12-2 二年生・一月(6)
学校の中庭と違ってフルネスの屋上は寒かった。日も落ちてるし高さもあるし吹きさらしだし、割としんどい。あたしは眠る麻路に寄り添った。温かい、けど、いつもほどじゃない。
「どうして、こうなっちゃったの……麻路……」
あたしは小さな声で呟く。眠る麻路の呼吸は浅かった。
やがて、愛沙先輩と健翔が連れたってやってきた。遠近法かと思うくらい、愛沙先輩の身体は小さくなっていた。あたしはいてもたってもいられず、ばっと駆け寄って抱きしめた。
「ごめんね、ごめん、せんぱい……あたしが、あたしが悪いんだ。あんな計画立てちゃった、ばっかりに……こんなことになるなんて……」
声がぎゅっと絞まって泣きそうな声になる。そう。あたしが、麻路とフリでもいいから付き合いたいだなんて、思っちゃったから──。
「ちがう。わたしが悪いの。全部、わたしが……頑張れなかったせい……」
愛沙先輩はあたしの腕の中、雷に怯える犬みたいに縮こまって言う。あたしは首を振った。
「せんぱいは頑張ったよ。それは絶対、あたしが保証する。だから、責めないで。悪いのは……悪いのは、全部、ラルヴァなんだから」
自然と口を衝いて出た言葉に、あたしはあたし自身の強い憎悪を感じてはっとする。
「そうだよ、悪いのは生徒でも、先生でも、創始者のOBOGでも、管理者でもない。全部全部全部、ラルヴァのせいなんだよ! だから──」
「……愛沙」
声がして、あたしは咄嗟に愛沙先輩から離れた。振り向くと、目を覚ました麻路がこちらへ歩み寄ってきて、そっと先輩の指先に触れた。先輩は目に涙を溜めて謝る。
「ごめん、ごめんなさい、ふたりとも……わたしのわがままで……ごめんなさい……」
「もう謝らないでいい。それより……これからのこと、考えないと。学校、辞めたりはしないよね」
そっか。失敗したからって、即ゲームオーバーで暗転、ってわけじゃない。人生は続いていく。どこまでも冷静な麻路の言葉に、愛沙先輩はうなずいた。
「うん。わかんないけど、多分、そうなると思う」
「それなら、実質的に大学浪人と変わらない。変わらずに、愛沙のペースで頑張ればいい。学校で人目につかず比良宮くんと会いたいなら、私たちが協力する。だから、人生終わりとか考えないで」
「私たちが協力する」──その言葉に、どん底だったあたしの気分に光が差した。麻路が何の確認もなくあたしを巻き込んでくれる。完全に信じてくれてる。この状況であたしだけどうかと思うけど、それでも救われたような気持ちになった。
「その、ことなんだけ、ど……」
愛沙先輩が何かを言いかけ、口ごもり、そのまま居場所を見失ったように黙り込んでしまう。辛抱強くじっと続きを待つあたしたちに、やがて健翔が口を開いた。
「おれから話します」
先輩は弱った目で健翔を見上げると、こくっとうなずく。健翔は肩を上げて大きく息を吸い、少し間を空けてから言った。
「さっき、ここへ来るまでの間に話し合った結果、おれは愛沙さんと別れることにした」
「……えっ」「……えっ」
あたしと麻路の声がシンクロする。何を言い出してるんだ、こいつは。
「と、とりあえず、な、なんでって訊くけど、なんで?」
混乱しすぎて、ぐらぐら落ち着かない日本語があたしの口から飛び出す。健翔は眉根に皺を寄せて、難しい顔つきをして答えた。
「ラルヴァの眼差しは今後一年つきまとい、愛沙さんは卒業までその重圧の中で過ごす。その中で、おれとの関係は格好の話題となり余計な負荷になる。だから一時的に切る」
切る、という言葉に鋭い響きがあった。つまり、先輩と健翔はこれから一年間、会わなくなるということ──その覚悟が済んでいるということ。
「一時的ってことはそのうちよりを戻すってこと? な、なら別れる必要ないじゃん」
「付き合っているという認識があるから、不在が際立って苦しい思いをする。最初から意識しなければ悩む必要はない。別れる、と話して決めたことが、愛沙さんのために必要なプロセスだった」
「相変わらず何言ってるのかわからないんだけど」
「──一度与えた飴の味を忘れさせるのは難しい。別れるのは忘却の手段なんだ」
飴……どこかで聞き覚えのある言葉、と思ったら、健翔がラルヴァ民のことを言った表現だった。その快楽を知ってしまったから、生徒たちは自分たちが話題の的にされることを恐れながらも、その原因になってるラルヴァの存在を望んでいる、と。
でも、誰かと誰かが好きになって一緒にいたいと願うことと、ラルヴァの快楽は全然違うだろ。あたしは無性にイライラしてきた。
「愛沙は、それでいいの」
麻路が動揺を隠せないように震える声で訊いた。いつか、あたしに助けを求めてきた時のようなか細い声色に、愛沙先輩は俯いた。
