってこんなもんか、と、逸平太はもう一度、あたりをきょろきょろとながめまわす。怪訝そうに通り過ぎる人はいるものの、天狗の鼻につかまって泣いている中年男を撮影する
「ねえ、おとうさん……」
おとうさん、と呼ばれた男は、鼻をスンスンすすっている。
八王子駅から、ぐっと少なくなった乗客を運ぶ客車の中で、すでに父親はナーバスになりはじめていたのだ。
なにを思い出していたんだろう。
初めてのデートが高尾だった、なんてことではないだろうな。
でも、深ぼりすれば父親は号泣することにもなりかねなさそうで、逸平太はしばらく黙って、男根、もとい、天狗の鼻にすがってすすり泣く父親を見守っていた。
うっく、うっく、と嗚咽がしゃっくりにかわったころを見はからって、逸平太は父親の、ジャケットのひじの部分を引っ張った。
あ、シーズンオフだからか。
父の服装から逸平太は、乗降客の少ない理由に思い当たった。花も咲いていなければ、新緑でも
ミシュラン認定の高尾山行きなら、
じゃあ、JR高尾駅を利用する乗客って、どこへ行くんだろう。
みんな、天狗さがしか? どこか別の、おれの知らないパワースポットとか。それとも墓か? うちとおんなじに? それはないわな?
逸平太は考え考えしながら、父親の腕を抱え、
モバイルスイカを使ってふたりが出た北口改札の前には、タクシーも止まるが、どこか、東京ではないような、かといって地方の温泉地などとも違う、独特の、不思議な駅前ロータリーが広がっていた。
「あ。そうだ。ここにも花は、売ってるんだった」
泣きやんで我をとり戻した感のある父、
「今度来るときは、こっちで買えばいいのか」
急に、合理的なサラリーマン仕様に戻った父親に多少しらけつつ、逸平太は、おれもああやって泣いてみたい、と思った。
親父は、すごい。あんなふうに、ときには人目もはばからず、おふくろを想っておんおん泣けるの、なんだかな、尊敬する、っていうか?
はたから見てると、気が違っているんじゃないかと思うけど、親父、自分の気持ちに整理がついてないこと、ちゃんと表現してる。
おれだって、泣きたいよ。逸平太はこっそりと思ってみる。
でも、おふくろが冷たくなって我が家に戻って来たとき、温暖化は人間活動に由来しているというのに、彼女の
なんだ、この夫婦、と思った。気持ちわる。仲良すぎ。
見てみろよ。世の中さ、仲いい夫婦ばっかりじゃないんだよ。おれの業務圏内、崩れた夫婦関係ばっか。
だから、召されちゃうんじゃない? 天に。そんなに仲がいいなら、どぉれ、いっちょ、不幸のどん底にたたき落としてやろうか、って。
そう考えて、身内にまで
「歩いてみようか」
「ああっ? 歩くの?」
「うん。そんなに遠くないんじゃないかと思うんだ。いつもはさ、ほら、おばあちゃんとおじいちゃん乗っけて車で来ちゃうから、素通りしちゃうけど」
ええっ、と逸平太が迷っている間にも父親は、車の行きかう甲州街道方向へ、歩き出している。
「何分かかるの?」
「知らないよ」
「調べろよっ」
「面倒だから、調べない。すぐ近くだよ」
父は、白い半紙でくるまれた仏花を水平にして、
「ここ、秋は
と、八王子方面へまっすぐに延びるいちょう並木を指した。
小川を越し、カーブを曲がった先には、どうやらずっとゆるい上り坂が続いているようだ。途中で父が、
「おっ。森林研究所だ。ここへは来たことがあるぞ」
なんて、誰も聞いていないのに、大きな声で言っているから、しかたなく逸平太が、
「誰と来たの? おふくろ?」
と尋ねたら、
「じいちゃん」
という、なんだか色気のかけらもないような答えが返ってきた。
「親父がまだシャキシャキ歩いてた頃に、ふたりしてさくら見に来た。すごいアップダウンでさ。でも良かったよぉ、若いころに見に来ておいて」
そうか。年をとると、見に来られない桜なのか。自分には見に来られるチャンスがあるのだろうか。逸平太にはそれさえ確たる自信がない。
「なんだかおなか、すかないか?」
時刻を確かめると午前十一時半だった。
「絶対ないね。食べるとこ」
