アイの器

鍵崎佐吉

アイの器

 私が小学生だった頃、庭で遊んでいた飼い猫のナナが何か得体の知れない変なものを咥えてきたことがあった。よく見てみればそれは人間の眼球にそっくりで、私は思わず叫びそうになってしまった。だけどそんなものがその辺に転がっているはずもないし、かといってそれはとても作り物のようには見えない。そんな風に私が考えこんでいると、突然その眼球がびくりと動いてナナの口の中に飛び込んでしまった。私は急いで吐き出させようとしたけど、ナナはぐったりしたまま動かない。急いで両親を呼んで動物病院に駆け込んだのだが、検査をしても何も異常は見つからなかった。そうして次の日になるとナナは何事もなかったかのように元気になっていた。両親はそれで安心したみたいだが、私は言いようのない不安を感じていた。それからのナナはなんだか今までとはまったく別の生き物のように思えて、私は気を許すことができなかった。あの眼球は今もナナの中に潜んでいて、私たちの体に入り込む隙をずっとうかがっているんじゃないか。だから私は家の中では常にカッターナイフを持ち歩き、ナナが絶対に私や両親の寝室に入ってこないように監視し続けた。そしてそれから一か月経った頃、ナナは忽然と姿を消して二度と我が家には帰ってこなかった。


 十年以上前のこの悪夢のような体験を思い出したのは、同棲している直輝がきっかけだった。ある日曜日の朝、少し早く目が覚めてしまったのでリビングで紅茶を飲みながらくつろいでいると、大あくびをしながらゆっくりと直輝が部屋に入ってくる。おはよう、と声をかけようとした時、私は強烈な違和感を覚える。大きく開いた彼の口の奥、その小さな暗がりの中に、あの日見た悍ましい眼球が潜んでいた。わずか数秒の間の出来事だったが、私は呼吸することも忘れて彼の顔を凝視する。すると彼はいつもと変わらない爽やかな微笑みを浮かべて私に言った。

「おはよう、なっちゃん。今日は早起きだね」

 私はただ曖昧な笑みを返すことしかできなかった。


 何度もあれは見間違いだったのだと思おうとしたが、その度に脳裏にあの不気味な眼球が浮かんできて私の思考をかき乱す。新種の寄生生物か、怪異や妖怪の類か、それとも過去のトラウマが見せたただの幻覚か。しかし直輝に直接尋ねるなんてことはできない。私は彼のことも今の生活も気に入っていたし、あの時みたいにそれが崩れてしまうのが怖かった。

 そもそも直輝には、最初からあの眼球が入っていたのだろうか。だとしたら私が愛しているのは、この目で見えている人間の彼ではなく、その中に潜んでいるあの眼球ということになってしまうのではないか。かつてナナの体を奪ったあの怪物に、いつのまにか私は心を許していたとでもいうのか。仕事をしている時も、食事をしている時も、そして直輝と一緒にいる時も、私はそんな風に考え続けた。


 直輝に誘われた時は、正直生きた心地がしなかった。だけど全てを捨て去ってここから逃げ出す勇気も持てなくて、私は枕の下に包丁を隠して彼を受け入れた。何度見ても彼の体は人間の男として不自然なところは一つもなく、そこはかとない不安を感じつつも、自分の中の本能的欲求が反応しているのを自覚せざるを得なかった。直輝は私の髪を撫で、胸を触り、そしてゆっくりとキスをした。お互いの舌が絡み合い、彼の熱が私の中に伝わっていく。もし変なものが口の中に流れ込んできたら、彼の舌ごと噛み千切ってその首筋に包丁を突き立てるつもりだった。だけどその夜私にもたらされたのは、甘い快楽とジェットコースターに乗った後のような徒労感だけだった。


 ふと思い立ってネットで色々と調べてみたが、怪しげなオカルトサイトが出てくるばかりで信用に足る情報は見つけられない。どうやらあの眼球はどこにでもいる存在というわけではなさそうだった。あれに対して抱いていた恐怖や嫌悪は、次第に好奇心へと変化しつつある。仮に直輝の正体が人ならざる何かだったとしても、現時点では私への害意は抱いていないということがなんとなくわかったからだ。むしろあの眼球が本物の直輝だとするなら、あれは私を愛しているということにすらなるのではないか。そう考えると殺伐としていた心が不思議と落ち着いていく。私はもっと直輝のことを知りたいと思った。


