ホラー短編

海乃めだか

第1話:うるさい隣人

ある日、職場の休憩室で同僚たちがざわついていた。話題は最近様子のおかしい浦脇のことだ。

「浦脇さ、バイクで事故ってから変なんだよな」と誰かがつぶやく。

「隣家の声がうるさいって、ずっとボヤいてるらしいぜ」と別の声。

「文句言いに行って喧嘩したって話だろ?最近じゃバット持って殴り込みに行くとか…ヤバくね?」と皆が顔を見合わせる。

俺は気になって仕方なかった。浦脇は昔から真面目で穏やかな奴だったのに。事故以来、彼の目はどこか虚ろで、笑顔が消えていた。心配がつのり、俺は彼の家の様子を見に行くことにした。

そして、その夜、俺は見た。





浦脇の家は町外れの寂れた住宅街にあった。夜風が冷たく、街灯の明かりが頼りなく揺れている。家の前まで来た時、異様な空気に背筋が凍った。隣家とされる建物は、窓ガラスが割れ、雑草が膝まで伸びた廃屋だった。人が住んでいる気配など微塵もない。

なのに、そこで浦脇は立っていた。手にバットを握り、薄汚れたジャケットが風に揺れている。

「お前ら…黙れ…黙れって言ってるだろ…!」

彼の声は掠れ、怒りに震えていた。そして、バットを振り上げる。空気が裂ける音とともに、廃屋の壁に鈍い衝撃音が響く。だが、誰もいない。返事も、人の気配もない。ただ、風が草を揺らす音だけが辺りに漂う。

「浦脇…何やってんだよ?」俺は思わず声をかけ、近づいた。

彼が振り向いた瞬間、心臓が止まりそうになった。目が血走り、口元が歪んで笑っている。いや、あれは笑いじゃない。歯を剥き出した、獣のような表情だ。

「聞こえるだろ…?隣の奴らの声。笑ってるんだ。俺を…嘲ってる…!」

「誰もいないよ!そこ、空き家だよ!」俺は叫んだが、彼の耳には届かない。バットを振り回し、廃屋の窓枠を叩き割る音が夜に響く。ガラスの破片が月光に光り、地面に散らばった。

その時、風が止んだ。そして、廃屋の中からかすかな音が聞こえた。

「ヒヒ…ヒヒヒ…」

笑い声だ。低く、湿った、喉の奥から絞り出すような声。俺は凍りついた。浦脇も動きを止め、じっと廃屋を見つめる。

「お前…聞こえたよな?」彼が呟き、俺を見た。瞳孔が開ききっていて、白目が異様に目立つ。

次の瞬間、廃屋の割れた窓の奥に、何かが動いた。黒い影。人の形だが、どこか歪んでいる。頭が不自然に傾き、手が長すぎる。そいつが窓枠に手をかけ、こちらを見ていた。笑い声が大きくなり、耳を劈く。

「浦脇、逃げよう!」俺は彼の手を掴もうとしたが、彼は動かない。逆に、バットを握り直し、廃屋へ向かって歩き出した。

「待てよ…お前ら…ぶっ潰してやる…!」

その時、影が窓から飛び出し、浦脇に覆い被さった。叫び声が上がり、そして、沈黙。俺は恐怖で足が動かず、ただ立ち尽くしていた。

翌朝、浦脇の姿は消えていた。バットだけが草むらに転がり、錆びた血のような染みが付いていた。廃屋は静まり返り、まるで何事もなかったかのよう。だが、近隣の住人が後日、こうつぶやいた。

「奴はとんでもないものを盗んで行きました。あなたの心です。」

それ以来、俺はあの笑い声を夢で見るようになった。そして、夜が来るたび、胸の奥が冷たくなる。浦脇はどこへ行ったのか。そして、あの影は何だったのか。答えは、廃屋の闇の中だけが知っている。

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ホラー短編 海乃めだか @medaka2025

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