「だって、最初からあたしがワガママ言わないで、頑張ってれば良かったことだから」
違う。麻路は実際のことじゃなくて、それでいいのかって訊いてるんだ。
「現実的なことを訊いてるんじゃない。わたしは愛沙の気持ちを訊いてるの」
麻路はあたしの思ったことを読み取ったかのように、全く同じことを突きつける。もし嫌だというのなら、いくらでもサポートする。作戦も考える。だから、正直に言って欲しい。
愛沙先輩は下を向いた格好のまま、かくん、と小さくうなずいた。
「うん、いい」
その時、まるで気配を隠すように、先輩から漂う榛色がすっと薄くなった。
嘘だ。隠してる。あたしはカッとなった。
「嘘吐かないでよ! 本当は一緒にいたいくせに!」
「碧子──」
麻路があたしの右手を掴む。むちゃくちゃ強い。鍛え上げられたその手にかかれば、あたしの細っこい手なんて枝葉のようにポキっと折られてしまいそうだった。そんな想像に、昔、自転車の事故で折った左腕がうずく。
でも、今はそんなことどうでも良い。あたしには言わずにはいられないことがある。
「やりたいこと正直にやりたいって言って、自分を貫いて頑張ってるせんぱいが好きだったのに! この学校で仲間を見つけた気がしたから、応援してたのに! それなのに気持ちを引っ込めて、隠して、あたしの一番嫌いな連中みたいになるなんて、違うじゃん!」
「う……でも……」と先輩が顔を俯かせる。
「碧子」
麻路があたしの手をまた強く引いた。その手を振り払って、あたしは言う。
「言いなよ、本音を! あたしたちくらいには! そうじゃなきゃ、今日までのことが何の意味もなくなっちゃうじゃん! これからも毎日会いたいって言ってよ! せんぱい!」
「……ごめん」
「ちがう、謝って欲しいんじゃなくて……もう、健翔も、理路整然とした顔してんじゃねえよ! あんただってそう思ってるんでしょ!」
「思ってる。当たり前だ」
健翔はきっぱりと言い切った。あたしがブチ切れてるところなのに、その衒いのなさは流石だと思う。少し毒気を抜かれてしまった。
「それなら──」
「だけど、感情と状況は峻別するべきだ。真に欲しいもののために感情の抑圧が必要な場面もある。全員が兎褄のような性分ではいられない。おれたちの関係がラルヴァに膾炙した以上、愛沙さんの生活は大穴の空いた船と同じだ。沈没しないよう、耐え忍ぶ期間が必要になる」
なんかそれらしい喩え話を出しやがって、と焦れるあたしの手に何かが触れる。見ると、麻路がまたあたしの右手を掴んでいた。
「碧子、もし、本当の気持ちを通してほしいなら──考えないと。ここから一年、ラルヴァからふたりを守る方法を」
麻路の手が冷たく感じる。麻路が弱っている。あたしには麻路が何を思っているかわからない。でも、少なくともふたりが別れることは望んでいないみたいだった。そして、あたしに助けを求めている。
ラルヴァからふたりを守る方法──あたしは考える。そんなの、どこにある?
問題は今後ずっと、愛沙先輩の意識に「かもしれない」が根付くことだ。見られているかも知れない、ラルヴァに書かれているかも知れない、というパノプティコン現象。そして、実際に想像通りの場面に遭遇してしまえば、再び大きなショックを受けてしまう。そうなったら、先輩はもう何も信じられなくなってしまう。
そうなった以上、あたしたちにできることってなんだろう。仮に注目度一〇〇%のパフォーマンスを一年間できたとしても、愛沙先輩が不安に思ったら意味がない。じゃあ、つきっきりでいること? そんなの無理だ。これからあたしたちは三年生になり、考えたくもない受験に向けて、もっと苛烈に知識を詰め込んでいくことになる。先輩に割く時間があるかどうか。なら、愛沙先輩が不安を克服するしかないけど、それにはラルヴァに向き合わなくちゃいけなくて──。
頭がぐるぐる回って、わけがわからなくなってきた。どうしてこんなことを考えなくちゃいけないんだ。あたしはただ、みんなと楽しく晴れ晴れとした青春スクールライフを過ごしたかっただけなのに──ラルヴァとかいうものがあってしまったばっかりに。
「ああああああああああーーーーーーーーーーーーーっ、もおーっ!」
ついに頭が爆発したあたしは、気がつけば寒々とした夜空に狼みたいに叫び散らかしていた。
「ラルヴァなんかなくなっちまえばいいのにーーーーーーーーっ!」
久々にバカでかい声を出して、気持ちだけはすっきりした。頭がスカスカのスポンジになったみたいで、緩みまくった思考の間を冷たい風が通り抜けていく。あーもう、バカになっちゃった。自分の叫んだ言葉が痛みとなって、喉の奥にヒリヒリと張り付いている。ラルヴァなんかなくなっちまえばいいのに……。