 探偵からの調査報告はある意味では私の期待を裏切るものだった。仕事も出身地も年齢も、私が彼から聞いていた情報と合致する。日頃の行動にも不審な点はなく、いたって平凡で常識的な人間だった。だがあの眼球がもともと存在していた人間の体を乗っ取ったのなら、それは当然のことなのかもしれない。そうなると直輝の正体を暴くのは不可能だということになってしまうんだろうか。

 もし彼が私を愛しているなら、私は彼の全てを知りたかった。たとえそれがどんなに悍ましい真実だとしても、彼がそれを隠している限り私たちは対等になれない。私はただ、彼を本気で愛したかったんだ。


「なっちゃん、もう終わりにしないか」

「え?」

 直輝に急にそう切り出されても、私には何のことだかわからなかった。彼は沈痛な面持ちのまま、私に語りかける。

「昔の友人から連絡が来たんだ。報酬と引換に俺のことを聞かれたって。探偵かなにかを雇って探らせてたんだろ?」

「それは……でも、なんで私だって……!」

「最近ずっと様子がおかしかった。だけど俺にはなんにも話してくれない。お互いのこと信用できなくなったなら、もう一緒には暮らせないよ」

「待って、待ってよ!」

 話してくれないのはそっちじゃん、と言いかけて、結局何も言えなかった。もし私が彼を問いただしても、きっと彼は否定するだろう。そんな馬鹿げたことがあるはずはないと、そう言えばそれで終わる話だ。

 だけど、もし、彼がそれを認めてしまったら。愛によってではなく、怒りと不信によってそれが明らかになってしまったら。私たちはきっと二度と手を取り合うことはできない。そんなこと私には耐えられなかった。


 ナナが私の元を去ったのは、もしかしたら私を傷つけたくなかったからなのかもしれない。誰かの愛するものを奪ってしまったその罪を抱えたまま、あの眼は今も人知れず泣き続けているのだろうか。だとしたら私があの日の二の舞を演じるわけにはいかない。今度はもう、絶対に離さないから。


「最後は笑って別れたいから、その日はパーティーしよう」

 私がそう言うと直輝は苦笑いを浮かべて、少し寂しそうに頷いた。

 ネットで仕入れた睡眠薬でどこまで効くか不安だったが、アルコールのおかげもあってか十時になる頃には直輝は完全に意識を失っていた。その手足をきつく縛って、私は彼の服を脱がせる。そしてその体をどうにか風呂場まで引きずっていって、ようやく作業に取りかかった。

 綺麗に砥がれたナイフの先が震えている。浅い呼吸を繰り返しながら、私は何度も自分に言い聞かせる。大丈夫、大丈夫、本物の直輝はきっとこの中にいる。私がそう信じている限り、これは殺人ではなくて私たちの愛の証明なんだ。刃を喉元に突き刺して、そのまま力任せに引き裂いた。その瞬間、彼の体がびくんと跳ね上がり、私は慌ててそれを押さえつける。噴き出す血飛沫を浴びながら彼の体に馬乗りになって、何度もそれを繰り返した。

 風呂場の床が赤一色に染まった頃、ようやく直輝は動かなくなった。血で滑る手を洗い流して、私はその赤い裂け目に指を突っ込んで押し広げる。その時、何かが指先に触れた感触があった。私はゆっくりと慎重にそれを引きずり出す。


 そこにあったのは人間の眼球にそっくりな私の恋人だった。私の手の平で小さく震える彼は、悍ましく、脆弱で、たまらなく愛おしかった。これでようやく私たちは全てを分かち合うことができる。

「大好きだよ」

 そう言って彼にキスをした。


 ぬるりと何かが私の中に入り込んでくるのを感じた。

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アイの器 鍵崎佐吉 @gizagiza

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