第六章:『光の粒子となった訪問者』

 その日は、永遠の屋敷の中でも特別な日だった。東の庭の桜が、千年ぶりに一枚だけ花びらを落としたのだ。


 リリアはその一枚の花びらを手のひらに載せ、不思議そうに見つめていた。「何かが変わる」彼女は静かに呟いた。その声には、恐れと期待が入り混じっていた。


 オスカーの歯車の音が、いつもより速く回り始めた。「私の中の何かが、共鳴している」彼は胸に手を当て、困惑した表情を浮かべた。ルナの宝石の目が、これまで見たことのない色に輝き、尾から漏れる音楽が不思議な調べを奏でていた。


 セレステとアリアは互いに視線を交わし、無言のまま頷いた。二人は同時に屋敷の玄関へと向かい、扉を開けた。まるで誰かの到着を予期していたかのように。


 その時、屋敷の外から鈴の音が聞こえた。


 遠く遠く、霧の向こうから、一人の少女が歩いてくるのが見えた。彼女は白い簡素な服を着て、裸足で歩いていた。長い金色の髪は風もないのに、ゆっくりと宙に漂うように揺れていた。


「来客だ」アリアが言った。その声には驚きの色が見えた。「永遠の時の中で、外からの訪問者とは」


 セレステは静かに言った。「彼女は...普通の存在ではない」


 少女は屋敷の門の前に立ち、微笑んだ。その笑顔は朝日のように温かく、同時に月光のように神秘的だった。


「私はカロカガティアと呼ばれています」彼女は自己紹介した。その声は風鈴のように澄んでいた。「しばらくの間、こちらに滞在させていただけないでしょうか」


 リリアとオスカーは、丘の上から彼女を見ていた。少女が近づくにつれ、彼女の周りの空気が輝いているのが見えた。それは光というよりも、何か別の次元の存在が漏れ出しているようだった。


「あれが……カロカガティア?」オスカーは小声で言った。


 リリアは頷いた。「きっとそう」


 彼らは丘を下り、屋敷の門へと向かった。セレステとアリアはすでにそこに立ち、カロカガティアと言葉を交わしていた。


「皆様、お待ちしていました」カロカガティアは三人が近づくと笑顔で言った。「やっとお会いできましたね」


 リリアは彼女の前で立ち止まった。カロカガティアは彼女より少し背が低く、年齢は判然としなかった。時に子供のように見え、時に古の知恵を持つ賢者のように見えた。


「私たちを知っているの?」リリアは尋ねた。


「ええ、もちろん」カロカガティアは頷いた。「リリア・エヴァーミスト、永遠の十六歳。オスカー・クロノスフィア、時の子。そしてルナ・スターフォール、記憶の器」


 三人は驚いて顔を見合わせた。彼らの正式な名前を知っている者は稀だった。特に「時の子」と「記憶の器」という呼び名は、彼ら自身も聞いたことがなかった。


「どうやって私たちのことを?」オスカーは尋ねた。


「私は思い出す者です」カロカガティアは答えた。「忘れられたものを思い出し、失われたものを見つめる存在です」


 彼女の目は深い海のように青く、その中には星々が映っているようだった。彼女を見つめると、自分の魂の最も深い部分まで見透かされるような感覚に陥った。


「さあ、中に入りましょう」セレステは言った。「長旅でお疲れでしょう」


「ありがとうございます」カロカガティアは言った。「確かに、長い旅でした。しかし、それ以上に実りある旅になりそうです」


 彼らは屋敷の中へと入った。カロカガティアは屋敷の内装を興味深そうに見回した。彼女が通り過ぎる場所は、一瞬だけ色鮮やかになり、彼女の足跡には一時的に小さな花が咲いた。


 アリアは彼女を客室に案内した。その部屋は普段は使われていなかったが、今日は特別に用意されていた。窓からは四つの庭すべてが見え、部屋の中央には古風なベッドと机が置かれていた。


「ここに滞在してください」アリアは言った。「何か必要なものがあれば、遠慮なくお申し付けください」


「ありがとうございます」カロカガティアは微笑んだ。「しかし、私にはほとんど何も必要ありません。ただ、皆さんとお話しする時間が欲しいです」


 セレステはカロカガティアに一礼した。


「では、少しお休みになった後、夕食時にお話ししましょう。皆で揃って」


 カロカガティアが客室に案内された後、リリア、オスカー、ルナは食堂に集まった。彼らの表情には、興奮と困惑が混じっていた。


「彼女は本当に……外の世界から来たのね」リリアは言った。「何世紀ぶりかしら」


「でも、彼女は普通の訪問者じゃない」オスカーは言った。「彼女の周りには、何か特別なものがある」


 ルナは静かに二人の会話を聞いていた。彼女の目には、普段とは異なる風景が映っていた。それは過去でも未来でもなく、今この瞬間の鮮明な映像だった。


「セレステ、アリア、彼女のことをもっと教えてくれない?」リリアは尋ねた。「カロカガティアとは、本当に何者なの?」


 セレステは窓の外を見ながら答えた。


「彼女は『調和の使者』とも呼ばれています」セレステは静かに答えた。「永遠に固定された場所に変化をもたらす存在です。彼女はバランスを整えるために現れます。何かが極端に偏った時、その均衡を取り戻すために」


「つまり、この屋敷が……均衡を失っているということ?」オスカーは尋ねた。


 アリアはゆっくりと頷いた。


「永遠は自然なことではありません。すべては流れ、変化するのが本来の姿。この屋敷は時の流れに抗い、永遠の一瞬を保とうとしてきました。しかし、そのような抵抗にも限界があります」


「屋敷が壊れようとしているの?」リリアの声には恐れが含まれていた。


「壊れる、というよりは……変化しようとしています」セレステは言った。「そして私たちも」


 夕食の時間になると、カロカガティアは食堂に現れた。彼女は白い服を着たままだったが、その姿はどこか輝いて見えた。彼女が席に着くと、テーブルの上の花が一瞬だけ鮮やかに咲き誇った。


 アリアは普段より豪華な食事を用意した。しかし、その料理も、カロカガティアが触れると変化した。色がより鮮やかになり、香りがより豊かになった。彼女が一口食べると、彼女の周りの空気が僅かに波打った。


「この屋敷は、とても美しいところです」カロカガティアは言った。「しかし、少し息苦しさも感じます。まるで、時間が凍りついているかのように」


「それが私たちの日常よ」リリアは言った。「変わらない日々の繰り返し。美しいけれど、冷たい永遠」


 カロカガティアは彼女を見つめた。その目には深い理解と共感が宿っていた。


「あなたは長い間、苦しんできましたね」彼女は静かに言った。「永遠の中で凍りついた心を持って」


 リリアは驚いて目を見開いた。カロカガティアの言葉は、彼女の心の奥深くに触れた。


「どうして……そんなことがわかるの?」


「あなたの目に映るものが見えるからです」カロカガティアは言った。「あなたが見てきたすべてのもの、感じてきたすべてのこと。それらがあなたの中に残っています」


 彼女はオスカーの方を向いた。


「あなたも同じです。時の子として作られた目的を知らないまま、自分の存在意義を探し続けている。あなたの心臓の歯車は、その探求のリズムで回っています」


 オスカーは自分の胸に手を当てた。彼の歯車の音は、カロカガティアの言葉に合わせて変化した。


「私は……何のために作られたんだろう?」彼は尋ねた。


「それを探すのが、あなたの旅です」カロカガティアは微笑んだ。「答えは、あなた自身の中にあります」


 彼女はルナに視線を移した。


「そしてあなた、記憶の器。あなたの目には、過去も未来も映ります。あなたは見るために作られましたが、理解するためではありません。それが、あなたの苦しみの源です」


 ルナは珍しく声を発した。


「私は……何を見ているの?」


「あなたが見ているのは可能性です」カロカガティアは答えた。「起こり得たこと、起こり得ること、すべての可能性の断片。それを解釈するのは、あなた自身の役目です」


 最後に、カロカガティアはセレステとアリアに視線を向けた。


「そして、あなたがた二人。見守る者たち。あなたがたの正体は、この屋敷と同じくらい古く、同じくらい複雑です」


 セレステとアリアは互いに視線を交わした。彼らの目には、人間のものとは思えない深い理解と諦観が宿っていた。


「私たちの正体は、私たち自身にもわからなくなっています」セレステは言った。「長すぎる時の中で、私たちの始まりの記憶は曖昧になりました」


「でも、あなたは知っているでしょう?」アリアはカロカガティアに尋ねた。「私たちが何者なのか」


 カロカガティアは静かに微笑んだ。


「あなたがたは、選択の結果です。かつて下した決断の産物。しかし、その選択の詳細を語るのは私の役目ではありません。それはあなたがた自身が思い出すべきことです」


 彼女の言葉には謎が含まれていたが、同時に、真実の重みも感じられた。


 夕食の後、カロカガティアは屋敷の中を歩き回り、すべてのものに触れた。彼女が触れた花は一瞬だけ鮮やかに色づき、彼女が撫でた壁からは古い記憶の断片が浮かび上がった。彼女の足跡には、一瞬だけ小さな草花が生え、すぐに消えていった。


 リリアは彼女の後をついて回った。カロカガティアの存在そのものが、彼女に不思議な安らぎをもたらしていた。


「あなたは何者なの?」リリアはある日、カロカガティアに尋ねた。「どうして私たちのことをそんなに詳しく知っているの?」


「私は...思い出す人です」カロカガティアは答えた。「忘れられたものを思い出し、失われたものを見つめる存在です」


 リリアはその答えに首を傾げた。


「私は忘れることができないの。それが私の呪い」


 カロカガティアは優しく微笑んだ。


「忘れられないことと、思い出すことは違います。あなたは過去を抱え込んでいる。私は過去を通して見ています」


 その対話を聞いていたオスカーは、自分の心臓の音がわずかに変わったことに気がついた。それはより...生き物らしい鼓動に近づいていた。

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