「……あっ」
閃いたあたしは顔を下ろした。呆気にとられたような顔をする麻路と、強ばった表情の健翔とその裏に隠れた愛沙先輩がいる。ああ、思えば親族以外の前で絶叫したのは初めてだった。突然、叫んだら誰でもびっくりする。
いやいや、そんなことはどうでもいい。重要なことじゃない。あたしは健翔に向けて言った。
「わかった。ラルヴァ、ぶっ壊しちゃえばいいんだ」
「……は?」
健翔の顔に困惑が混じった。そんなに驚くこと? 一度気づいてしまえば、そんな簡単なこともわからなかったのかと呆れてしまう。あたしは説明してやった。
「あたしと麻路が付き合い始めた日、ラルヴァのサーバー落ちたよね。その程度の弱いもんなら、頑張れば完璧に再起不能になるまでぶっ壊せるんじゃないの? そうすれば、もうせんぱいが怯えるものなんかなくなる。むしろもう一年、健翔と何にも縛られない学校生活ができてラッキーじゃん。健翔も前にラルヴァなんかなくなればいいって言ってたし」
「……確かに言ったが」
「ラルヴァを再起不能に……比良宮くん、そんなこと、できるの」
戸惑ったように麻路が訊く。健翔は頭を掻いた。
「以前、兎褄には説明したけど、ラルヴァは単純な仕組みの上、ローカルネットワーク上で稼働する。最大でも全校生徒千人程度の利用に耐えられればいいから、サーバーの規模は極めて小さいと推測される。例えば、数十人程度で更新を連打するだけでも落ちるはずだ」
「それは一時的な障害でしょう? 以前のケースではすぐに復旧していたと思うけど」
「システムは勝手に復旧されない。サーバーを管理している人間が校内にいる」
「だから、そいつをどうにかすればラルヴァは止まるってわけ」
あたしは健翔の言葉を引き取って言った。健翔は「どうにかできればな」とほんのり補足してくる。麻路は「ふうん」といつもの冷静な顔色を取り戻しながら、健翔に続けて訊いた。
「その管理者って誰? サーバーはどこにあるの?」
「どちらも不明だ。管理者は情報メディア部の誰かと
「碧子の話だと、サーバーを故意に落として復旧にやってきた管理者を相手にどうにかする、という話みたいだけど、課題だらけね。サーバーの特定、管理者との交渉、そして、サーバーダウンを起こすほどの同時的大量アクセスリソースの確保……」
「ラルヴァユーザーの心証もある。首尾良くラルヴァの排除に成功しても、快楽を忘れられない中毒者が新たなラルヴァを立ち上げないとも限らない」
頭の良いふたりが会話をするだけで、するすると要点がまとまって問題点が洗い出されていく。すご。頭良い人って頭良いんだ……と話にまじれず黙るあたしを見て、麻路が言う。
「碧子、こんな状況でも本気でラルヴァを壊せると思ってる?」
「思ってる。だって方法がわかってんなら、あとはやるだけじゃん。それで全部があまねくオールオッケーになるなら、やんない意味がないよ」
あたしが思ってるままを告げると、麻路は怜悧な瞳をきゅっと細めてみせた。
「それが……あなたの望んだことなのね」
「うん。麻路だって……同じでしょ?」
あたしは手探るように問う。深い深い海の底へ、エコーを出すみたいに。麻路はしばらく口を閉じていたけど、やがて、ずっと掴んでいたあたしの手を改めて握り直して言った。
「──もちろん。私はあなたの案に乗る」
「へへ、麻路ならそう言ってくれると思った」
「ほ、本気……?」
と言ったのは、健翔の背中から顔だけ出した愛沙先輩だった。
「み、みんなラルヴァを求めてるんだよ。それを取り上げたりなんかしたら……恨まれるかも知れないよ」
先輩らしい心配だけど、その言説にあたしは思うところがある。
「……せんぱいはラルヴァがあった方がいいと思いますか?」
「え……それは」
愛沙先輩はきょろきょろと、誰もいるわけないのに辺りを見渡してから言った。
「ううん、あんなの、ない方がいい。なかったら……わたしは、わたしらしく頑張れると思う」
「よく言ってくれました。その気持ちを聞ければ十分です。──まあ、あんたもいいよね」
健翔にも視線を差し向けると、真面目くさった顔でうなずかれた。
「ああ。また、迷惑をかける」
「ほんとだよ。成功したらゴミ袋いっぱいのお菓子ちょうだいよ。ってことだから、麻路」
あたしの手を取りっぱなしの麻路を見ると、麻路はじとっとした目をあたしに向けた。
「何、もう終わったような顔してるの……考えなくちゃいけないことが山積みなんだけど」
「大丈夫、みんなで考えればなんとかなるって」
あたしはニッと口端を上げてみせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます