第2話 夫婦を契る

恋愛法の施行された春は依頼が殺到し、猫型ロボットの手も借りたくなるほど忙しかった。眞島の四十を越えた体にはかなり堪える春で、桜がいつ咲いていつ散ったのか、記憶がないほどであった。特にこの時期多かったのが、既婚者の初期契約に関しての問い合わせだった。既婚者であっても、相手が拒否している状況で、同意なく無理やり性交渉を行うことは不同意性交罪に問われる。恋愛法では第二項以降に既に交際しているカップルや既婚者に関しての内容が記載されている。その概要をまとめると以下の通りだ。


『交際中の男女及び同性パートナー、若しくは夫婦関係にある者は、両者間で性交渉を行う場合、事前に、性交渉に関する長期契約書に両者連名にて署名し契約締結しなければならない。但し、詳細な契約内容に関しては両者間で相談・合意し特記事項として追加・削除できるものとする。長期契約期間は以下の通りとする。


交際中の男女及び同性パートナー:一年契約

夫婦:三年・五年・十年契約から選択


また、契約違反条項を設定することが可能で、どちらかが違反した場合、契約期間中であっても契約の破棄を申し立てることができる。』


つまり、永遠のセックスレス夫婦以外は事前契約が必要というわけだ。それに、契約内容の追加・削除や違反条項を盛り込めるという点から個人で契約書を作成することが困難で、専門家に依頼する人が急増した。

その中でも特に印象深かったのが、共に六十代のとあるご夫婦であった。


五月の平日の昼過ぎ、雑居ビルの二階「眞島司法書士事務所」のインターホンが鳴った。「ピンポーン♪」などという軽快な音ではない。バスの降車ボタンのような形のインターホンは弱々しく「ブー」と鳴る。なんともタイミングが悪い。眞島はトイレの個室から「ちょっと待ってくださーい」と大声で答える。最近の忙しさで眞島はお腹の調子を崩していた。

「ブー」・・・「はーい、はい、はーい」眞島は急いで尻を拭く。眞島の声は届いていないようだ。

「ブー」・・・「ちょっ、ちょっと待ってぇ」眞島は急いでズボンを上げる。ベルトの金具がチャリンチャリンと音を立てる。

「ブー」・・・「もう開けます、開けます」眞島は指先をちゃちゃっと濡らす程度洗い、ズボンで手を拭きながら玄関に向かった。ガチャッ。

「すみません、お待たせしました。」

玄関を開けると、白髪混じりだが若々しい印象の紳士と、その横に、白髪隠しか髪を少し茶色に染めた可愛らしい印象の淑女がいた。

「十四時でお約束した手嶋てじまです。」

紳士が言うと、横の淑女がそれに合わせて会釈する。

「眞島です。お待ちしておりました。中へどうぞ。」


眞島の事務所は間取りとしては1DK。ただし、実際に使用可能なのはダイニングキッチンの部分のみで、もう一部屋は大量の資料を保管する書庫となっている。この書庫は一般的には散らかっていると言われる状態で、眞島以外どこに何があるか把握している者は誰もいない。まあ、助手もスタッフもいないので関係ないが。一方、ダイニングキッチンの方は依頼人を招く応接室を兼ねているので綺麗に保っている。部屋の奥の窓にはブラインドを設置し、その手前に眞島のデスク。部屋の大部分を依頼人の話を聞くための応接テーブルとテーブルの両サイドのフェイクレザーのソファが占めていた。また、キッチンは狭く、流しと小さな冷蔵庫があるくらいだった。


「アイスコーヒーかお茶しか無いんですが、どちらがよいですか?」

眞島が聞くと、二人は小声で相談し、旦那さんの方が「ではアイスコーヒー二つで」と答えた。眞島は冷蔵庫から無糖のアイスコーヒーのペットボトルを取り出し、三つのグラスに注いだ。勿論、その前にきちんと手は洗ってある。

あと、ガムシロップとポーションミルクの入った小さな竹籠、ストロー三本を一緒にお盆に乗せ、夫婦の待つテーブルへと運ぶ。

「どうぞ。コーヒーは無糖ですので必要であれば、こちらをお使いください。」

眞島はグラスとストローをそれぞれの前に置いた。

「ありがとうございます。」

奥さんが答え、旦那さんは軽く会釈した。続けて眞島は二人の反対側のソファに腰掛け

「いやぁ、私は大の甘党でしてね。ガムシロ三つ入れるんですよ。」

と聞いてもいない自己紹介をしつつ、ガムシロップの蓋を開ける。

「では、ミルクをいただきます。」

奥さんはポーションミルクを一つ入れ、旦那さんはそのままブラックで飲んだ。

「お二人は出身も関東ですか?」

「はい?ええ、二人共、地元は横浜ですが。」

不思議そうに奥さんが答える。

「やっぱり。これ、関西では主にフレッシュって言うんですよ。」

「では眞島先生は関西出身ですか?そういえば関西出身のお友達が言ってたんですが。ひょっとしてアイスコーヒーは、」

「レイコーですか?私は神戸なんで、あんま聞きませんね。大阪の年輩の方が言ってるイメージです。ちなみにコーヒーはコー(↗)ヒー(→)ですね。」

「コー(↗)ヒー(→)ですか?」

「そうです、そうです。コー(↗)ヒー(→)うてきて、って感じです。コー(→)ヒー(→)と言うこともありますが、なんかちょっと怒ってるっていうか、冷たい感じがしますね。」

