第15話 父の思い出 その1
兄の入院の時、母は泊まりがけで付き添いに行きました。そんな時は父が私にご飯を食べさせてくれたのですが、何を思ったか3歳児に塩コショウ炒めのウインナー(しかもコショウ多め!)を食べさせたのです。
もちろん母は私の食事に刺激のある香辛料は使いません。私にとってそれは衝撃的な経験でした。
辛い!…でも美味しい!
母は当時その事を全く知らず、後々話題にした時に「え?そうだったの⁈」ととても驚いていました。
父は後輩を大切にする人でした。社宅には独身の後輩社員が何人もいましたが、父は母に彼らの部屋の掃除を頼んだり、時には皆を引き連れて食事に行ったり世話付きでした。後輩の皆さんも私や兄を可愛がってくれて、あるお兄さんにはバイクに乗せてもらって公園に遊びに行ったりしていました。そのお兄さんが後々社長の右腕となったと聞き、あのお兄さんがねぇ…と思ったものでした。父が亡くなるまで年賀状のやり取りがありました。
何を隠そう、私は当時そのお兄さんが好きだったのです。歳の差17くらいかな?たぶん私の初恋です。
父は優しい人でしたが頑固な一面や、物事を疑ってかかる事があり、損をしてしまう事もありました。
前述の高校時代の珠算大会。本当なら父は優勝のはずでした。しかし問題Aを最速で正解し、次は問題Bであるところを試験官の先生が「D」と言ったと思いこんだのです。最速で答えを出しましたが、もちろんBの答えではないので不正解です。その後CもDも最速で正解しましたが、2番目の間違いが響き三位となってしまいました。
その話題になると母は決まって、
「お父さんは素直じゃないからそんな事になるのよ。普通に考えたらABCDの順に回答するでしょ!」と厳しい意見を言っていましたが、きっと父以上に母は悔しく思っていたんだろうなと思います。父の三位の盾を見て、父の居ないところでは残念そうに話していましたから。
父の頑固さは家族の方向も変えるものでした。私が小学三年生に上がる時に最初の社宅から次の社宅に引っ越しをしましたが、そこは一時的に移るだけで、父には九州へ帰る辞令が出るはずでした。荷物も最低限だけ荷解きして生活を始めました。
ところが父のポストの前任者がなかなか席を譲らず年月が過ぎ、とうとう兄の高校受験が近づいてきたのです。当時住んでいた地域は進学に適しておらず、父は社宅を離れ大阪で暮らす覚悟でマンションを購入しました。その引越しの最中に会社に呼び出され、九州行きの辞令が出たものですから父は大いに憤慨し会社を辞めてしまいました。
会社の上司や先輩、同僚は引き止めてくれましたが、父はガンとして聞かなかったそうです。そして友人に誘われて事業を始めました。
私は九州生まれの大阪人となりました。
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