「おまえ無計画だな。なんで駅前で、済ませること考えないんだよ」
いやややや、あなたがそれ言うことじゃないでしょうと、逸平太は心のなかで憤慨していた。ところがあったのだ。一軒だけ。左手に寺院を越した先の、交差点東南側に、民家とも見まちがえる飲食店が、「営業中」の看板を掲げていた。
「ラーメン屋? それとも定食屋?」
「どっちもあるんでね?」
「美味いかな」
「知るかよ」
引き戸を引くと、思ったより新しくこぎれいな店内があらわれた。
カウンターがある。
先客の男性がひとり、そのカウンター席に腰をかけ、壁に貼られたメニューを眺めている。その人も墓参りらしく、菊が顔をのぞかせている花束を、カウンターの上に置いていた。
逸平太たちが、男性のうしろのテーブル席でスタミナ定食を注文すると、カウンターの彼も、
「あ、ぼくも、スタミナ定食で」
と、同じものを注文した。
ヨーダだ。
逸平太はひそかに思った。失礼だけど、あの両耳の
うしろ姿にせよ、あんまりじろじろ眺めると、相手も感じ取ってしまうと思い、カウンターの前の壁に視線を移すと、思いもかけない貼り紙がしてあるのが目に入った。
当店は家族経営ですが
妻と娘に聴力の障害があり
注文の際に聞き取りづらいことがあります。
ご迷惑をおかけいたします。
厨房で調理をしているのは、父親と思われる四十代くらいの男だった。ほかにも厨房に人がいるらしく、会話の端々から、昔やんちゃしていただろう、と察せられる雰囲気が伝わってくる。
「行くか。美味かったな」
千切りキャベツの上に、生姜焼きとトンカツがのったスタミナ定食を、あっという間にたいらげた目の前の中年男は、仏花をつかんで席を立ちかかる。
「ちょっと水ぐらい飲ませろよ」
逸平太は父親を制し、水を口に含んで言った。
「だれが払うの」
「おまえ」
瞬殺された逸平太は、しぶしぶと携帯を取り出す。
「あの、お勘定」
しまった。声が小さかった、と思い、もう一度、
「あの! お勘定!」
と、声量をあげて、同じセリフを繰り返した。
カウンター右横に座っている「ヨーダ」に迷惑だったかな、と気づき、真横上から様子をうかがった逸平太は、ぎょっとした。
な、泣いてる?
「はあい」
逸平太が動揺するのと同時に、厨房から女の子が出てきた。少しふっくらした、髪の長いその子は、はっきりとした発音で、千七百六十円です、と言った。
「キャッスレスで」
携帯をかざしながら逸平太は、ちらちらと、ヨーダを観察する。横に逸平太が立っているせいか、カウンターの男は肩を震わせることはやめ、うつむいたまま、箸を動かそうともしない。
支払いを終え、店を出た逸平太は、思わず、「二代目親父がいた」、と口走った。当の親父は、店先で待っていてくれると思いきや、ゆるい上り坂をひとりで、かなり先のほうまで歩いている。
「おーい。東京霊園って、そっちなのお?」
父親は振り返り、ウンでもなければスンでもなく、ただ突っ立っている。
しょうがないから逸平太は、父親に追いつくよう早足で歩を進めた。歩きながら、「あの人の老後、おれが看ることになるんだろうな」、と思った。大丈夫かな、とも、思った。だから父親に追いついた逸平太は、思いきって尋ねてみた。
「ねえ、親父。なんで天狗の鼻につかまって、泣いてたん?」
父親はその時、ああ、という表情になって言った。
「昔さ、結婚当初、結婚する前かな。うちのお墓に、墓まいりに来たの、ふたりで」
そしたらさ、三番線東京寄りで降りたかあさんが、あらっ、て驚くのよ。
「隆弘さん、ちょっと、これこれ」
って。
「この天狗、なんであっち向いてるのかしら。東京方面だからかしら」
って。
「この人、可笑しいなあ、ってさ。可笑しなこと言うなあ…、って思って…」
そういう父親の目に、涙があふれた。
しまったな。逸平太は心のなかで、舌打ちをした。
よけいなこと、聞くんじゃなかった。まったく。
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