「じゃあ、コーヒーゼリーはコー(↗)ヒー(→)ゼリーですか?」

「コーヒーゼリーはコー(→)ヒー(→)ゼリーです。(笑)」

奥さんもつられて笑うと、「ゴホン」と旦那さんが咳を一つして大幅に脱線した話にピリオドを打った。眞島はその咳音に、「話が脱線したから」だけではない嫉妬心の混ざりを感じた。


その後も話は基本、眞島と奥さん中心で、たまに旦那さんが補足するという形で進んだ。依頼情報・内容は次のとおりである。


旦那さんは手嶋貞顕さだあきさん、六十五歳。これまで某食品メーカーの営業職を勤め上げ、この春定年退職されたそうだ。奥さんはひとみさん、六十二歳。二人には一人娘がおり、既に就職し家は出ているらしい。

依頼内容は「恋愛法に基づく既婚者の性交渉長期契約」に関してだった。テレビなどで恋愛法施行のニュースを知り、よくよく聞くと既婚者にも関係ある話だと知って、心配になり相談に来たとのことだった。


そして、は契約書の見本を取り出し、具体的な話をしようとしたときのことだ。

「私達、まだまだ、ずっと、セックスがしたいんです!」

眞島は思わず吹き出しそうになる。コーヒーを口に含んでいなくて良かった。瞳さんは真剣な眼差しで眞島を見つめている。それはまるで、欲しいおもちゃをウルウルした眼で強請ねだる子供のようだ。瞳さんは続けた。

「変ですか?こんな六十も過ぎた夫婦が、まだセックスがしたいって。」

旦那さんは黙って聞いている。ただ、少し恥ずかしそうだ。でも話を止めようともしていない。

眞島は正直、「六十も過ぎた夫婦が、まだセックスがしたいのかよ」と思ったが、もちろん言うわけがない。

「いえ、全然変じゃありませんよ。人生の先輩として、とても素敵だと思います。」

眞島はそう答えた。変な夫婦だなとは思いつつ、実は眼の前の夫婦のことがとても羨ましかった。


眞島自身も既婚者であり、今年高校二年生になる息子がいる。妻とは別に不仲ということはない。たまにだが一緒に出かけたり、家でも会話が無いということもない。ただ、だからといって、付き合い始めた二十代前半のころのようなトキメキやジェラシーはもう無い。最後のセックスもいつだったか?間違いなく恋愛法施行前だ。忙しくて、自分たちの契約は後回しだから間違いない。それを妻がとやかく言ってくることもないところをみると、妻にとってもそこまで重要なことではないのであろう。

しかし、目の前の夫婦は全く違う。これが死活問題だと言わんばかりの熱量なのである。勿論、夫婦の形は十人十色、いや、それどころか百組百色だろう。何が正解なのか、そもそも世界共通の正解なんてのは無いのだと思う。それぞれの価値観次第で幾通りも正解はある。ただ、この夫婦を目の当たりにして眞島は「俺もこうなれるのだろうか」と羨望とも不安とも言い切れない感情が込み上げてきた。


話は「特記事項の追加や削除」「違反条項の設定」に移っていった。このあたりは具体的な性交渉の内容に関する設定など、かなり際どいプライバシーに関わる項目となる。話が違反条項の設定に入ると、また瞳さんの熱量が高まる場面があった。それは不貞に関しての説明を始めようとしたとき。

「浮気は絶対に許しません!絶対に!」

食い気味にというより、こちらの話を遮り、瞳さんが言う。おしとややかなイメージからは予想外の怒気を感じた。眞島は直感した。これは・・・。今はこんなにも仲睦まじいこの夫婦にも昔色々あったのだと。それも最近ではないだろう。もしかしたら結婚前なのかもしれない。その証拠に貞顕は明らかに動揺し「まぁまぁ、それは」と苦笑いで乗り切ろうと必死だった。

今は瞳さんも表向き許しているが、心の奥底、脳の記憶中枢の核の部分では今も沸騰するほどの怒りが残っている、そう思った。それは瞳さん自身、普段は意識もしないほどの心の奥底に。

この契約では個々人で違ってくる「どこからが不貞なのか?」を夫婦で合意する必要がある。ここでも瞳さんは熱量高く話す。

「二人きりで話をしたら浮気です。」

「・・・」

眞島は旦那さんと目が合った。

「それはちょっと厳しいかと」と説得し、どうにか「二人きりで食事に行ったら」で合意した。

最後に

「契約期間はどうされますか?三年、五年、十年が選べますが。」

と問うと、

「十年で。」

と、旦那さんが真っ先に答えたので「やっぱ仲いいやん」と安心した。こうして夫婦は無事契約を終え、手を繋ぎ事務所を仲良く笑顔で出ていった。


眞島はこの日の仕事を終え、今し方、太陽から月が主役に変わった薄闇の帰路で、今日の出来事を振り返りながら「帰ったら妻と契約の話をしよう」と微笑むのであった。

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