第7話:強さの形と弱さの意味、初夏の風が運ぶ悩み(前編)
「やれやれ……」
椎名美鈴は額の汗を拭いながら、狭い路地を歩いていた。五月も終わりに近づき、日中の気温はすっかり夏の顔を覗かせている。スーツの下のブラウスが少し汗ばんで不快だ。それとも、この不快感は今日の仕事のせいだろうか。
ため息が自然と漏れる。今日も作家との打ち合わせは難航した。担当している人気作家・霧嶋誠一郎は才能はあるが、締め切りを守らず、編集部の意見も聞かない。先週提出された原稿も方向性がまったく違っていて、修正を依頼したら逆ギレされる始末だ。
(本当に疲れた……)
ふと視線を上げると、見慣れた赤い提灯が目に入った。「たぬき屋」。最近すっかり通いつめるようになった小さな居酒屋だ。不思議と足が向いてしまう。
「ん?」
暖簾の前で立ち止まると、懐かしい気配を感じた。風が路地を抜け、ふわりと頬を撫でる。初夏の風。爽やかなのに、どこか物悲しさを含んだ風だ。まるで誰かの吐息のような。
(今日は一人でゆっくりできるかな……)
そう思いながら暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」
千夏の静かな声が店内に響く。カウンターには、見慣れた背中の男性が一人。
「あら、勇者さん。また来てたんですね」
「おう、椎名!」
元気のいい声で振り返る勇者。彼の前には小さな徳利とおちょこが置かれていた。
「こんな時間からもう飲んでるんですか」
「暑くなってきたからな。熱いうちに冷えた酒が飲みたくなる」
勇者は嬉しそうに笑った。その無邪気な笑顔に、椎名は少し肩の力が抜けるのを感じた。
「そちらもどうぞ」
千夏が椎名の前におしぼりを置き、さりげなく声をかける。
「何にしますか?」
「生ビールをお願いします。あと……今日のおすすめは?」
「鱧の落としがあります。今が旬です」
「鱧ですか。いいですね、それでお願いします」
千夏は頷くと、厨房へと戻った。
「鱧か……良い季節になったな」
勇者がしみじみと言う。椎名はカウンターに肘をつき、少し疲れた様子でため息をついた。
「どうした? 元気ないな」
「ちょっと……仕事のことで」
「ああ、編集の仕事か。大変そうだな」
勇者の言葉に、椎名は少し驚いた。彼は思ったより観察力があるようだ。
「今日、担当作家との打ち合わせだったんです。でも、なかなか意見が合わなくて……」
「そいつは大変だ」
勇者は同情するように頷いた。千夏が戻ってきて、椎名の前にビールを置く。泡がちょうどいい具合についた琥珀色の液体。一口飲むと、冷たさと苦味が喉を通り、疲れた心を少し和らげてくれた。
「あー、美味しい」
「そうだろ? 千夏の注ぐビールは絶品だ。テラルドの王宮で飲んだ最高級の麦酒よりうまい」
勇者は誇らしげに言った。椎名はクスッと笑う。彼の異世界話を聞くのが、最近の楽しみになっていた。リーゼルという魔法使いが本当に現れてから、半信半疑ながらも、彼の話に引き込まれるようになっていた。
「で、その作家ってのは、どんな問題があるんだ?」
勇者が真剣な顔で尋ねてきた。意外なことに、この異世界帰りの勇者は人の悩みを聞くのが上手い。田村の仕事の悩みにも真摯に向き合っていたし、何より彼の話には奇妙な説得力があった。
「才能はあるんですけど……言うことを聞かないんです。こちらの意見を全然取り入れてくれなくて」
「なるほど。『俺の創作に口出しするな』ってやつか」
「そうなんです。でも雑誌の企画がありますし、読者層も考える必要があって……」
椎名は言葉に詰まった。これまで何度か似たような作家を担当してきたが、今回のケースは特に厄介だった。霧嶋誠一郎はこれまでのヒット作で自信過剰になっており、編集部への反発心も強い。
「テラルドにも似たような奴がいたよ」
ビールを飲みながら、勇者はポツリと言った。
「誰ですか?」
「ああ、『炎の四天王』フレイムロードだ」
椎名は思わず笑った。また四天王の話か。彼の中では、四天王は何かと例え話に使われる便利な存在になっていた。
「フレイムロードも『言うことを聞かない』タイプだったんですか?」
「ああ、そうとも言える。あいつはプライドの塊でな、自分の力を過信していた。『炎の力こそ最強だ、他は認めん』ってな」
勇者は腕を組んで、遠い記憶を辿るように目を細めた。
「それで、どうやって対処したんですか?」
「正面から戦っては勝てなかった。あいつの炎は強すぎてな」
「それで?」
「俺たちは『炎の消えた後』を狙ったんだ」
「消えた後?」
椎名は首を傾げた。千夏が二人の前に小鉢と小皿を置いた。お通しのおひたしと、小さな豆腐の冷奴だ。勇者は豆腐を一口食べてから続けた。
「フレイムロードの炎は強力だが、一度に使える時間が限られていた。だから俺たちは彼の炎が消えるタイミングを見計らって攻撃したんだ」
「なるほど。弱点を突いたんですね」
「いや、それだけじゃない」
勇者は真剣な表情で椎名を見た。
「重要なのは、彼の『強さ』を否定しなかったことだ。その強さを認めつつ、別の視点から対応策を考えた」
その言葉に、椎名は少し考え込んだ。霧嶋誠一郎の才能自体は素晴らしい。否定するべきではない。だが、その才能をどう活かすか、方向性を一緒に考えることも編集者の役割だ。
「お待たせしました」
千夏が鱧の落としを持ってきた。清潔な白い皿に、薄く引かれた鱧の身が美しく盛り付けられている。梅肉と酢橘を添えて、飾りには新鮮な青紫蘇が一枚。その見た目の涼やかさに、椎名は思わず息を呑んだ。
「美しい……」
「鱧の骨切りは千夏の腕の見せどころだからな」
勇者が誇らしげに言う。千夏は淡々としているが、わずかに頬が赤くなったような気がした。
「いただきます」
椎名は一切れを取り、梅肉を少しつけて口に運んだ。柔らかな鱧の身が口の中でとろけるように広がり、梅の酸味が爽やかなアクセントになっている。
「美味しい……こんなに繊細な味、初めて」
「だろ? テラルドの『霧の湖』で獲れる白魚を思わせる透明感だ。あれも骨が多くてな、さばくのが一苦労だったんだ」
勇者も鱧を一切れ取り、酢橘をかけて口に入れた。
「うめぇ! やっぱり千夏の包丁さばきは魔法並みだな!」
素直な感想に、千夏は小さく頷いた。カウンターを拭きながら、彼女もちらりと椎名を見る。
「椎名さん、編集のお仕事は大変なんですね」
「ええ、でも好きでやってますから」
椎名は苦笑いを浮かべた。確かに好きでこの仕事を選んだ。だが、今日のような日は、自分の無力さを感じてしまう。
「俺が勇者だった頃もそうだったな……」
勇者が突然、しみじみとした口調で言った。その声には珍しく、少し弱さが混じっている。
「何がですか?」
「『強さ』について悩んだことがあったんだ」
椎名は興味深そうに勇者を見た。今日の彼は少し違う。いつもの豪快な語り口ではなく、どこか内省的な雰囲気がある。
「私も今日は、自分の弱さを感じて落ち込んでるんです。作家さんに言い返せなくて……」
椎名は素直に認めた。勇者はゆっくりと頷き、酒をちびりと飲む。
「強いということは、必ずしも正面から押し通すことじゃない」
「どういう意味ですか?」
勇者は鱧を指さした。
「この鱧を見ろよ。骨だらけで、そのままじゃ食えない魚だ。でも千夏の繊細な包丁さばきのおかげで、こんな美味い料理になる」
千夏は無言で酒を温め始めた。しかし、その仕草には少しの誇らしさが見える。
「強さってのは色々な形があるんだ。テラルドにいた頃、俺はそれを知らなかった」
「勇者さんが? でも、すごい強い魔法とか使えたんでしょう?」
「ああ、剣術も魔法も、それなりに使えた。でも、それだけじゃ足りないことに気づくまで、随分と時間がかかったよ」
勇者の表情が柔らかくなる。
「強さを教えてくれたのは、リーゼルだったな……」
「リーゼルさん? 前に会った魔法使いの方ですか?」
「ああ。あの『紫眼の魔女』だ」
勇者は遠い記憶を思い出すように、目を細めた。
「若かった頃の俺は、ただ力が強ければいいと思っていた。敵を倒せれば、それで良しと」
椎名はビールを飲みながら、勇者の話に耳を傾けた。酒を飲むことと、話を聞くこと。どちらも疲れた心を癒すのに効果的だ。
「それで、リーゼルさんに何を教わったんですか?」
椎名の問いに、勇者は遠い目をして答え始めた。
「それはな、俺たちが精霊の森で迷子になった時のことだった……」
***
つづく
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